犬と盆暗




「……暇だなぁ…」
 翌日。自分の和服を淡々と畳む兄貴の傍ら、俺は縁側の上の方で気まぐれに音を鳴らす風鈴をぼんやり眺めていた。
 兄貴のそばにいれば何かしら雑用を押しつけてもらえるかと思っていたが、そもそも兄貴が暇を持て余しているので頼まれごとをされる筈もない。予定のない一日というのは時間の進みがやけに遅くて、眠くもないのに欠伸が出る。
「たまにはテメエの部屋に帰って掃除でもしてきたらどうだ。どうせ汚えんだろう」
兄貴が横目で俺をちらりと見てそう言う。もちろんそれは図星だった。
 月に数回、下手したら一度も帰らないことだってある自分の部屋は、洗濯してないままの服や下着、捨てるのが面倒で放ったらかしのゴミなんかでとっ散らかっている。勝手に通帳から引き落とされる家賃を思うと少しもったいない気もするが、だけど解約するのもかったるくてもう長いことそのままだ。
「無駄に遠いんでさ、こっから。帰る気にならねえんだよ」
「虫が湧いてるかもしれねえぞ」
兄貴の言葉に思わず「うげえ」と声が漏れた。もしかしたら本当にそうかもしれない。なんなら部屋の隅にはカビが生えている可能性だって。
「ますます帰る気にならねえな…」
「……」
兄貴は溜息と共に俺を睨んだ。この人は綺麗好きだ。だからこうやってだらしのない俺を蔑んだ目で見てくることがたまにある。鼻の下を擦りながら「ひひ」と笑うと、手の甲で軽く頭を叩かれた。
 そういや、と思い出す。横田の部屋はボロい割に存外散らかっていなかったことを。
 決して快適な空間とは言い難いが、汚いという印象は一切抱かなかった。私物やゴミが散らかっていることはなく、煙草を吸っている筈なのに匂いやヤニ汚れも部屋の中にはなかった気がする。
 あんな顔をして、もしかしたら掃除や洗濯が割かし好きな性分なのかもしれない。だって俺のシャツもわざわざ、頼んでもねえのに洗濯してやがったもんな。
 横田があの部屋で一人黙々と掃除している様子を想像する。少し笑えてしまった。似合わねえ。似合わなすぎだ。冗談か何かか。
「…何ニヤニヤしてんだ児島」
兄貴が怪訝な顔をするので、俺は緩む口元を慌てて整えた。せっかく兄貴と二人のんびり過ごせる貴重な時間だ、奴のことを考えるなんてもったいねえにも程があるな、やめだやめ。
「…児島」
静かに俺を呼んでから兄貴は最後の一枚を畳み終え、服の山の上にそっとそれを置いた。俺は胡坐をかきながらその山をぼんやりと見る。どうやったらこんなに綺麗な正方形ができるのか。不思議だ。
「へい」
笑って返事をすると、俺の声色より随分低い音 声で兄貴は続けた。
「なにか隠し事してんじゃあねえのか、テメエ」
視線を、服の山から兄貴へと移す。兄貴は俺を睨むでも見透かすでもなく、ただじっと見ていた。
「…え、なんでですかい」
前にも言ったが俺は誤魔化すことがめっぽう苦手だ。口の端はぎこちなくしか持ち上がってくれなかったし、浮かんでしまった横田の顔を兄貴に気づかれぬよう追い払うのも、俺には至難の技だった。
「言いたくねえなら別に、それはそれで構わねえが」
「何言ってんだ、やだなあ、隠し事なんか俺ぁ…」
「……」
その時だ。突然、電話番をしていた若造が「失礼しまっす」と断りを入れ、襖の向こうから顔を覗かせた。
「すんません風間の旦那、会長さんから電話っす」
「おう、わかった」
兄貴はそう答えるとすぐさま立ち上がり、最後に小さく俺に目配せをした。
「おう児島」
「へい!」
「悪ぃがそこの服しまっておいてくれるか」
