ぜろいの | ナノ


◆怖い夢を見た  




 夜中の廊下は、何もない場所だった。治癒はなぜかそこにいることに気が付き、ぼんやりと空中を見る。どうしてここにいるのだろうか。そうだ、と思った。――怖い夢を見たのだ。
 部屋が怖い夢だった。同室の少女は現在家に帰っているらしく(どうやら何かトラブルがあったらしい。一時帰宅という処置をとっているのだ)、ひとりで眠るのが酷く怖いと思いながら眠って。そして。
 怖い夢を見たのだ。どうしようもなく、怖い夢だった。
 自分は部屋で眠っていて、ふと目が覚めた。目が覚めた夢だった。目が覚めて、体を起こそうとして体が止まる。右上が――怖い。ちょうど窓があるあたりだな、と思いながらも、それがひどく怖かったのはなぜかわからなかった。
 ただがたがたと体が震えるような恐怖がそこにはあった。その恐怖が何を起因とするものがわからないが、ただひたすらに「怖い」という感情。黒く塗りつぶされるような、原始的な恐怖にも似たそれに、治癒は指先一本、否、髪の毛一本動かすことが出来なくなっていた。今動いたら見つかってしまう、と本能的に悟っていた。
 自分ではここから逃げることが出来ない。
 今この瞬間、この恐怖から逃げることが出来ない。
 そう思って、ただひたすらに体が固まった。歯の根が合わないほどの恐怖なのに、声を出すことが出来ない。背筋がぞっと寒くなり、体が冷たくなって、布団をかぶりなおすことしかできない。
 それに見つかってはならない。
 それを視認してはならない。
 そんな感情が頭の中でぐるぐると渦巻き、増幅し、耐えきれないほどになって――彼女はふ、と短く息を吐き出した。十数えたら、廊下に飛び出よう。今この瞬間なら、それは自分を見ていない。はっきりとそう考えて治癒は頭の中で数字をカウントした。
 その数字が、「ぜろ」とまだ幼い自分の声で脳裏に響いた。その瞬間に治癒は、ばっと布団をまくり上げ、携帯だけをぎゅっと握って廊下に走り出た。
 そう、そういう夢を見たのだ。
 夢と現実の境目がわからなくなってきょろきょろと周囲を見渡す。白い肌を玉のような汗が流れ落ちていた。冷や汗だった。この瞬間が現実なのかそれとも夢の続きなのかはわからなかったが、それでも部屋に戻ることは出来ない。まだ、あれは部屋にいる。

「治癒?」
 そう、声をかけられて彼女はびくっと肩を震わせて振り返った。
 彼女を心配そうに見つめているのは、ひとりの男子生徒とひとりの教員だ。夜の見回りをしている最中なのだろうか。そのふたりの姿を見た瞬間、どっと疲れが襲ってきた。疲れ、というわけではなく、緊張の糸が切れたように、その場に座り込む。
「ち、治癒ちゃん!?」
 先生が手を伸ばし、彼女の体を支える。泣き出しそうだった。だいじょうぶです、と声を絞り出してその体をぎゅっと抱きしめる。まるで子供のようにわんわんと泣きたくなって、それをこらえた。
「だいじょうぶ、です。大丈夫です……」
「どうした?怖い夢でも見たか?」
「……ちょっと、怖い夢を…」
「そうだったんだね、大丈夫大丈夫」
 ね、と落ち着かせるように柔らかいものが治癒の体を抱きしめた。その柔らかさに少し心が落ち着く。それと同時に、とん、と背中に何かがふれた感覚があった。きっと目の前の先輩の、文字なのだろうなと思う。
 すっと恐怖心が薄れた。その言葉の効果なのだろうか。目の前の柔らかい物体を抱きしめて、そしてゆっくりと目を閉じて呼吸する。

「同室の子がいなくなって不安になっちゃったかな」
 首を縦に振った。
「何か怖い夢でも見たのか?」
 首を縦に振った。
「部屋に怖いものがいたの?」
 首を縦に振った。
「それは右上にいた?」
 首を縦に。
 振ろうとして、治癒は顔をあげた。

「なんで、それを、しってるんですか?」
 まるで当たり前のように問いかけられたそれに、少し震える声でそう質問をした。しかし、目の前のふたりは困ったように微笑むだけだ。
「何でもないよ、治癒。今日はもう遅い」
「こんな遅い時間まで起きていちゃいけないよ。早く寝ようね」
 瞬間。視界が暗転した。
 最後にその視線が捉えたのは、【睡眠】という文字だった。

 * * *

 目が覚めれば、そこは自分の部屋だった。自分はベッドから落ちていて、布団とぽにょぽにょに押しつぶされている。そのせいで悪夢を見たのだろうか、と思いながら、困ったようにぽにょを抱き上げて抱きしめる。
「……どこまでが夢だったのかな」
 誰に問いかけるでもなく問いかけた。なぜか、あの夜のことを質問するのは躊躇われた。どこかおかしい気がしたのだが、それを何かと問い詰めることは出来なかったのだ。
 ベッドの右上を見る。朝日がきらきらときらめいていて、まぶしいくらいだった。そういえば、アラームが鳴っていないなと思って携帯をきょろきょろと探して、彼女は首を傾げる。
 部屋の入口。ドアのところに、携帯電話は落ちていた。枕元で充電していたはずのそれが部屋のドアの前に転がっている理由から、治癒は目をそらした。


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