afterward(レディル)
赤い、紅い、紫色した世界。
緑も青もない、濁った暗い世界。
生き残った魔族達は地底に落とされた…
魔界だったはずの場所。
大地は元より紫であったが、木々は覆い繁り、水は透き通っていた。
なのに、地底に落とされた瞬間、大地の全てが濁り、失われていく…
ネヴェル、レディル、ヤクヤ、メノア。
そして、戦えず避難していた魔族達。
魔族は絶望した。
恵まれない腐ったこの大地に。
魔族は自分達を棚に上げ、憎んだ、恨んだ。
人間を、天使を。
「…酷いものだな」
あの戦いで右腕を失ったレディルは、死んだような目をしている魔族達を見て悲観するように言う。
「…当たり前だ、絶望しない方が、おかしいだろ…」
ヤクヤの言葉にレディルは目を細めた。
まるで、出会った頃の、腐っていたヤクヤに戻ってしまったようで…
この時すでに、レディルは頭の中でとあることを考えていた。
「なあ、ヤクヤ。私は絶望しない。命があるんだ。こんな地でも、生きる術を探そうと思う。お前は?」
「……」
俯いたままのヤクヤの背中にレディルはそう語り掛ける。
ヤクヤはゆっくりとレディルに振り返り、しかし…
――ガッ!!!
空を切るような音だ。
振り向き様、ヤクヤはレディルに向かって拳を放った。
しかし、レディルは残された左腕でそれを受け止める。
「相変わらずだな、ヤクヤ。あれだけの戦いがあったのに、まだ暴れ足りないか?」
ため息混じりに言い、レディルは苦笑した。
「…絶望しない?生きる?お前こそ、相変わらずの甘ったれ坊主だな、おい?!」
受け止められた拳を引き、ヤクヤはレディルに怒鳴り掛かる。
「俺達は奪われたんだぞ!?全てを!!お前だってその腕を!!誰が悪い?!そうだ、人間だ!天使だ!奴らさえいなけりゃ俺達は…!!」
「ヤクヤ」
レディルは背伸びをして、自分より背の高いヤクヤの頭をぽんぽんと撫でた。
「なあ、全てって、なんだ?私達は全てを奪われたか?」
「……」
相変わらず、自分とは対照的なレディルの落ち着いた声にヤクヤは押し黙る。
「お前が生きている。ネヴェルもメノアも生きている。私はまだ、全てを奪われてはいない。お前はどうだ?お前には、何も、誰も、残ってはいないのか?」
「……」
そんな考えをするレディルに、そんなことを口走るレディルに、ヤクヤは呆気にとられた。
「それに、天使だって私達と同様だ。人間だって。誰が悪いわけでもないんだ。…確かに、人間のしたことは浅ましく、愚かだ。だが、争い始めたのは、魔族と天使だ。…ほら、何を恨んでも憎んでも、馬鹿馬鹿しい話だろう?」
レディルはそう言って笑う。
疲れているだろうに、それでも笑う。
理性を自ら抑えることの出来ないヤクヤの為に、笑う。
「……俺、は…」
ヤクヤは何も浮かばなかった。言葉すら浮かばない。
「考えるんだ、ヤクヤ。時間を掛けてでもいい。自分で考えるんだ。こんな大地で、お前はどうしていくのかを。だからもう、私に合わせる必要はない。思うがままに生きろ」
「…?」
まるで、最後みたいな、別れか何かみたいな不思議なレディルの言葉に、ヤクヤは間の抜けた顔をする。
レディルはニコリと笑い、ぽんぽん、と、ヤクヤの頭を撫でるように叩いた。
「こんな世界になってしまったんだ。優しさを忘れるな。孤独な者、弱き者を守ることを忘れるな。友人や仲間を大切にするんだ」
ぽんぽん。
頭を撫でるように叩かれる度、頭に温もりが通る。
「ありがとう、ヤクヤ。お前が居てくれて本当に助かったし、楽しかった」
レディルの手の温もりと微笑みに、こんな世界なのにヤクヤの心は不思議と落ち着いていく。
「お前は私にとって、大事な友人であり、仲間であり、家族だった。私とお前、ネヴェルとメノア。私達は、かけがえのない家族だ。…いつまでも」
その言葉に、目頭が熱くなった。
「だがヤクヤ、お前は本当に魔術にかかりやすい奴だから、気を付けるんだぞ」
レディルは最後に、悪戯げにそれだけ言い終えて、ヤクヤに背を向ける。
すたすたと、行ってしまう。
「レディ……」
名を呼び掛けて、手を伸ばして、だが、ヤクヤはその場で立ち止まった。
何故だろう。
レディルを追う気にはならなかった。
それ以前に、何故だろう。
レディルと過ごした日々が、ヤクヤの中で酷くぼやけていく、曇っていく…
何故だろう…
その頬には、誰の為に、何の為に流したのか、涙の痕が残っていた…
――…
―――…
レディルは遠目からネヴェルとメノアの姿を見つめていた。
(あの二人なら、大丈夫)
そんな確信を持ち、別れも告げず、一人で発った。
レディルにとって、一番の心配はヤクヤ。
自分が傍にいる内は、彼の理性はなんとか保たれてきた。
だが、これからはそういうわけにもいかない。
誰にも、これからのこの世界がどうなるかはわからない。
それに、あの日からずっと、ヤクヤはレディルの傍に居た。
恩義なのかなんなのか、レディルのすることなすことに共感し、それを中心として生きていた。
しかし、そんな生き方はヤクヤ自身という個を腐らせてしまっているとレディルは薄々感じていた。
だからこそ、こんな世界になってしまったことが、一種の転機だった。
自らがどう生きていくべきなのかを、それぞれの者達が考えていく機会。
レディルはヤクヤとの別れを選んだ。