今日やっと与えてもらえた雑用に一瞬喜びかけたが、いやしかしどんなに丁寧にやったところでそんなもん二分もありゃ終わってしまうだろう。俺は慌てて背中を向けようとする兄貴に催促をした。
「他には
「他ぁ?ねえよ」
「ええ〜!頼むよ兄貴、何でもいいからさ」
「じゃあ自分の部屋の掃除してきやがれ」
「え」
兄貴はそう言っていよいよ部屋を後にしてしまった。
「…部屋の掃除…」
一人取り残され、頬をポリポリかきながら言い渡された仕事を復唱する。自分の部屋の掃除か。うーん…掃除ねえ。
「…さーて」
俺は重たい腰を上げ、腕を組んだ。
「見回りでも行くとするかァ」
ちなみに、いくら兄貴からの依頼と言えど、俺にだってできない仕事はあるのである。

 ピークは過ぎたがお天道様の照った外はまだまだ暑い。胸元がジワジワと蒸れていくのが鬱陶しくて俺はスラックスのポケットに入れていた扇子を取り出した。それと同時に何かがこぼれ落ちる。振り返るとアイスの棒が足元にあった。
「……」
じっと見下ろしながら、奴のことを脳裏に描く。
 今頃何をしているだろうか。まさかまた熱出してぶっ倒れたりなんかしてねえだろうな。いやでも、どうせ冷蔵庫ん中に六十円のアイスしか入れてねえようなアイツのことだ、不摂生な毎日を過ごしているに違いねえし、その可能性はなくもない。
「………」
今度は棒を拾い上げて当たりの文字をじっと見つめる。
 当たっちまったアイスの棒がここにあるんだから、きっとこれは仕方のないことなのである。だって借りを返さないままでいるのも何だか気分が悪りぃし…まあなんだ、あれだよ、テメェにゃシャツを洗濯されたりアイスをもらったり、いろいろ借りがあるからよ。相手が誰だろうと借りたもんは返すってのが、俺の仁義だから。うん、そうだよ、仕方ねぇ。
 だから、当たりの棒と引き換えたアイスを持っていって、礼を伝えに行かなきゃならない。言っておくがテメェに会いたいとかそういうことではない、断じて。俺の仁義を貫くためだ。二度と会いたくねえが、本当に不愉快極まりねえが、まあなんだ今日はそもそもやることがねえしよ。こちとら時間を持て余してんだよ。だからよ、ついでだよついで。
「…ったく、しょうがねえ…」
ウンザリしながら溜息を吐く。誰に見られている訳でもないのにわざわざそんな小芝居を一人挟んで、横田の家へ向かうため電車に乗った。
 アイスを引き換えるのと一緒にそうだな、炭酸でも買っていくか。別に差し入れって訳じゃねえけど。…あれだよほら、財布の中の小銭が重くて邪魔だから。

 駅を出てすぐの場所にある駄菓子屋に入って、店員の爺さんに当たりの棒を引き換えてもらった。それからついでに二本で百円のサイダーも買っていく。
「はい。それじゃアイスと、こっちは二本で百円ね」
「おう、どうもな」
商品の入った袋を受け取ると、なぜか爺さんは嬉しそうに微笑んでみせた。
「児島くん、やっと当たったじゃないか」
「うん?」
「一度も当たった試しがないってこの前ぼやいてただろ?良かったね」
「…あー…」
確かに少し前、そんなことをぼやきながらアイスを買ったような気がする。独り言のつもりだったがそうか、聞かれてしまっていたんだ。
「…まあな。日頃の行いが良いからよ」
「はは。その割にはなかなか当たらなかったねえ」
「だーっもう!うるせえ神様がよそ見してたんだよっ!」
俺の言葉に爺さんはおかしそうに笑った。笑ったついでに「児島くんはつつくと良い反応するね」なんて言いやがる。…ったく、どうしてこうもからかわれてばかりなのか。まったくの謎だ。

