呪術廻戦 | ナノ

クローリング・ケイオス



院内は薄暗く冷えびえとしている。長く伸びるビニル床の靴底に貼り付く様な独特の感覚。かつては荘厳で清潔な建物だったであろう病院は見る影もない。息絶えた頑健な建物の腹の中を二人で進む。

「なあ、何かおかしくないか」
「虎杖も何か感じる?」
「も、って事は名前も感じてるんだな」

肌に纏わり付く澱んだ気配。
夏の日に誰かと手を繋いで歩いた夜市の外れで、遠くに祭り囃子を聞きながらふいに懐かしさと孤独に襲われて鼻の奥がつんとする様な儚い心持ちになる。

虎杖が私の手を軽く引いて「何か来る。気を付けろ」と言った。

突然、辺りに薄ぼんやりとした灯りが浮かび上がる。ずらりと並ぶ提灯や行燈の様に長廊下に沿って次々と光が灯って行く。

「どう見ても罠だよね?」

私は横目で虎杖の表情を伺う。

「2名様ご案内ってか。行くしかないよな」
「うん」
「何が居るか分かんねぇから、すぐに使える準備しとけよ」
「了解」

攻撃出来ない分せめて虎杖を煩わせない様に、促されるままを発動させた。瞳に蓮の花の曼荼羅が浮かび上がる。

私達は誘蛾灯に誘われる虫の様に、また、漁り火に群がる魚の様に、灯りに釣られて廊下を掛けて行く。暫くすると人工的で無機質な長廊下が終わった。立ち入りを阻む様に行儀良く並ぶポールパーテーションを二人で飛び越えた。その先の暗く重い扉を虎杖が駆けて来た勢いそのままに開く。

闇。
闇が――白む。

何が起きた?!

虎杖が倒れている。私は膝を付き虎杖の脈を測った。良かった。ちゃんと息をしている。気絶しているだけの様だ。しかしドアの開けざまに虎杖を張り倒すなんて、低級呪霊の仕業とは思えない。

相手の姿は見えない。でも見えなくてもそこに"在る"のなら干渉出来る筈。私は闇の中心に目標を定めて生得領域を展開させた。

「何これ」

高熱でうなされている時に見る夢。空想の怪物に襲われる悪夢。法則も規則も無視した混沌。今までで干渉したそのどれよりも――宿儺の生得領域よりも――恐ろしい光景。

「タス…ケテ……タス…ケ、テ」

空間の中心には酷く暗く虚ろな闇が穿たれている。そこから啜り泣きの様な声音が絶えず響いてくる。私はその声に向けて手を伸ばすが、空間が奇妙に歪んでいてあと僅かで触れられそうで、永遠に届かない様な目眩にも似た狂おしさ。これでは情緒の改竄どころではない。

「タス…ケ、テタスケテタスケテタスケテタスケテダスケデダズゲテダズゲテッていッテルのにィィィ」

頭蓋を握られる様な感覚と共に頭の中に絶望と懇願の絶叫が流れ込んで来る。これ以上は生得領域を展開し続けられない。私は一旦生得領域を閉じた。

闇。
だが確かに何かが居る。

再び闇が――白む。
轟音。呪力の塊が私達に向かって隕石の如く降り注いで来た。私にはのおかげで掠りもしない、が、虎杖は違う。意識の無い虎杖を何とか攻撃から守らなければ!どうする?どうすれば良い?心無で宿儺に…駄目だリスクが有り過ぎる。

私が虎杖を庇う様に覆い被されば、私目掛けてきた攻撃は回避出来る分、虎杖のダメージは減る。でもそんなの根本的な解決にならない。

「虎杖、起きて虎杖」

虎杖の意識を呼び戻そうと身体を揺する。その間も闇から手当り次第に呪力の塊が撃ち込まれてくる。

「困り事か?」
「アナタじゃない!」

虎杖の閉ざされた瞼の下、頬が裂けて宿儺が現れた。

「だがこのままでは小僧は死ぬぞ。オマエの術式で俺に代わらせろ。あんな虫けら一瞬で刻んでやる」
「駄目。外には七海さん達が居る」
「ケヒッ…ヒッ…気付いてないのか?貴様らが降ろした帳の下に別の帳が降りている事に。この建物の中に帳が降ろされている」
「じゃあ、私達の状況は外に伝わってないって事?」
「餓鬼の手には終えん。知っていれば飛んで止めに入るだろうな。賭けても良いが、助けなど来ぬ」