魔族なのに魔術を得意とせず、理性もまともに保てない。挙げ句、懐いた相手には気を許しすぎる。
ヤクヤが唯一、全てに気を許していたのはレディルただ一人。
だからこそ、レディルには簡単だった、いつだって簡単にヤクヤに魔術を掛けることが出来た。
例えば、気持ちを落ち着ける鎮静の術だって。
だが、レディルはそれだけは使いたくなかった。
魔術なんかに頼らず、人々と触れ合うことで、ヤクヤに自然に理性を抑えていかせたかったから。
だから、今まではずっとそうしてきた。
だが、先程はヤクヤの頭をぽんぽんと叩きながら、初めて鎮静の術を施した。
それはもう、レディルの魔力の限りを流し込むほどに…
それと同時に、忘却の術も掛けた。
自分との記憶を、薄れさせる為に…
レディルは確信していた。
ヤクヤの言う通り、自分は魔族にしては甘っちょろい分類の性格をしている。
だから、地底に落とされてすぐ、レディルは確信した。
生きることは諦めない。
しかし、自分はきっと…近い将来、この甘さが命取りとなって……死ぬだろう。
――なんて。
先のわかるはずない未来を、何故だか確信していた。
だからこそ、そんな自分がヤクヤの傍に居るのはますます危険なのだ。
右腕を失ったレディルを見ただけで、ヤクヤはあの様。
もしレディルが生の限りを全うした形以外で死ぬことになれば…
ヤクヤの理性はもう止まらない、止められない。
レディルは友として、仲間として、家族として、それだけは避けたかった。
だから、いつか自分が死んだことがヤクヤの耳に入っても、彼がさほど気にしないように…
レディルはヤクヤの記憶から、二人の思い出を薄める術を掛けた。
赤い、紅い、紫色した大地を独り歩きながらレディルは苦笑する。
(全く。鎮静の術に忘却の術。あんな術に簡単に掛かるのは…お前ぐらいじゃないか?ヤクヤ…)
そうしてレディルは思いを馳せた。
ヤクヤに。
ネヴェルに。
メノアに。
ミルダに。
フェルサに。
カーラに。
――それから数十年。
魔界の中にある小さな集落の王となっていたレディルは、一人の女性と結ばれ、一人息子を授かる。
妻は息子――レイルを産んで亡くなってしまったが、それでもレディルは幸せに生きていた。
――魔界が地底に落とされて百年余り。
いつからか魔王なんて者が存在し始め、旧き時代を知らない魔族達は暴れまわっていた。
その中には、ネヴェルも加わっているという。
メノアはどうなったのか、それは知らぬまま…
レディルは悲嘆したが、風の噂で聞いた話に救われることとなる。
人間界の言葉で自由を表す言葉【フリーダム】。
弱きを守り、何にも屈しない、自由な魔族達。
友であり、仲間であり、家族のような魔族の集団らしい。
そのリーダー的存在の男の名は、ヤクヤ。
『どうせなら、壊すのではなく、何かを守る為に暴れようじゃないか』
『…守るだと?ふん、生憎、守りたいものなんて持ち合わせていねえよ――そう言う甘ったれ坊主のお前は何を守るってんだ?』
『決まってるじゃないか。友人や仲間だよ――本当なら、家族という言葉も含めたいのだが、私は捨て子でね。両親を知らない。どこの誰なのか、生きているのかさえもね。家族を知らない私だが、同じような子達と暮らしているんだ。だから、そんな友人や仲間を家族と言ってもいいのかもしれないがね』
レディルは、遠き日のことを鮮明に思い出していた。
友や仲間、家族を守りたいと言ったレディルの言葉を、あの日、意味がわからないという顔をして聞いていたヤクヤ。
そんな彼が――…
(……ふ。約束を、覚えていてくれたんだな、ヤクヤ)
あの日の口説き文句である約束。
『私に何かあった時、私の意思を継ぐように…孤独な者、弱き者を守ってくれる強い存在が居てくれたら助かる』
恐らく、レディルとの思い出はヤクヤの中で曖昧なままであろう。
だが、レディルの意思は、ヤクヤにも受け継がれていた。
自分の決断は間違いではなかった。ヤクヤと離れて正解だった…
(…自由。ヤクヤ、お前にとても似合う生き方だ)
自分と居たままでは、ヤクヤはこの生き方を選べぬままであっただろうから…
(きっと、ネヴェルにも何か考えがあるのだろう。メノアもきっと、何処かで無事に…。ふふ、しかし、頭の弱いヤクヤだ。フリーダムなんて言葉は、別の誰かが決めてくれたのだろうな…)
――そして。
その数日後、レディルは最期まで誇り高く在った。
息子と民にはこれから困難な道を待ち受けさせてしまうこととなるが…
それでもレディルは信じた。
まだ自身の意思をしっかりと持てていない息子のレイルを信じ、託した。
偶然か必然か、ヤクヤの話をレディルから聞かされていないはずのレイルは【フリーダム】を頼りにヤクヤと邂逅を果たし…
英雄の息子、ジロウの心に勇気をもたらし、そのジロウの手に、レディルが書き記した書記が渡ることとなった。
レディルは最期まで願う。
自らが記した書記にも綴ったことだ。
――いつの日か、本当に'英雄'と呼ばれる存在が生まれることを信じている。魔族、天使、人間。
その全てにとっての'英雄'がいつの日か生まれることを願っている。
(そう。簡単に言えば、三種の種族が再び、手を取り合って生きていける世界を願っているんだ。だから、任せたぞ、ヤクヤ、レイル。そして…新たな時代を紡ぐ人々よ)