育児日記
top info main contact blog link


五月晴れ、野球日和3 / 3



 人工的に植えられた芝生の間にタンポポなどの野草が顔を出す河原で、良之助はよく遊んだ。笑って転んで泣いて怒って、また笑った。
 そして今は再び眠りについている。少し冷たくなってきた風を懸念して、宇野は薄手のジャケットをかけた。良之助の体はすっぽりジャケットに隠れてしまって、まだまだ小さいなと安堵も混じる微笑ましい気持ちが浮かぶ。
 疲れも忘れて良之助に付き合っていた宇野だったが、良之助が寝てしまうとどっと疲れが表れ、良之助の隣に横になった。つけたままのマスクが息苦しい。宇野の腰から下はそう大きくもないビニルシートから飛び出て、ちくちくとくすぐったくも心地よい草の感覚を伝える。
 体の節々も痛い気がする。
「やだな。五十肩も近いのかな」
「まだ三十もいってないのに何言ってんの」
「若い奴にはわかりませんよー」
「三つしかちがわないだろ」
 今回のことですっかり自信を無くしてしまった宇野は、修平の言葉に耳を貸さず背を向ける。その頭を掌がかすめるように二回。修平の方を振り返ると、何もしていませんというように文庫本に目を落としている。
 気持ちの良い風に、眠気が刺激されて自分の腕を枕に修平に背を向けた元の体勢に落ち着く。
 いつもと違う目線でみる世界は新鮮だ。一番近いところにビニルシートの鮮やかな彩色が反射して、そこから伸びはじめた草が飛び出している。もっと遠くにフォーカスすれば、良之助より大きい、けれど同じように夢中で転げまわる二人の子供。


 そういえば、宇野と修平、それから良之助とみんな一緒にこんな長い時間外で過ごしたのは久しぶりだ。宇野も修平もお互いが良之助と過ごす時間を最優先にしつつ、しかし全員で出かけているのは避けているところがある。
 一方が良之助を連れて買い物に行くと言えば、もう一方が夕飯の準備を。一方が良之助と散歩に行くならば、もう一方が掃除をすると言い出す。
 たぶんまだ躊躇いがあるのだ。少なくとも宇野は、良之助を引き取ったことは後悔していない。
 けれど三人で仲良く出かけたときの関係性を詮索するような目線には、二人を躊躇わせて自然と一方を家に引止めるような、そういう力がある。他にもある。たとえば今日のような、知り合いが大勢集まる場で良之助を息子ですと紹介して、ではその方は?と修平の方に向けられる視線だ。そしてそういう時、世話になっている保育士の友達ですと言わなくてはならない瞬間が宇野は嫌いだ。
 保育士とか友達とか、必死に三人でいてもいい理由を探しているような気持ちになる。三人で一緒にいることに理由など必要ないのに。


