海に愛されし子よ 独りになって、どれくらいになるのだろう 絶望してから、どれくらいになるのだろう 声をなくして、どれくらいになるのだろう 歌を奪われて、どれくらいになるのだろう 憎悪を抱いて、どれくらいになるのだろう 全てを諦めて、どれくらいになるのだろう… 瞳を閉じても、月明かりは瞼を通り抜け闇で隠してなどくれない。ぼんやりと人など通れないくらいの小さな窓から見える月明かりは、とても残酷だ。 静まり返るその部屋というには簡素な空間の壁の外で一定のリズムで音を届ける。 大海原の上に浮かぶ、一隻の船の、小さな空間にいる小さなちっぽけな私は、虚ろな瞳で空を見る。 もはや少女には逃げ出したいなどという気持ちは遠に消え去り、ただただ今のこの時の最期を待つ人の形をした何かへと化していた。 この終わりのない、永遠と繰り返されるそれに、彼女の心は遠い昔に動くのを止め海の底よりも深い深い場所へと沈んでいた。 「チッ、せっかく買ったモノがこれじゃあ興ざめだが…けど何もなしに売るには癪だ。オラ、来い!」 ガチャンと無造作に鉄格子は開け放たれ、手首に繋がれた鎖を乱暴に引かれる。少女は体勢を崩し、ドシャリと痛々しいくらいの音を立てて顔面を床に擦り付け倒れた。 しかし、人相も悪ければ素行も悪い大柄な男はそれさえも苛つく理由となり、眉を顰め舌打ちを大きく鳴らすと構わず少女の手に繋がれた鎖を乱暴に引っ張った。 腕が引き千切れんばかりの強さで半ば引きずられるようにして立ち上がらされた少女は、その目を決して男には向けず何処か虚を見つめフラフラと立ち上がった。 とうとう、と胸の内で呟いた彼女の睫毛は憂いを帯び長すぎる前髪の奥の瞳は夜の海よりも深く闇を抱いていた。 廊下に出た瞬間、少女は衝撃から倒れることとなる。しかしそれは、先導を切っていた男も同じだった。 火薬の匂いと、聞き慣れた咆哮。それはこの船にもある大砲の音。しかしこの衝撃はきっと… 「お頭ァ!敵襲です!!」 「何だと!?今すぐ全員叩き起こせ!てめぇは何見張ってたんだ!!」 お頭、そう呼ばれた男は下っ端を殴り飛ばす。その手には少女と繋がる鎖もあり、少女は勢いよく壁に頭を叩きつけられることになる。 グニャリと視界が歪む。鉄の匂いが鼻につき、自分の鼻や額から鮮血が流れ落ちる。 「ず、ずびばぜん!」 「チッ!ガキはそこに転がしとけ!!甲板に出るぞ!」 殴られた下っ端は鼻血を流しながら男を甲板へと誘った。視界が歪んで立てずに倒れこむ少女など気にもせずに。 何処か遠くで、金属同士のぶつかり合う音や呻き声がくぐもって聞こえる。 もう三半規管すら正しく機能できていないであろう少女は、吐き気の中で儚げに笑った。 やっと、死ねる…と。 −このまま誰かが来てくれれば、そしてその手で私を終わらせてくれれば、私は苦しい輪廻から…逃げられる− ジャラ、と鎖の繋がれた自分の細すぎる腕を震わせながら天に向ける。 「−−い、…お…い!」 誰かが掴んだのか、その手は懐かしいくらいの温もりが伝わる。目はもうぼやけて、さらに暗さから人の輪郭もわからない。 『−−、−−て』 音の出ない空気だけの声は、相手に伝わらないだろう。少女はもう一度音のない言葉を紡ぐ。 『わ た し を 、 こ ろ し て』 一人では死ぬことすらできなかった臆病者のを、どうか嗤ってほしい。 何もできなかった、臆病で卑怯な私を、私は嗤ってあげよう。そして、不条理を与えた神を恨んで、私を憎んで、知らない目の前の人に、殺してもらおう。 ジャラ、と再び鎖がなる頃には少女は瞳を閉じ手は力なく落ちる。意識は暗い水底に溶け込むように沈んでいった。 海に愛されし子よ それは穏やかで、荒々しく 死を抱き、生命に溢れる 不条理で、平等な 海を愛しなさい 海に愛されし子よ 風を、大地を、空を抱きて すべての源である 海を愛しなさい 海に愛されし子よ 海に愛されし、愛子よ 世界の理を抱く、海の子よ Since:18/12/3 [*prev] [Back] [next#] [しおりを挟む] [感想を送る] |