 細い路地へ続く曲がり角、そこを越えれば横田のアパートがある。すっかり歩き慣れてしまった道を足早に進むわけは、早く会いたいとかそういうことでは決してない。急がないとアイスが溶けちまうからだ。本当にそれだけだ。
 少し息を乱しながらアパートの階段を登る。登り終わってから、そういや音がうるさいと言われたんだと思い出した。…まあ確かに、静かではねえかもしれねえけどよ。テメェの顔思い出すと腹が立って動作が雑になるんだ、仕方ねぇだろ。
 横田の部屋の前で立ち止まり気合いのガンを飛ばすと、まだドアを叩いていないのに中から奴が現れた。
「…だからうるせえ」
ドアの隙間から顔を覗かせた途端、横田が眉を歪める。俺はサングラス越しに睨みをきかせ「おうこら」と挨拶がわりにメンチを切った。
「…今日はなんだよ、クソ犬」
横田の質問に、言葉ではなく駄菓子屋の袋を見せることで答えるが、どうやら伝わらなかったらしい。横田は顔の前に持ってこられた袋と俺の顔を見比べながら「あ?」と言った。
「…当たりだったんだよ」
「はあ?」
「だから、テメェからこの前もらったアイスが!当たりだったんだよ!」
横田は袋の中身を確認し数秒黙り込んだかと思うと、何故だかその後唐突に吹き出した。
「…あぁ?何がおかしいんだよクソ野郎!」
「くく…はあ…お前、もしかしてあれか」
「…なんだよ」
「俺に惚れてんのか?」
「はっ
横田のセリフに、俺の口から今世紀最大のデカい声が飛び出した。
「なっ、なっ、なに抜かしてんだテメェッ
「タコみてえに赤ぇぞ」
「赤くねぇっ
「あー相変わらずうるせえ。テメェと喋ってると鼓膜がいくつあっても足らねえな」
「テ、テッ、テメェが意味わかんねえことほざくからっ…」
「冗談に決まってんだろアホが」
横田がそう言いながら背を向けて「あがれよ」と付け足す。俺は怒りと衝撃を爆発させたまま言われた通り部屋の中へ入った。本当に、本当にあり得ねえ。コイツの頭には蛆が湧いているに違いない。
 横田が窓のそばの壁を背もたれにして胡坐をかく。俺は近くに寄り過ぎないよう微妙な距離を空け、同じように胡坐をかいた。
「おら、アイスは」
横田が偉そうにそう言うから、俺は袋の中から乱暴にアイスを取り出して投げつけた。うまいこと片手でキャッチして、横田はその包装を歯で千切って中身を頬張る。
「……」
変なの。あの横田が六十円のアイス食ってら。趣味の悪い柄物のスーツ着て葉巻をふかしてた姿を思い出しながら、まるであの頃とは別人だなと思った。
 ひび割れた砂壁。狭い六畳。くたびれたタンクトップ。荷物のように投げ出された左腕。そのどれもこれもがあの頃のテメエとあまりに違う。違いすぎて、昔のテメェを忘れそうになる。
「おら、犬は棒が好きだろ」
早々に食い終わった横田は、そう言ってアイスの棒を俺の方へ投げた。何べん言えば分かるんだこのクソ野郎。だから俺ぁ犬じゃねえって言ってんだろうが。
「おい児島」
「…んだよ」
「お前煙草持ってねえか。今切らしててよ」
…クソ。腹立たしいが今日は借りを返しに来てるんだしな。非常に癪だが、一本くらいなら寄越してやるか。
「…っち」
 いつも煙草を入れてる胸ポケットに手を伸ばしてアイスと同じように投げてやる。横田はそこから一本抜き取り口に咥えると「ん」と言って、箱を俺に投げ返した。
「……」
窓のサッシに置かれたライターで火を点けて、外に向かって煙を吐く。きっといつもこんな風に、この部屋で一人の時間を消費してるんだろう。絶景とは程遠い景色を見つめながら、ただぼんやりと、口から煙を垂れ流して。
