えふえふ | ナノ



夢幻

※ファンタジー
※サキュバスクジャ♀




サキュバス、という存在を知っているだろうか。
夜男の夢に入り込み、淫夢を見せて交わりその精を採集して精霊を生み出す空想の生き物である。
『この世界』ではそう語り継がれている。
今回のお話は、『この世界』とはまた違う話。また別の世界の話である。



西洋のレンガ作りの建物が立ち並ぶ、大きな町。夕焼けに染まり、赤くなった町並みにジタンは感嘆の声を漏らす。
大きな音で車が横を通る度に、人垣が別れる。ネズミ男が横を通ったと思えば、ウサギの女が後ろから追い越していく。いろんな種族が入り交じるこの町が、彼のお気に入りだった。
買ったアイスを食べながら歩いていると、ラジオから聞こえた中年男性の淡々とした声。
男が早朝に孤独死していた。
争った形跡も毒物の反応もなく、表情も穏やかだったという。まるで天国にでも逝けたように満足な表情だったそうだ。
前日の夜まで友人と元気に話しており、持病もないらしい。
何が原因かは全く不明。「謎の男性変死事件」は注目を集めているのだ。
オフの日でも仕事の話になると切り替えざるを得ない。

「またこの事件だな」
「あぁ。この月に入って何人目だ?」
「ジタンも気をつけろよ」
「何が」
「被害者は全員独り身らしいじゃん」
「イヤミか」

アイスを口へ放り込みバッツは真剣な面持ちになる。
確かに彼の言うことは一理ある。相手の意図がわからないが、男ばかりを狙う事に原因はある。意図も敵もわからぬ今、無意味に動くことは危険が伴う。

「さて、もう帰るかな」
「んー、今日は可愛い子が見つかんなかったなぁ…」
「ジタンらしいよ。じゃあ明日」
「あぁ」

バッツはペットの元へ、ジタンはアジトへ歩を進めた。空はもう暗く、日は落ちようとしていた。
狭い路地に入った時だった。
近道ではあるが、野良猫が住み着き、身分のわからない者が出没するために町に住むものは近づくことは滅多にない。高いビルに挟まれた一本道は、深い闇へと続いている。
ゴミや威嚇する猫を避けながら進んでいると、座り込む人影があった。ゴミが避けるように開けた場所に、薄汚れたマントで全身を覆い丸まっている。フードで顔を隠しているために年齢や性別まではわからなかった。
お人好しな彼はそれが気になった。正面にしゃがめば、緑色の目が武器を見つめている。殺気はないが、不思議な気配が漂う人だ。

「どうした? 大丈夫か」

エメラルドとフードの端から金糸が揺れる。自分と似た色に一瞬ドキリとしたが、彼女も同じように目を丸くしていた。
お互いに見つめ合い、どれだけ経っただろうか。視線が居たたまれなくなり笑顔で誤魔化せば、ぷいと顔を反らされる。警戒は解けたようだが少し寂しい反応である。

「立てるかい?」

困っている人を放っては置けない。優しく手を差し伸べると、小さな手が重なる。
引き上げようとした体は、逆にジタンが引き寄せられることとなった。
一体どうしたのだろうか。問うよりも先に胸へと腕を誘われ、柔らかい双丘に挟まれた。
相手が女性だとわかったが、だからどうということはない。とにかく、この第三者に誤解される状況を何とかしなければならない。
離れるようにお願いをしても首を緩やかに振るだけで、微動だにしない。むしろ抱き込む力が強くなり胸を意識してしまう。大きく成人した女性だということがわかり、顔が熱くなってきた。
更には困ったように甘えを含んだ目に見上げられてドキドキする。
美味しいシチュエーションだが、初対面の女の子にいかがわいしことは出来ない。真剣に、顔を引き締めて離すように何度も頼めばやっと渋々ながら解放された。

「もしかして迷子?」

声は聞けないが、横に動く首に少し安心した。1人には出来ないが、心配事は1つ減った。
しかしこの場所は風通しがよく薄暗い。何が怒るかもわからなければいい噂は全く聞かない。丸出しの方に肌寒さを感じて擦ると、チラリとマントから覗く白い素肌が気になった。急いで上着を脱いでかけると、驚いたように上がった。「寒いくせに何を」と丸い目が語るが、ニコリと返事をして立ち上がった。

「レディは体冷やしちゃダメだぜ。さ、送るから」

また手を出してみたが今度はつかみ返しもしない。動かず上着を見つめる彼女にため息をついて、無理矢理引き上げようとすれば強く叩かれた。拒絶に驚きしばし唖然としたが、嫌がるなら無理矢理もよくない。
気まぐれな彼女に気をつけるようにと労いの言葉をかけると、沈んだ太陽に向かって帰路についた。
背中に突き刺さる視線の意図を、彼はまだ知らない。

肌寒さを感じて深夜に目が覚めた。
別段何かの気配を感じたわけでもないし、周囲に変わったことはない。横ではぐっすりと眠るバッカスが見え、鼻を摘んでやった。
もう一度寝ようと目を閉じたが、何か得体の知れない違和感に眠れない。
覚醒しない脳で周りを見回し、欠伸をかみ殺すと扉が音を立てて開いた。たちまち目がさえて戦闘態勢をとると、見知った顔が現れ呆気にとられた。

「ガーネット?」

それは密かに想いを寄せる少女、ガーネットだった。
一緒に住んでいるはずもなく、呼んだ覚えもない。何よりもアジトを知るわけがないのだ。
ゆっくり近付く彼女に警戒心を露わにして行動の一部始終を追う。
しかし、体は金縛りにでもあったかのように動かない。ふらふらと安定しない足取りで近づいてくる。大声を出そうとしたが、声がかれたように出ないし、揺すってもバッカスたちが目覚めない。まるで不思議な空間に自分だけ隔離されてしまったようだった。彼女はもう目と鼻の先だ。ドレスを光らせてベッドの傍までやってくると、突然口付けられて驚いた。
想い人との念願の行為だが、喜びよりも不信感が襲い来る。胸騒ぎと嫌な予感に収まらない肩を強く押すが、壊れそうな細さなのにビクともせず驚いた。リアルすぎるが、現実とは思えない。

「離れろ!」
「どうしました、ジタン……」

誘うような瞳や仕草1つ1つに胸が高鳴るが、勘が危険を察知する。顔を赤らめながら距離を取ると、眉が下がり悲しげな表情をする。窓からスポットライトのように照らされた光に、白い頬が浮かび上がる。端正であまりにも白い顔は造り物としか思えなかった。
男は女の涙に弱いもの。流石に慰めなくてはなるまい。しかし伸ばした手は静かに降ろされた。

「誰だお前……」

月明かりの彼女には影がなかった。
相手も異変に気付き自らを見下ろすと、短い舌打ち。詰問するより先に、闇に溶けるように姿を消してしまった。
いったい彼女はなんだったのだろうか。疑問と不安に苛まれながらも、眠気が嘲笑ってくる。気付いた時には、もう夜が開けて朝の日差しが温かく照らしてきていた。
朝一番にガーネットの元を訪ねたが、彼女は首を傾げるだけだった。彼女は一体誰だったのだろうか。結局正体はわからずじまい。この不気味な出来事を友のバッツに話せば、珍しく真剣な顔で相談に乗ってくれた。

「それって夢……いや、有名な悪魔かもな」
「悪魔?」
「聞いたことあるだろ、好きな人に化けて夢を見せる悪魔」
「それこそただの夢だろ。悪魔だっていう証拠にはならないぜ」
「それもそうだけどさ。やけにリアルらしいぜ」
「ふぅん」

珍しく真面目な話をしてみたが、バッツの話は雲を掴むようだ。悪魔の話は聞いた事はある。夢に干渉する夢悪、サキュバスの話も聞いた事はあるが、凶暴な悪魔ではないと聞いた。
昨夜の彼女が夢魔だとすれば、一体何故自分の元に現れたのだろうか。考えることはいろいろあったが、悩みを吹き飛ばすように首に回された腕に嘔吐いてしまう。「なんだよ!」「難しい顔は似合わないぜ?」彼流に励まされてしまってはおちおち悩んでもいられない。
今朝の悩みもすっかり吹き飛んではしゃぎ回っていると、あっという間に夕闇が迫っていた。
平和な一日を過ごすと帰路へつく時、昨日の場所に例の女性は勿論いなかった。
ちゃんと帰れたのだろうか。気がかりだったが手がかりもない。彼女の無事を案じて、路地を避けるとアジトへと続く道を駆け出した。

夜中、また胸騒ぎを感じて目が覚めた。
周囲を見回せば、誰の姿もない。隣にいたはずの仲間たちがいないとなれば、夢なのか現実なのかますますわからなくなってきた。やはり、夢魔の仕業なのだろう。そう覚悟を決めて護身用の短剣を手にした。
扉を睨みつけて気を張り巡らせると、ゆっくりと開かれる。例の悪魔かまた別の生き物なのか、足音が近づいてくる度に背筋が寒くなり、部屋の空気に緊張が走る。
現れた姿は知り合いの少女、ティナだった。虚をつかれたが油断はしない。気持ちで押されたら負けだ。

「お前は誰だ」
「ジタン。私よ、ティナよ」
「ティナちゃんは俺の家なんて知らない」
「友達に聞けばわかるよ。それより……」

化粧を施した頬を更に赤く染め、うっとりと蕩けた流し目に捕えられ全身が粟立った。体をくねらせて誘うように近付いて傍に座り、尻尾をいやらしく撫でる。逆立つ尾を手繰り寄せて短剣を向けた。
レディに対して武器を向けるのは気が進まない、知り合いなら尚更だ。でもやらなきゃやられる。この不気味な相手は何をしてくるかわからない。
凶器を見て怯える仕草を見せるが、作戦かもしれない。眼光と刃が光り、彼女を睨みつける。

「オレは正体がなんであれ、レディを傷つける趣味はないんだ。引いてくれないか」

一瞬驚いた表情を見せたが、悲しそうなものに変わる。
体を守るように抱きしめる儚い姿に良心が痛んだが、罠かもしれない。
先に動いたのは相手だった。ゆっくりと名残惜しそうに身を引き、そのまま後ろに歩いていき闇へと消えていった。
おとなしく消えるのは予想外だったが、それにこした事はない。張りつめた空気が緩むと、また強制的な眠気が襲ってくる。今夜はこれ以外の接触はなく、目が覚めたらいつもの部屋で皆と一緒に眠っていた。
次の日からも休まる日はなかった。またガーネットの姿を借りて、執拗で過剰な色仕掛けをしてくる悪魔。
何度か誘惑に負けそうになったが、このような形で彼女を汚すような真似はあってはならない。一週間ほど続いた攻防に、精神は完全に疲弊していた。
後に気付いたことだが、この間には変死事件は起こらなかった。
初めの事件から1週間ほど経った頃だった。
毎晩のように行われる睨み合いに、精神は疲弊して体力までも無駄に消耗される。仲間たちに話して巻き込むのも嫌だったし、強制的に1人にされるなら無駄だろう。「物音が聞こえたら起こしてくれ」とだけ伝えて、いつも別の物置で寝ることにした。
そうなれば自然と体にも疲労が出てしまう。目に出来た隈に、青くなってきた顔色。本物のティナに覗き込み、息を飲む姿でやっと我に返った。

「ジタン、大丈夫?」
「あ、あぁ」
「何でティナを避けるの? 悪い虫がつかなくて清々するけど」

いつもなら女性がいる事で有頂天になっている。だが、最近の事件のせいで女性に対する苦手意識が生まれ、無意識に彼女を避けてしまった。
喜ぶオニオンナイトにも腹がたつし、あまりに露骨な行為が数度続けばさすがに心配されてしまう。優しさで覗き込んできた彼女を大げさに避けると、困った表情で見つめられる。良心が傷むが、こちらも必死なのだ。

「だ、大丈夫だって!」
「ジタン、最近何かあった?」
「なんで?」
「気配がするわ。これは……精霊? ううん、似た存在、サキュバスね」

ティナには精霊と縁があり、気配に敏感だ。
彼女が言うなら確実なのだろう。部分は伏せつつ相談してみることにした。「最近、夜中に現れる悪魔がいる」と。

「巷で有名になっている事件も彼女のせい。普通は精霊を産み出す存在だけど、中には魂を取り力にする者もいるみたい。退治の依頼も来てたけど、男の人の元にしか現れないから」
「僕の所にもこないしね。退治されるのがわかってたのかな」
「ジタン、これ。」

ティナから渡されたのは古いペンダントだった。表面には綺麗な青い宝石が嵌められており、手に取ると光で淡く優しい輝きを放つ。宝石に負けない優しさで、ティナは微笑む。

「相手の力を封じて正体を見抜く宝石。私もいくつか持ってるから、御守りにして」
「普通はオレから宝石はあげるものなんだけどな」

冗談めかしく言えばオニオンナイトに睨まれる。いつもの調子に戻り、ティナも微笑んでいた。
いままで気を張っていたのに安心の為に、力が抜けてしまう。夕方ではあったが、睡魔に襲われて倒れるように眠ってしまった。
気がつけば空には月が昇っていた。目を擦りながら覚醒を促していると、カタリと小さな物音で目が完全に覚めた。いつもの時間帯である。
布団の中に武器を潜ませて、ギリギリまで寝たふりを決め込む。ゆっくりと近づいてきて、小さく悲鳴が聞こえた。
チャンスだと、体を起こせばそこには見知らぬ裸の女性がうずくまっていた。悲鳴を上げ後退するが、見えない壁につっかえたように途中で動きが止まる。
今晩は立場が逆だ。詰め寄ると、怯えて身体を抱き寄せる。その繰り返しだ。
しゃがみ込んで優しい声をかけるが涙を浮かべた目で睨みつけてくるだけ。余程怖いのだろう、犯罪者の気分になってきた。
これがサキュバス、悪魔で間違いない。力が使えず弱っている今が討伐のチャンスだ。だが、手にしていた短剣が音を立てて床に落ちた。

「君がサキュバス?」

返事はない。

「オレの魂も取りにきたのか?」

何を聞いてもだんまりな彼女は、相変わらず一定距離を保つ。
思ったように動けないようだが、この石の力なのだろう。部屋から逃げようともしなし、変身もしない。力が封じられている恐怖でずっと震えて俯いている。

(こうして見ると普通のレディそのものだな…)

容姿端麗で、綺麗な銀髪が月光を受けて白く光る。青い目は強い光を帯びながらもつり上がり、面妖に男を誘う唇は仄かな桃色をして水水しい。腰から生えた羽も銀色で、まるで鳥のようにも見える。
偏見だが黒をイメージしており、実際は悪魔と言われるのが信じられない白さだ。出してあげたいがジタンすらどうすればいいのかわからないのだ。石を壊せばいいのかもしれないが、そうすれば今夜こそ魂を取られるかもしれない。
困ったと一人唸っていると、凛とした強い声がかけられた。

「君は何故ボクの誘惑が効かないの?」
「友達を大切にしたいからさ。でも君の元の姿で誘惑されたらたまらないな」
「当たり前さ。ボクを誰だと?」

余裕が表情に生まれて少しホッとした。自信家で美しいのが元の姿なのだろう。むき出しの肌が目も当てられず、肩から毛布をかけてやれば羽が震えて驚いた顔が物言いたげに見つめてくる。
こちらこそ言いたい事は沢山有る。だがまずは距離を置かないと理性が崩されそうだった。無垢な青い目から視線を逸らすと、赤い顔を見られないように俯いて隠した。

「もう俺の所にはくるな。次からはお前を退治しないといけなくなる」
「なんで?」
「なんでって、そりゃ」
「どっちにしろ、ボクはもう元には戻れない。君に執着してしまったから」

何を言っているのかはわからない。だが彼女には退くという意識がないのはわかった。人間と悪魔、思想に違いがあるのだろう。
勝手にベッドへと乗り上がる彼女に慌てはしたが、止める術はない。一部始終の行動を観察していると、楽しそうに揺れる尻尾も布団へと隠れてしまった。

「何してるんだいジタン。ホラ早く」
「何故オレの事を知っているんだ」
「ボクは人の心を覗ける。サキュバスは相手をその気にさせないとダメなのさ」

彼女の穏やかな声が催眠術のように脳へと響く。眠気が襲いかかってくるが、彼女がいれば寝られるはずがない。扉を潜ろうとすれば「どこへ行くの?」心底不思議そうな音色が聞こえてきた。

「お前がいるならオレが寝られないだろ」
「君の魂に興味はないよ」
「オレのベッドに入るなって」
「一緒に寝たら問題ないよ」

あっけらかんと言い放たれた言葉に頭を抱えるしかない。性欲の悪魔だから、常識が通用しないのだ。

「問題だらけに決まってるだろ」
「なんで」
「なんでって、レディと寝てるなんて何があるか」
「これはこれは。初々しい」

楽しそうに面妖な笑みを浮かべる彼女が憎たらしい。だが事実だから言い返すべく言葉が見つからない。顔を真っ赤にしていればクスクスという笑い声だけがこの部屋に響いた。この悪魔、絶対に何か企んでいる。油断させて魂を取る気かもしれない。

「何も起こらない保証がないだろ」
「どうやったら信用するんだい。ボクは力を封じられている。ロクに動くことも出来ないんだ。それでもダメ?」
「レディは疑いたくないけど。口でならいくらでも言えるからな」

申し訳なさそうな声に目を見開く彼女。もう言い返す言葉もないのかそのままベッドから起き上がるとゆっくりとした足取りで窓へ向かう。しかしここは高い位置にある部屋なのだ。出入り口にはなり得ない。

「危ないぞ!?」
「扉からは出られないもの」
「だからってっ」

飛び降りることは彼女にとって雑作もないことなのかもしれない。それでも心配になってしまうのは性格故だ。
言葉を切ると歩を進める彼女を、思わず呼び止めていた。まだ完全に信用したわけじゃない。だけど人のいいジタンにはこう答えるしかなかった。

「わかったよ。ホラ寝るぞ」



首筋に吐息が当たる。男とも勿論に寝たことはない、感じたことのない変な感覚に肌が刺激される。しかも裸の女性が自分を抱き枕代わりにして寝ているのだ。胸が当たるし緊張して眠れるはずがない。体が強張り尻尾も逆立っているのが自分でもわかる。今日は徹夜かもしれない。

「ジタン、寝た?」

遠慮したか細い声がした。眠れるはずがない、と言い返せばよかったのかもしれないがあえて黙っていることにした。
背中に顔をこすりつけられ、服越しでもくすぐったい。身じろぎすると柔らかい息が背中にかかった。甘い声が聞こえて体が強張る。クスリ、と彼女の笑い声が聞こえた。起きていると知っていてからかっているようだ。まんまとはめられた。

「お前な……」
「あれ起きてたの」
「わざとらしい」

振り向くことは出来ないから顔だけ精一杯振り返り睨むが、顔を背中に埋められては効き目がない。懲りない悪魔にはため息すら出なくなった。

「初めてなんだ」

ふと聞こえた単語の意味がわからない。

「今まで男なんてボクの力の糧。食い物だった」

物騒な台詞が後に続く。

「誰かに抱かれても、精霊を創ってもボクには利益がない。でも…」

抱きつく腕に力がこもる。この後に続くであろう台詞に顔が赤く熱くなる。思い込みだろうが、期待してしまう。耳をすましていれば、耳朶に息がかかった。
「キミは特別だ」という言葉と共に。
正常な思考が働かなくなってきた。もしかしたらこれは罠かもしれないのに、嘘かもしれないのに、体は勝手に欲に疼いて彼女を見下ろす形となっていた。
互いの間に流れる沈黙。何も言わないし動かない。
見つめ合うだけの男女だったが、先にジタンが動いた。唇を優しく合わせてすぐに離れたが、彼女のほうから食い付いてきた。長いキスに酔いしれていると首に腕が回る。答えるように頭を抱くと、嬉しそうに体が跳ねた。

「ジタン……」

名前を呼ばれ、ふと気がついた。彼女の名前を知らない。名前を呼ぼうにも呼べないのだ。
硬直していると彼女は可愛らしく首を傾げた。どうしたのか、と問われたから正直に答えれば笑われた。何故笑うのかは知らないが彼女は腹が捩れるのではと思うほどに笑い転げた。

「そうだったね。名前かぁ。長いこと使わないから忘れていたよ」

遠くを見つめる瞳が綺麗だと思った。しかし寂しそうな色も宿り、不安にもなる。視線が合った瞬間に柔らかく笑いかけられた。目だけで。

「クジャ、だよ。でも名前で呼ばないで」

名乗っておいて「呼ぶな」など、不思議なことを言うものだ。理由を聞こうと口を開けば人差し指に遮られた。

「これ以上君に"執着"するのが怖い。普段使われない名前ほど特別な力を持つものはないから」
「意味わかんねぇ」
「そうか、君にはわからないか」

大人な笑いが腹ただしいが何も言わないでおく。悪魔、クジャは誘うように口角を上げて笑った。

「気が変わらないうちにヤらなきゃ、ボク寝るよ」
「別に、セッ……クスだけが楽しみじゃないだろ」
「そうなの?」
「教えてやるよ。一緒にいるだけで楽しいこともあるってさ」
「うん。期待してる」

意識したら負けだ。裸の女性を優しく抱きしめると、嬉しそうに体を丸めて胸へとすり寄ってきた。
羽も尻尾も腰に巻き付き、少しくすぐったいが彼女の愛情表現なのだ。可愛いところもあるものだ、と柔らかく跳ねた髪を撫でた。

「温かいね……」
「このまま寝るぞ」
「うん……」

色気の含まれた微睡む声に鼓膜が刺激される。彼女の美しい髪に、肌に、声に夢中になる。
このまま朝にならなければいいのに、そうまで考えてしまった。朝になれば必ず別れがくる。言われなくてもわかりきったことだった。
それでも今は逃がさない。小さな体を抱きしめると、突然のことに困惑した表情が覗かせる。

「ジタン……」
「どうした」
「ボクのこと、好き?」
「い、いきなりどうしたんだよ」
「好きって言ってくれたら、ボクは君の物になれる、から」

それは罠。悪魔との契約。悪魔と契約をすることは最大の禁忌であり、人間への裏切り行為である。
今の暮らしは気に入っている。劇団の仲間たちと旅をして、たまに入ってくる魔物退治の仕事にスリルを求め、友人とバカみたいに笑い合う。こんな平和で単調な日常が楽しい。
それでも、彼女を見て小さな亀裂が走る。
彼女を受け入れたらどうなるのだろうか。仲間たちから追われ、逃げるように静かに暮らす日常。それでも彼女がいる世界がどんなものか知りたい、好奇心が先攻して感覚を麻痺させる。

「なあ、クジャ。俺はお前のこと、なんていうか……」

好きか嫌いか、白か黒かで答えろと言われたら「好き」だ。それでもはっきりと答えられない。答えるには重すぎる問題だ。もう少し話だけでも、と思ったがそれは叶わなかった。腕の中では小さく寝息を立てる彼女。頭の毛がゆらゆらと、風もない部屋で揺れる。
余程疲れていたのか、少々触ったくらいでは起きる気配なかった。

「まあ、いっか」

持ち前の前向きさが「なんとかなる」と告げている。今は難しいことを考えるだけ損だ。目の前にいる幸せを抱きしめよう。
白い肩に手を回せば「ジタン……」と舌ったらずな声。起きているのか寝ているのかは完全に判断出来なかったが、敵意がないならそれでいい。
甘い匂いに酔いしれながら、目を瞑ると夢の世界に落ちていった。

**

朝日が昇り、顔を照らされ目が覚めた。強力な眠気覚ましに不機嫌な呻き声を上げて、目を覚ました時には彼女の姿は見えなかった。
彼女は普段どこにいるのだろうか。居場所を突き止めて討伐しようなんてもう思わない。
ただただ、彼女と日常を一緒に過ごしたい。願いはそれだけだった。

(…ヤバい、オレ本気かも)

「ジタン」。舌ったらずな甘い声が聞こえてくる気がした。
不思議な魅力を持つ彼女に、不思議な瞳をしている彼女に。名前を呼ばれる度に愛おしさがうまれて、心が高揚した。まるで底なし沼に引きずり込まれるように、感覚が薄れてしまう。
これか、彼女が言っていた言霊か。名前とは不思議なもので、人によってその威力が変わってくる。まして彼女は普段呼ばれない、と言った。ならばどれほどの威力がこもるのか。

「また会えるかな、クジャ」

開いた窓から一枚布が入り込んできた。誰かの洗濯物ではない、これは見覚えがある。前に女性にあげた上着ではないか。
理解もせずに握りしめると、雲の隙間から差し込む朝日に目を細めた。
捕らわれたのはどっち?

+END

++++
金髪の女性もクジャです。最初テラでのクジャも金髪だったみたいなのでそれを意識、朝昼は金髪で夜になったら髪を魔力で染めて、魔力集めの為に魂取りに行く。というイメージ

10.2.15
修正17.3.18


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