でも、宿儺に始末させれば虎杖が宿儺を制御出来ないと判断されてしまうのではないか。

「虎杖が死ぬとアナタも困るから気紛れで人助け?呪いの王がそんなタマじゃないでしょ」
「図に乗るなよ小娘が」
「私を他の女と一緒にしないで」
「他の女だと?」

宿儺の声音に怒気が篭もる。

「覚えておけ。俺が他の女をどう扱うか知ってるか?俺の許可無く話などさせん。そして次に刻む。分かったか」

分かる訳がないでしょ。呪いの王の快と不快の指針なんて。

「私はそんなの望んでない」
「オマエに望まない権利など無い。獰猛を手懐けられると思っているのは痴れ者ばかりだ。オマエはどうだ?オマエは分別のない井蛙か?」
「分別があるから今はアナタに代わらせる訳に行かないって言ってるの!何やらかすか分からないもの!」

宿儺は一瞬沈黙して、次に裂けた口元を憎たらしく歪めて愉悦の言葉を吐いた。

「そうら、来るぞ」

敵も攻撃に本腰を入れて来た訳ね。私に許された判断の時間はほんの一瞬。宿儺に代わらせるか、または――。

人は、極限状態で次の段階に進化する可能性がある。アスリートで言うゾーン。もっと身近な例えならば徹夜した時、眠気を通り越してむしろ調子が良くなり頭が冴え渡っている時の様な状態。ハイになっていた。

私は、虎杖の前に立ち塞がった。

瞳に浮かぶ蓮の花が発光し咲き乱れて行き私の呪力が闇を帯びていく。攻撃を持たぬ代わりに、私の黒閃は――敵の攻撃を無効化する。

「ほう、ここに来て火事場の何とやらか」

宿儺は私を焚き付けるのを止めて傍観を決め込んだのか、そう言うと引っ込んで大人しくなった。

私には攻撃力がない。呪具を用いても呪霊を払えないという縛りは破れない。ならば、唯一私が持ち得るものでこの場を切り抜けるしかない。

闇が白む。白む所か激しく発光している。歪な形が、浮かび上がる。あれは人?呪霊?とにかく大技が来る。

それならこちらも。今なら出来る筈。

「領域展開・不死曼荼羅

話にならない。私の領域展開は未完成も未完成で、酷く不格好。でも今はそれでも上等。そう、領域内の攻撃は必中。でも私は攻撃を持たないから、全ては守りにパラメーターが振られる。不死曼荼羅内では誰も傷付かない。つまり、誰も死なない。味方も、敵すらも。敵も傷付かないという縛りで生命への不可侵を強制する。

終焉は突然訪れた。

帳が上がって行く。私達を包んでいた闇は滲んで溶け出し、やがて消えた。敵は逃走したのだろうか。姿形も見当たらない。

「んっ…」
「虎杖!良かった目が覚めて」
「アアッ、俺また寝てたのかよ!ってか、名前が倒したのか?」
「いや、逃げられたみたい」
「でもスッゲーよ。おかげで助かった」
「早く戻って七海さん達に落ち合おう。報告しなきゃ」
「応」

私と虎杖は病院の外に出た。外は酷く眩しく感じた。

「伊地知さん!あれ、七海さんは?」
「ああ、無事で良かったです。七海さんは院内から現れた呪霊の気配を追って行きました」
「すみません、逃しちゃいました」
「俺なんか気絶してただけっス…」
「謝る事はありません。私も逃げられました」

背後から心地よい低音が聞こえて、振り返ると七海さんが立っていた。

「院内にも帳が降ろされていました」
「完全に罠に嵌められた訳ですね。私とした事が君達を危険に晒してしまった」

私の報告に七海さんが厳しい表情を作る。

「でも、お陰で会得出来そうです。領域展開」
「マジかよ〜!スゲーな名前。ただ寝てた俺って一体」
「虎杖が寝てたお陰なんだけどね〜」
「何だそりゃ」

虎杖の笑顔に釣られてこちらも思わず笑う。いつも冷静で、大人オブ大人の七海さんも、ほんの僅か、口角をあげた。

「帰りに何かご馳走しましょう」
「「やったー!!」」

二人同時に歓声を上げると、七海さんが至って冷静な声音で「名字君のお祝いですが?虎杖君、きみ、寝ていただけですよね」と揶揄されて「う、図星」と言葉を詰まらせた。

「冗談です。伊地知君、寄り道して帰りますよ」
「承知しました」

*

「先に暇してすまなかったね、真人。高専関係者に私の姿を見られる訳にはいかないからね」

廃病院から遠く離れたとある場所で、ツギハギだらけの男と額に縫い目のある男が何やら会談している。

「別にいいよ、面白いモン見られたし」
「実験はどうだった?」
「俺の改造人間に呪霊を寄生させてもある程度使えるのは分かったけど、あんま長持ちしないしコスパ悪いね」
「そうかい。攻撃力のない猿なのか術師なのか分からない女はどう思う」
「こちらの攻撃はまず効かない、多分夏油でも無理だ。でも、虎杖悠仁を通り越して宿儺と悪くない関係を築いている」
「へえ。じゃあ、いずれは何かに役立つかもしれないな」


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