育児日記
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五月晴れ、野球日和1 / 3



 春の風は甘い。どこからか運んできた生命の息吹が鼻をくすぐる。
 これを心から歓迎し思い切り味わえたなら最高だが、あいにく宇野にはそうできない理由があった。
「ライト、行ったぞ」
 その掛け声とともに、宇野が受け持つ外野にボールが転がってくる。
 早々と地についた玉は大した勢いもなく地面を転がり始めたが、セカンドで待ち構えた事務長のミットをすり抜け宇野にお鉢が回ってきたのだ。長年の事務仕事でこさえた腹が邪魔をして目測を見誤るのか、それとも単純に腹がつかえて地に手が付かないのか。
 打者の恰幅がよく打たれたら相当飛ぶと見込んでやや後ろに構え、早い位置でバウンドを始めたボールに安心して受け取る用意の出来ていなかった宇野は、運動不足の体には堪える距離を疾走しなければならなかった。
 熱い息が籠るマスクは不快で、そこから立ち上る湯気は頻繁に眼鏡を曇らせ幾度となく宇野の視界を阻む。
 今年は特に花粉が多いとニュースで言っていた。特にこんなからりと気持ちよく乾いて風の強い日なんかは、眼鏡やマスクなどの花粉対策グッズが手放せない。
 フレームがシリコンで覆われた眼鏡は、走る振動と汗のぬめりで使い物にならない。ちなみにゴーグルだけはいくら風が強くとも空気が黄色く見えようともつけないと宇野は心に決めている。
 堤防沿いに作られたグラウンドには、数えるほどの身内関係の観客と散歩がてら勝負を覗く野次馬ばかりで大盛況とは言い難い。その中でビニールシートと豪勢な弁当をこさえて宇野を応援する家族を思うと、花粉や中年の動きが鈍いチームメイト、そしてなにより思うように動かない自分の体と楽勝だと楽観視していた自分に腹が立った。



 よい野球日和となったある春の朔日、宇野は休みの日をつぶしてまで会社の草野球チームの助っ人として駆り出されていた。中年ばかりがあつまる宇野の会社の草野球チームは、普段は無理に世代の違う若者を呼び立てはしないのだが、今回はどうも勝手が違った。
 就業中に神妙な顔で事務長のデスクに呼び出され、拝むように顔の前で手を合わせ「草野球に参加してくれ」という上司を前に波風立てず断ることのできる若造は少ないだろう。そういえば小中高と野球一本だった話をしたことがあったと思い出す。
 花粉症を言い訳にも出せず了承して話を聞けば、学生時代に同級だった事務長のライバルが率いるチームと草野球をすることになったらしい。地元の組合が主催する小さなアマチュア草野球リーグで、一回戦の相手がそのチームなのだ。おまけにそちらも同業者ということで、世の中は存外うまくできていると思ったものだ。
 その夜前祝を口実に居酒屋で、事務長とそのライバルとやらとの思い出話を肴に酒を傾けた。やれ女をとったとられた、勝った負けたの話が続く中で、話半分に宇野は思っていた。
(まあ、楽勝だろう)
 なんせこちらのチームの平均年齢はざっと40後半、いや50にかかるかもしれない。相手のチームもそうかわり映えしないというから、今年の秋まで20代と名のれる宇野と体力には雲泥の差があるはずだ。10年近く野球をやっていたという自負もあった。
 だからこそ長話で飲みすぎてしまった宇野を迎えてくれた家族に、気軽に見に来いなんて言えたのだ。パートナーである修平は、優しさに満ちた笑顔をさらに柔らかくしていった。
「お弁当を作って、良之助と一緒に応援にいくよ」
 そうしてとっくに寝静まった良之助のいる寝室に目をやった。このよくあるやり取りやにじみ出るような温かい空気に浮かれて、宇野は思ったのだ。よーし、お父さん頑張っちゃうぞと。



 それがこのざまだ。チームに貢献という意味では、宇野はよく働いた。ボールを追っかけまわし、外野の半分ほどを息を切らしながらカバーした。曇る眼鏡にも詰まった鼻にも負けず、高校時代の鬼監督のむちゃなフライやノックを取りに行く気持ちで走った。
 けれど違うのだ。守備の大切さもよく知っているが、愛しの家族が見ている手前どーんとホームランでもぶちかましてやりたい。そして良之助にあのキラキラした目を尊敬で満たしてぱぱしゅごーいと言ってほしい。修平にご褒美と称してあんなことやこんなことをしたいのだ。
 けれど一回表から走り回されて8番打者の宇野が打席に付くころには、宇野は疲れ切っていた。スイングしたバットが掌を滑っていきそうになったときには、まともにボールやバットに触れてこなかったここ十年と自分の運動不足による体力の衰えに愕然とした。
 結局試合が終わるまでにヒットを一本とっただけで終わった。事務長はライバルに一点差で勝ってご満悦で、宇野が疲れきった顔で打ち上げと称し昼間から飲みに行こうとする一団を断っても、嫌な顔一つせず「今日は助かった。お礼は楽しみにしとけよ」と解放してくれた。

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