 横田を見ていたら自分も吸いたくなったので、箱を揺らして一本抜き取る。すると横田が俺の方をジロリと睨み「おい」と声をかけてきた。
「そこで吸うなよ」
「あん?」
「部屋ん中で煙吐くな。吸うならここで吸え」
横田が親指で自分の隣を指差す。ああそうか、どおりでこの部屋はヤニの臭いがしねえんだ。合点がいくのと同時に、やっぱりコイツは顔に似合わず綺麗好きなのかもしれないと思った。
「…っち」
少し隙間を空けて、けれどさっきよりも横田の近く、窓の外に煙を吐ける位置に移動する。最初の一口を吸い込んだ途端、一服するのがやけに久しぶりに感じた。この前最後に吸ったのは、そういえばいつだったか。
「……」
横田をぼんやり盗み見た。窓の外を眺める瞳がずいぶん鈍った色をしてるから、今その目に何を写しているのかもよく分からない。あの頃より多分、少し痩せた。たいして整えられていない髪や髭が、どうしたってこいつの印象を変えてしまう。
 寂しそうに、見えた。どうしてそんなことを思ったのか。…分からねえが、俺はその時横田のことを、捨てられた犬みたいだと思いながら見ていた。
 そしたら前触れもなく横田が俺の方に目を向けるもんだから、ちくしょう見てたのがバレた、最悪だと思った。ふざけんなよ、なんでこのタイミングでこっちを見るんだよ。
「…悪くねえな」
「……」
こっちを見たまま横田がほんの少しだけ笑う。俺は、言葉の意味が分からなくてひたすら動揺した。え、わ、悪くないって、な、何が。
「初めて吸った。思ってたより旨い」
吸いかけのハイライトを少しだけ持ち上げて横田はもう一度笑う。俺は言葉の意味をその時やっと理解した。な、なんだビックリした、そうか煙草か。俺のこと見ながら言うからてっきり…いやてっきりってなんだ。
「…なに変な顔してやがる」
「…べ、別に」
「もしかして俺に見惚れてたか」
「別に
横田がおかしそうに笑う。テメェは笑うと目尻に皺ができるんだと、その時初めて知った。
 さっきから自分の思考が変な方向へ行こうとするから嫌だ。仕切り直すべく、アイスと一緒に買った炭酸を袋から取り出す。流し込むように煽ると、横田が「俺のはねえのか」と口を挟んだ。
「っち…おらよ」
「なんだよあんのかよ」
「あ、あったら悪ぃのかよ!」
「…ふ」
まただ。なんだよ、何で今日はそんなに笑う。なんか楽しいことでもあったのかよ。別にテメェに楽しいことがあろうとなかろうと、俺ぁどうだっていいけど。
 並んで一緒に炭酸を飲む。二個で買うと百円になるから、という補足は口にしないでおいた。お揃いを分け合ってるみたいで妙にこっ恥ずかしかったから。
 横田は炭酸の入った瓶を畳の上に置いて、それから灰皿に引っ掛けた煙草に持ち替えた。片手しか使えないからそうするしかねえんだろう。一連の動作を見ながら、ずいぶん不便そうだなと俺は思う。
「…お前、暇だな」
「…あ?」
「毎度毎度こんな所で油売っててよ。飼い主は何も言わねえのか」
横田の言い方に少し腹が立って、俺は舌打ちしながら「飼い主じゃねえ」と言った。
「兄貴のことは「風間さん」って呼べやクソ野郎」
「まあこんな駄犬がどこで何してようが気にならねえか」
「だから!俺ぁ犬じゃねえ!」
「うるせえ声がデケえ」
聞き飽きたセリフに心底うんざりした。苛々しながら煙草の火を消して炭酸を喉に流し落とす。ちくしょうテメェが頭にくることばかり言うからだろうが。誰も好きで声を張ってる訳じゃねえんだよ。
「…何でお前みたいな使えねえのを傍に置いてんだろうな風間は。理解に苦しむ」