「寝るなら家帰ろう。風邪ひくから」
 眼をつむった宇野を見咎めて、修平が声をかける。唇からうんとも嫌だとも寝ていないでもない、何の意味もない音しか漏れてこない宇野に焦れて、修平がその方に手をかけた。
 宇野の手が、修平の手を上から包む。寝ていると思っていた相手の予想外に強く熱い掌に肩を震わせた。
「いいんだよな。こういう三人がいても」
 その言葉も熱を持っていて、のどかな日常も相まってすぐには答えることはできなかった。
「うん、いいと思うよ」
 やっと修平がそういったとき、宇野は突然振り向いて、その顔には笑顔が浮かんでいた。
「OK そんじゃ遠慮なく」
 そういうや否や、宇野は修平の膝を陣取った。その膝に耳をつけ、腰に腕をまわし、鼻を脇腹に擦りつける。
「ちょ」
 思わず声をあげて宇野の肩を押すが、宇野はびくともしない。というか腰にしがみついて離れない。
「嫌?」
 そう言って、熱い、なにか深い意図を感じさせる声で言うものだから、軽々しく嫌だとは言えなくなる。こうやって明らかに甘えてくる宇野は珍しく、そして正直に言うと嬉しい。
 しかし同時に懸念もあった。
「りょうが」
 二人の傍で眠る小さい生命。彼のことを考えると、自分のことを優先して早計な判断はできない。
 修平と本来何の関係もない子供が、自身のせいで人より厳しい道を歩まなければならなくなるのは、とても悲しい。彼が大事だからこそ悲しい。
 その名前を聞くと宇野も修平の膝から顔をはなして、起き上った。宇野に声をかけようとするが、修平が言える言葉など見つかることはなく、飲み込んだ。
 きっと宇野は笑う。笑って、「帰ろう」とかそういういままで通りの日常に戻れるキーワードをくれる。
 やはり宇野は笑った。鞄をごそごそさせていたと思ったら、修平の目の前に屈みこんで目線を合わせる。そして笑った。特別楽しいサプライズをしようとする悪戯好きな笑顔だ。
「目つむって」
 そう言って自分がかけていた眼鏡のつるを突き出して修平にかけようとする。その先端が目に近く、思わず目を閉じた。ついでふわりと柔らかな布が頭を覆う。
 眼を開けると白い鍔が視界をちらちらと揺らす。度の入った眼鏡は修平には強くて、視界は不自然に滲む。最初は、突然現れた白い物体が何なのかわからず、触覚でなぞりようやく知覚したほどだ。
 宇野の眼鏡には乱視用の矯正がかかっているから、ここまで歪んで見えるのだ。
 眼鏡を取り去り、頭の上に乗っている鍔の広い帽子を手元に引き寄せた。それには見覚えがある。宇野と修平の家にある、唯一の女物の帽子だ。
「これ」
「姉さんの」
 宇野の姉、良之助の母が、良之助を手放したときに一緒において行った帽子だ。かつての彼女に一番似合っていた帽子。
「もったいなくてとっておいたら意外と役に立つもんだな。今日時間やばいって家飛び出したとき、バッグに手当たり次第もの詰め込んできたんだよね。そんなかにまぎれ込んでた」
 こんなのも、といって大きなバッグから目覚まし時計を見せる宇野に、どうやったらそんなものが紛れ込むことがあるのだと呆れてしまう。
「寝る前に用意しなっていつも言ってるじゃん」
「気を付けるって。保育士モードは終了」
 口うるさい修平の手から帽子を奪い取って、宇野は修平の頭にのっけた後鍔を強く引っ張る。
「こうやったら誰かなんてわかんないだろ。ほら、眼鏡も」
 先ほどと同じように眼鏡も装着して、満足そうに腕を組んだ。
「うん、上々。修平は骨格もそんなにごつくないからぱっと見大丈夫」
 そういうとまた膝枕を堪能しようと、膝に頬を寄せる。
「どう考えても不自然だって」
 唾を引っ張り身をかがめ、唇を宇野の耳元に寄せる。ばれたときのことを考えるとなおさら恥ずかしい。
「口紅とかあった方がよかった? さすがにそこまで持ってない」
「そういう問題じゃない」
「あーはいはいりょうね。わかった」
 宇野は修平の言うことに聞く耳を持たず、今度は良之助の両肩に手を伸ばし服が伸びるのも構わずに修平の方へ引っ張る。良之助も起きる気配もなくおとなしく引きずられる。膝の上には大の男の頭、そして太ももには小さな頭が申し訳程度にもたれかかる。宇野の頭を少しずらして良之助を脇の下から支えて、せめて寝やすいようにと引っ張り上げた。
「ちえ、俺が先だったのに」
「我慢しなさい」
 これ以上不満をこぼしても、宇野にいいように振り回されるだけだということに思い至り、修平はその口を閉ざした。本当のことをいえば、自分がこうしていたかったというのもある。
 顔を伏せようと身をかがめたままで、二人の手のかかる子供に手を向ける。小さく寝息を立てる良之助の額に左手を、図体だけが大きく育った宇野の面白そうにゆがめられた瞳を右手の掌で覆う。宇野は特に抵抗もせず、修平がなすがままだ。
 右手左手の指先に触れる髪質が全然違う。子供特有の柔らかい髪の中でも特に柔らかい髪。半端に伸びるとすぐに自力でつんつん逆立つ硬い髪。それでも口元がそっくりだと思うのは色目だろうか。
(りょうの髪はどちらかと言えば俺似かな)
 そう考えて、顔に熱が集まるのがわかる。自分の子供でも何でもないのに、厚かましい。いや、それ以上に本当の家族に失礼だと。
 良之助の母は良之助を捨てたことになるが、それでも赤の他人の自分が、その開いたポジションを当たり前に自分が埋めることができるのだと思えるほど図太くはない。


「こういう三人てのもなかなかいいもんだろ?」
 宇野が呟いた言葉、それは満足で満たされている。
 こういう三人。はっきりとした像を持たないその言葉は、受け手によって柔軟に形を変え、修平自身もはっきりとはわからない胸の内にすんなりおさまるような気がした。
「うん、いいかもね。こういう三人」
 “こういう三人”という関係性に答えはまだ出ない。答えなどないのかもしれない。いや、それともこれが答えなのかもしれない。
 けれど高い体温に温まる左手に、まばたきのたびに睫が擽る右の手のひらに、幸福というものが確かに触れていた。

*prev



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -