この冬、僕はまたひとつ人間としてステップアップすることになった。
僕が例のカフェでバイトをし始めてから、「同僚の女の子から合コンに誘われる」という目標を早々にクリアし、さて次は如何しようかと考えているときに、その話は舞い込んだ。

「トッティ、今度の週末みんなで鍋パするんだけど、暇だったらどう?」
「えっ……鍋パ……」

同僚の女の子に話しかけられて、例のごとく僕はグラスを取り落としそうになっていた。
うん、レポートがあるけど早めに終わらせて行くよ〜場所は?と、できるだけ平然を装って問うと、「あたしの家で」と返事があった。心の中で手を振り上げる僕がいた。
5人の兄たちとならしょっちゅう鍋をつついているし、飲み屋の鍋のコースくらいなら経験があるけど、僕は意外なことに鍋パ童貞だったのだ。



かくして週末が訪れ、僕はちょっとだけ緊張しながら、その女の子の住所を目指して歩いていた。
「バイト先のメンバーで集まって女の子の部屋で鍋パをする」という項目も達成できてしまったら、その次は何を目標にしようか。どんどんランクを上げていく自分にうきうきしながら、冷たい道路を踏みしめていく。
まだ僕が出来ていなことで、必要なことといえば――

「彼女をつくる……」

ぽつ、と意図せず唇からこぼれ落ちた言葉は、冬の空気で凍えてすぐに熱を失った。いやー、それはまだいいかな、やっと軌道に乗ってきたところだし、まだ遊んでいたいし。
なりたい自分像みたいなのは持っているけれど、たぶん僕のその像は少し歪んでいた。他人の目を借りているうえに、何枚ものフィルター越しに見ているようで、輝いてはいるけど形がはっきりしていない。
まあ、まずは松野家の一員でいては一生体験できないことを味わい尽くしてからだ。

「でも、そういえば、僕って好きな女の子とかいないんだよなあ……」

好きな人ができたから彼女が欲しいと思うのか、彼女が欲しいから好きな人ができるのか。到底哲学的とはいえない陳腐な問いが脳裏に過る。
どっちだっていいやとすぐに忘れたけれど、頭の片隅にもやもやした痼が残っていた。



***



「こんにちは、トド松でーす」

インターホンを押してマンションの扉に触れる。出入りが多いためか鍵はかけられておらず、開けっ放しになっていた。
一人暮らし用の狭い玄関は、何人もの靴で埋め尽くされていた。男女比的には半々くらいだろうか。あ〜ほんと、リア充っていつもこんなことばっかりやっているのだろうか。

「トッティ、はいってはいってー」

呼びかけに応じて部屋に入ると、匂いのついた湿気が顔にかかった。テーブルには、大きな鍋に湯が沸き立ち、切った具材もずらっと並べられていて、すでに準備万端みたいな感じだった。
たぶん、イケイケな何人かで早めに集まって買い出しとか準備も全部済ませたりしたんだろうな……。
そういえば今日誰が来るのかちゃんと聞いていなかった、と僕は部屋の中をぐるっと見渡した。見知った顔、たまにしか会わない顔、はじめて見る顔、と一つ一つ確認していくと、窓際の方に例の彼女の姿をみつけて、どきりとした。礼ちゃん。いや、どちらかというと、今日いるのかって、ぎょっとした。

「トッティ、大学のレポート大丈夫だったー?」
「あ、ああ、うん、なんとか、ギリギリだった」

菜箸で鍋に具を放り込んでいる女の子から聞かれて、僕は突っ立って礼ちゃんのことを盗み見ながら答えた。
聞こえているんだろうけど、礼ちゃんと目は合わなかった。彼女が「トド松くん、大学生なんて嘘やめなよ」とたった一言口にすれば、もう僕はへらへら笑っていられなくなっちゃうのにな。

彼女の前で嘘を吐くのはやっぱり気まずいなあ、と思いつつもテーブルにつく。ビールや缶チューハイが一同に行き渡ると、主催者の音頭で乾杯した。僕は、礼ちゃんの持つ缶と僕のものとが触れ合わないまま、なんとなく手を退いた。


あまり広くない部屋に、鍋から漏れる水蒸気や酒の匂い、みんなの騒ぐ声が充満する。カセットコンロの炎で顔が熱い。ほとんど逃げ場がなく息苦しいくらいの空間だった。思っていたよりもあんまりいいものじゃないかもしれない、鍋パ。
くだらない冗談やバイト先に来る変なお客さんの話とかで一頻り盛り上がるも、相変わらず僕と礼ちゃんの目は合わなかった。まあ、もともと親しいわけじゃないからいいんだけど。

「礼、なにか飲むー?」

空になった缶をゴミ袋にいれていた礼ちゃんに、友達の子が声をかけていた。礼ちゃんは酔いのせいか少しだけ目をとろんとさせて、テーブルの上を見渡す。

「桃のがあった気がするけど、もう飲んじゃったかな?」
「あ、それ一本しか買ってないからもうないかも」

彼女たちの会話を聞いて、ふと自分の手に握られている缶を見ると、薄紅色で、炭酸に沈む桃のイラストが描いてあった。手の届くところにあったから何気なく開けて口は付けたけど、まだ少ししか飲んでいない。

「礼ちゃん、これ、ちょっと飲んじゃったけど」

探しているなら、と思わず声をかけると、礼ちゃんはちょっとびっくりしたように目を丸くしていた。あ、あれ。大学生の回し飲みなんてあたりまえだし、礼ちゃんみたいな一般的な女子大生は気にしないと思ったのに。でもよくよく考えれば、大して好きでもない人から間接キスを強いられたら、嫌かもしれない。

「あ、いらないなら別に……」
「もらうね。トド松くんありがと」

結局、礼ちゃんは笑いながら缶を受け取った。
拒絶されずに済んで、どこかホッとした自分がいた。礼ちゃんに受け取って欲しかった、というわけじゃなくて、こんな些細なことを嫌がられたら結構傷付くから、ってだけなんだけど。

それから少し気になって、しばらく彼女のことを見ていた。
礼ちゃんは10分くらい経ってから、ようやく、ゆっくりと秘めやかに缶に口をつけた。
なんでそんなに時間をかけたのかは、よくわからない。鍋の湯気で彼女の顔は蜃気楼のように霞んでいて、どんな表情をしていたのかもよくわからなかった。

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