プロローグ

ゆらゆら ゆらゆら
水面が揺れる度に映し出されている月が歪む。
浮かび上がるそれは、儚くも美しく。

まるで──……





「ねぇ、カカシ先生って恋人いないの?」
「へ?」

 波の国以来のCランク任務を無事に終え、里に帰還する道中で休息をとっていた際唐突に問われたその言葉。持っていた本から視線を外し隣に目をやれば、十代特有の無垢な瞳を此方に向けるサクラの姿。

「だーかーらー、恋人よコ・イ・ビ・ト!先生もいい歳なんだから、結婚したい相手くらい居るんじゃないの?」
「いい歳って…俺まだ26なんだけど」
「私からしたら十分いい歳よ!」

 確かに12歳からしてみれば"いい歳"なのかもしれないが、生憎結婚したいと思う相手なんていないし、そもそもここ最近まで暗部に席を置いていたのだから恋人らしい恋人なんて居た経験すらない。

「悪いけどお前が楽しめるような話はないよ。恋人もいないしな」
「なぁんだ、つまんないわね…あ、それじゃあ初恋は!?」
「…そんなこと知ってどうすんのよ」
「いいじゃない、先生何も自分のこと話してくれないんだから」

 で、どうなのよ?と小首を傾げながら返事を待つサクラから視線を前に戻し、さてなんと答えようかと思案する。少し先の方では池の側でナルトとサスケが何やら言い合いを始めていた。

 太陽の柔らかな光を受ける水面。ゆらゆらと揺れる度に輝くそれを見ていた時、不意に脳裏によぎったのは――


「……ま、一応経験はしてるね。ハツコイ」


 考えるより先に自分の口からぽろりと溢れ落ちた言葉。適当に躱そうと思っていたのに、思考に割って入ってきた古い記憶のせいでつい本心が出てしまった。
 案の定サクラはパッと瞳を輝かせると此方に身を乗り出した。

「本当!? 先生にも甘酸っぱい恋の経験があったのね!で、どんな人だったの?」
「そうだねぇ…」

 目を瞑り、その人物を脳裏に浮かべる。耳に届く風の音と、時折響く水音を聞きながら。

…まぁサクラが言うような"甘酸っぱい恋"とは、程遠いものだったけれど。



***




 死を予感したのは、これで何度目だっただろう。
 悪運が強いのかこういった局面に陥る度生きながらえ、また任務に赴くという日々を繰り返していた。
 しかし今日ばかりはそうもいかないだろうと、正常に働かなくなった頭でぼんやりと考える。

 本来任務を受け持つ時、暗部である自分が所属しているろ班で行動するのが常だ。だが今回の任務はあくまで調査のみ、それも機密性の高いもの。班で行動するよりも動きやすいだろうと、三代目との意見の合致で単独任務で調査に当たっていた。

 しかしその道中、国境付近に差し掛かったところで抜け忍と出くわし、交戦を余儀なくされた。一人で数人を相手にすることは多々あったが、今回は一癖も二癖もある奴らばかり。しかも単独任務中で、己を守れるのは己のみ。どうにか殲滅することは出来たが、代償は大きかった。

息をする度に喉がひゅう、と微かな音を立て、口の中に鉄の味が広がっていく。写輪眼を酷使し過ぎたせいで指一本動かせない中、腹部からは止めどなく血が流れていくのがわかる。

(……ああ、ここまでか)

意識が遠ざかっていく。波が静かに引いて、そのまま海へと戻っていくかのように。

深く暗い、闇の底へ…俺も、やっと――

 その時、小枝や枯れ葉を踏みつける微かな音が耳に届いた。同時に、ぞくりと背筋に悪寒が走る。
意識を手放す直前に感じたそれに、閉じかけていた瞼をなんとかこじ開け気配のする方へ視線を向けた。

――目に映ったのは、一人の女の姿。

「なんだ、生きてた」
「……は、」
「でも死にそうだね」

 浅い呼吸を繰り返し言葉もまともに話せない俺に、女は気に留める事なく話を続ける。


「ねぇ、生きたい?それとも……死にたい?」


 意識を手放す寸前に聞こえたのは、なんとも軽薄で奇妙な言葉だった。



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