横田がまた喧嘩を売るようなことを言ってくる。が、流石に俺も学習した。どうせここで買ってやっても「うるせえ」と嫌な顔をされるだけなのだろう。俺は大きく息を吸い込むのをやめ、代わりに「は」と小さく鼻で笑った。
「そりゃあ分かんねえだろうよ。テメェなんかと違って兄貴は人情深いお人だからな」
「…わかった、さては後ろの穴貸してやってんだなお前」
「はっ、はぁっ
前言撤回。やっぱりだめだ。頭に蛆が湧いたようなコイツの発言に冷静に返してやるなど、できる訳がない。
「…あー…まあ俺も確かに、一発くらいならお前で抜けるかもしれねえ」
「なっ…おっ、おまえ、あっ、頭腐ってんじゃねえのか
驚いて思わず叫んだが、それと同時にうっかり炭酸を手から滑らせてしまった。気付いた時にゃもう遅い。盛大にぶちまけてしまった中身は畳と、それから近くに敷いてあった万年床の隅っこを汚した。
「…あぁ?…っにしてんだよクソ犬てめぇ
あまりの怒声に耳の奥がビリビリする。な、なんだよ、そんな急に声張り上げなくたっていいじゃねえか。
「だ、そ、そっちが意味わかんねえこと言うから…!」
「っるせぇとっとと雑巾濡らして持ってこい
「ど、どこにあんだよ
「流しの下だよ早くしろ
アパート中に響き渡るくらいの声で横田が怒鳴る。俺は慌てて台所まで走り、流しの下の扉を開けた。中はやっぱりきちんと片付けられていて、手前には恐らく横田が自分で付けたんだろう。突っ張り棒が一本張られていた。
 その一番端にかけられていた雑巾を取って、流しで濡らしてから横田の元へ持って行く。横田は眉間にしこたま皺を寄せながら畳の濡れた部分をポケットティッシュで叩いていた。
「…これ、雑巾」
隣にしゃがんで差し出すと、とんでもなくデカイ舌打ちをされた。
「こんのクソが…それで布団のとこやれ、早く」
「わ、わかった」
敷布団の汚れた部分を擦ると、すかさず「馬鹿野郎」と怒号が飛んできた。
「擦るんじゃなくて叩くんだよナメてんのか
「ナ、ナメてねえよ!」
「口動かしてねえで手ぇ動かせこのクソ犬
一向に収まらない横田の怒気にたじろぎながら、言われた通りシミを上から叩く。何度もしつこく叩いていたら汚れはだいぶ取れた気がするが、今度は代わりにその部分がションベンを漏らしたみたいに濡れた。
「落ちたか、じゃあ雑巾こっちに貸せ」
「お、おう」
畳の目に沿って雑巾を丁寧にかける横田は真剣そのもだった。デカイ図体を折り曲げて、食い入るように炭酸がこぼれた箇所を見ている。…本当に綺麗好きらしい。もしかしたら、兄貴よりも。
「なにアホヅラしてやがる、とっとと干せ馬鹿」
「え…あ、布団を?」
「それ以外ねえだろしばくぞ…」
もはやその眼差しには若干の殺意も含まれてるんじゃねえか。内心たじろぎながら、俺は黙って布団を半分ほど窓の外へぶら下げた。
 畳を粗方綺麗にして、横田がやっと息を吐く。盗み見た背中からほんの僅かに怒りが消えた気がして、俺も密やかに詰めていた息を吐き出した。
「…信じ難い愚図だなてめぇは」
「…わ、悪かったよ」
「要領も悪ぃし馬鹿で鈍間でそのくせうるせえ…なにか?頭ん中にクソでも詰めてんのか?」
「うるせえな謝ってんじゃねえか
「はあ…風間の気が知れねえ…本当になんでこんなクソ犬を…」
怒鳴られるより頭を叩かれるより、こうやってげんなりされる方が精神的なダメージがでかい。横田がいちいち長ったらしい溜息を吐いてみせるから、俺は余計に落ち込んだ。だから、悪かったって。そんなあからさまに肩落とさなくったっていいじゃねえか。
