「
まものの心」
二寸の恋心@
02
けれども、キノの前世の虫生はなんとも苦痛に満ちた物だった。それは知性におまけのようについてきた、人として生きた前世の記憶の所為であった。いや、前世の記憶のおまけが知性であったのかもしれないが。
何のために生きているのか。
常にその問いがキノを苦しめた。
人であった時には当たり前のように周りにあったコミュニティーがない。その一員であれば求められる義務が課されない代わりに、そこで得られる拠り所もない。規範も、導も、何もない。ただ過ぎ行く日々を、生きる、その為だけの生。
魔物は基本的に子を成すことはない。遺伝子の継承も必要ないのに、何故生きているのか。何故生まれたのか。
生きるのが辛かった。
だが、生きようとする本能は強かった。キノ自身も不思議なのだが、どうしても自死という選択肢はなく、そしてあらゆる危険を必死に避けて生きた。生き続けた。
儚く他の糧となるのが常である虫として、それは桁違いの生であり、それによって得た能力──その内容はまた別の機会に。ここでは特に必要のない情報だ──はまた、更にキノの安全を守ることに役立った。
懊悩を抱えたキノの、人にとっては永遠にも等しい安寧な日々は、だが、突然に破られた。
キノの目の前に獣がいた。
それは強大な個体だった。獅子に似た白いたてがみは立派で、ツヤツヤと発光しているかのようにキノには感じられた。しなやかな体を包む黒い短い毛はビロードのよう。前世の記憶にある薄汚れた檻の中で眠っていた獅子とは比べものにならない程美しい獣。しかし、どこか不安定で、様子がおかしい。
自らの危機であるにも関わらず、キノはその違和感をじっと考えていた。それは予感めいていて、キノのどこがそうなのかもわからない胸を高鳴らせた。
獣もじっとキノを見つめている。
その緑色の瞳は平静であったならば理知的にも見えただろう。だが、今、欲望を映してギラギラ輝く緑は、獣の飢えを如実に訴えていた。そう、獣は飢えていたのだ。ちっぽけな魔力しか持たないキノでさえご馳走に見える程に。
その瞬間、キノは悟った。
己の生の意味を。
キノはこの美しい哀れな獣の糧となるべく生きてきたのだ。この無為な数百年は決して無駄ではなかったのだ。今この瞬間を迎える為に必要なものだったのだ。
キノは幸福を感じた。
この生を受けて初めて感じるものだった。それは甘く、激しい感情。突き抜けるような快感。気持ち良くて堪らない。人間の頃であったならば、射精していたのではないかと思いキノは笑った。だんだんと近付く牙を見ながら生まれて初めて笑ったのだった。
とても、幸せな最期だった。
再び、それを味わいたいと思う程に。