秘密にしていたけれど、美しい季節なんてものが訪れたことはこれまで一度もなかった。僕にとっては。
砂漠のような心のまえでは、たいていが見知らぬ思い出としてためらいもなく忘れ去られてしまって、目が覚めたら1年くらいがあっという間に過ぎている。
いつからこんなんだったんだろう、と考えても、人生のどの時期のこともあまりよく思い出せない。なにしろ僕の目には記憶に残るほどの色彩はうまく映らないみたいだったから。


曜日感覚がないなりに、今日が金曜日だってことはわかってはいた。
閉店後のカフェには、珈琲の匂いだけが花のように漂っている。仕事は終わったけれど、このあと店を出て消毒されそうなほど冷え込んだ外気に触れると思うと、すべての動作がどうしようもなく億劫になっていた。金曜日だから何かしなくちゃという感覚も僕にはないし。

ぺちゃくちゃとお喋りをする同僚の声に耳を傾けながら、エプロンをはずし、のろのろとロッカーに仕舞う。
気付けばもうここでのアルバイトも始めてから数週間が経って、この作業にも慣れきっていた。

もたもたしているうちに、僕の他にいた女の子ふたりは支度を終えたようだった。
白やベージュといった女の子らしいコートに身を包むと「それじゃ、おつかれさま」と軽く手を振って帰っていく。

「あ、そういえば言うの忘れてたけど、先週は合コン来てくれてありがとうね」

扉を開けながら、女の子の口から、先週行った合コンの話題が出た。

「うん、楽しかったね。みんな可愛かったし、よかったらまた今度誘ってよ」

同僚の女の子から合コンに誘われるのが長年の夢だったなんてことは顔には出さず、僕は淡々と模範解答を口にする。誘われたときも、内心ではかなりガッツポーズしていたけれど、それは匂わせなかった。僕は有名大学の学生で、世の人が羨むようなおしゃれカフェでバイトをしている、そこそこのステータスの人間なんだから。

「また行こうね。あ、トッティ、今度は大学の友達も連れてきてよ」
「あ、う、うん。次はね」

架空の何かを想像しながら僕は適当に相槌をうった。



彼女たちが帰ってしまうと、ロッカールームはしんと静かになった。
思わず「はあ」と大きな溜息をついてしまう。
5人の兄たちには内緒でこのバイトを始めたこととか、同僚の女の子たちの気を引くために有名大学の学生って偽っていることとか、結構なリスクを負っているのに今日までばれずに上手くやってこられたのは僕の要領の良さによるものだ。
だけどこうも順調だと、いつか突然痛い目に遭いそうな気もしていた。
重ねに重ねた嘘が崩壊しないよう守り続けることが僕にできるかどうか。嘘をついてきたとはいえそれなりに苦労や努力もしたのだから、水の泡にはしたくなかった。

でも。嘘を守るための努力って一体なんなんだろう、とロッカーに向き合いながらぼんやり思う。これこそ無駄な努力ってやつなのかな。ズルしないで堅実に頑張っていくべきなのかなあ。
いろいろ考えたところで悩むのも馬鹿らしくなって、僕は「あ〜、めんどくさいなあ」と独りごちる。

「大学生のフリするのってなんか思ったより大変だったな。こんな肩書きやめとけばよかったよ」
「えっ、トド松くん慶応の学生じゃないの?」

突然自分以外の人の声がして、僕の身体は硬直した。
ぎぎ、と不自然な動作で首を捻ると、背後にいた女の子の姿が目に入った。血液の流れがさっと止まったような心地がしたあとで、にわかに心臓が破裂しそうな勢いで動き出す。

「えっ、う、うわあああ!」

情けない叫び声をあげてあとずさった僕は、背中を思い切りロッカーにぶつけた。脈拍が異常に上昇して、驚きで人は殺せると直感する。女の子の方もびっくりしたような顔をしてこっちを見ていた。
幽霊とかではない、実体がある。なにより、僕は彼女を知っていた。名前は礼ちゃん。ここでバイトをしている子だった。いつも入る時間が違うから今まで会話をしたことはなかったけれど、顔は知っている。
そうだ、今日はたまたま彼女も同じ時間に仕事をしていたのだ。いつもの通り、女の子ふたりが出ていったから、自分が最後だと思い込んでいた。

「あ、い、いや、今のはなんというか、別人格の僕との会話というか……」

頭が上手くまわらずしどろもどろになりながら、わけのわからないことを口走る。
彼女の目を見ることができない。不思議がっているのか、失望しているのか、怪しんでいるのか、判断できなかった。

「え?だ、大丈夫?」
「う、うん!大丈夫だよ!じゃあ僕急いでるから帰るね!?おつかれさまー!」

そうして僕は勢いよくロッカールームを飛び出した。



逃げるように走り続けて数分、立ち止まって途方に暮れる。

「いや、いやいや、帰っちゃまずかったでしょこれ」

冬の夜は寒い。なのに今の僕は汗だくで、しかも運動後の気持ちいい汗なんかじゃなくて、拳銃を突きつけられたときのような冷や汗をかいていた。生きた心地がしなかった。
誤魔化しもせずに帰ってきたのは本当に失敗だった。
でもあの時はもうテンパってて、説明も言い訳もできやしなかった。

「や、やばい……。僕の嘘、あの子にばれちゃった……。はあ、ここまで結構苦労したのに、僕のリア充への道はまた振り出しに戻るのかなあ……」

兄さんたちみたいなニートじゃ、僕は嫌なのに。
溜息が白銀の煙になって空に融けていく。魂が天に昇っていくみたいだ、と僕は思った。

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