「……はあ、疲れた」
干された敷布団にドカリと背を預けて、横田は項垂れた。
「…へ。疲れさせて悪かったな」
「ああ本当にな。土下座しろ」
「だから謝ってんだろうが!しねえよ!」
なんだよ、さっきまであんなに笑ってたくせに。見たことねえ顔見せてきたくせに。目尻に皺を作って、案外優しそうな顔で、笑うくせに。
 開きかけていた何かが閉じられてしまったような気がした。…面白くねえ。それが自分のせいだと分かるから尚更だった。
「…いいよもう。バァカ…」
頭を埋めた両膝の中にそんな、どうしようもない愚痴が落っこちる。馬鹿は俺だ。テメェの言動一つ一つに振り回されて、テメェなんかで頭ん中いっぱいにして、空回りばかりする。…みっともなくて、目も当てられねえや。
「…まあ、でも」
隣から呟きが聞こえ、膝の隙間からチラと横田を見る。俺の視線に気づいているのかいないのか、横田は 頭の後ろを掻きながらそっぽを向いた。
「久しぶりに干せたのは悪くねえ」
「……そうかよ」
「お前、毎回ここ来たら干せ」
「は?誰がそんな面倒臭ぇこと…」
「それで今日のことチャラにしてやるっつってんだよ。いいからやれボケ」
「やる訳ねえだろそっちこそボケてんじゃね」
突然、横田の右手が伸びてきて両頬を思い切り掴まれた。そのまま顔を潰されるんじゃねえかと思うような力に慌てて手首を掴むが、横田の右手はビクともしない。
「おら、返事は」
「…い、いだっ…なん…」
「返事」
いよいよ頬に穴が開きそうになり、急いで首を縦に振った。横田が満足そうに顔から手を離した時俺は既に涙目だった。両頬がジンジンする。
「滞在料だ。必ずやれよクソ犬」
なんでそんなにしつこく念押しするんだ、なんなんだよクソが。…いてぇ。
「よし。じゃあ用は済んだなクソ犬。帰れ」
悪びれる様子などこいつには微塵もない。かったるそうな顔で、虫を払うように手の甲を揺らして俺を追い出そうとする。
 心底ムカついた。なんだって俺はこんなクソ野郎の為に手土産ぶら下げてここまで来ちまったのか。クソ犬呼ばわりされて、おちょくられて怒鳴られて、どうしてこんな風に締め出されなきゃいけねえのか。
「…言われなくても、帰る」
「おう、そうか」
「二度と来ねえ」
「おう、じゃあなクソ犬」
引き止められることもない。…別にいい。その方がいい。こんな野郎に縋られたって迷惑なだけだ。
「……バァカ
部屋を出て行く時、最後に思い切り中指を立ててやった。靴を乱暴に履いて、扉を乱暴に閉めて、階段を乱暴に降りる。今もし横田が俺を追って「待てよ」と呼び止めてきても、絶対に振り返ってやるもんか。何度名前を呼ばれても、例えば腕を掴まれたとしてもだ。
 だけど、いくらその瞬間を思い描いても背後から扉の開く音がすることはなかった。何も起こらないそのひと時に俺はますます腹が立つ。胸ポケットからハイライトを一本取り出し、前歯でフィルターを強く噛んだ。
 火を点ける前、ハイライトを吸いながら笑ったテメェの顔を思い出してしまった。
 なにが「悪くねえな」だよ、最悪なんだよボンクラ野郎。二度と来ないって言っちまったじゃねえかクソッタレ、これじゃあ次に来る時どんな顔をしたら良いのか分からない。
 だってよ、だって俺は、目尻に皺が寄るところをまた、もう一回くらい。
 口から出そうになったセリフを、舌打ちしながらフィルターと一緒に吸い込んだ。





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