ててご | ナノ



蛇と貴族の神隠し4

※4


 ガタンガタン。不定期に縦に跳ねる体を支えながらも、ジョゼフは何度目かわからないため息をつく。
窓から入り込む日差しは天頂をいそいそと通り、直接顔を照らすことはない。だが、直射日光の他に不快な要因があるのだ。例えば、賢人である蛇人間が用意した馬車とか。
速度に関しては問題はない。広さも寝転ぶことができるほどの余裕がある。だが、乗り心地が最悪なのだ。どうやら彼の見つけてきた馬は相当の暴れ馬のようで、小石もないのによく跳ねる。確かに見た目は美しい青く輝く白馬であったが、性格に難があるようだ。誰かとそっくりで。
 だが、ルカの言うことには絶対服従。今も彼が御者の役割をしているが、鞭で打つことも餌で釣ることもしない。あくまでも自らの意思でルカを慕い、語らい、従っているのだ。ジョゼフが手を出そうものなら、何度か匂いを嗅いだ後に鼻を鳴らして嘲笑った。腹が立たないほうがおかしい。だが動物と喧嘩をしたとなると後世の恥であるし、馬に人間が勝てるわけがないから、知的な生物として譲る譲歩するしかなかった。

「まだつかないのか」
「もう少し待ってほしい。なかなか遠いところにあるから」
「夜までにつけるか怪しいものだな」
「寝ていたらいい。着いたら起こすよ」
「こんな寝心地の悪い場所で眠れるわけがない」

 もうすでに出発してから、太陽もゆっくりだが着実に空を横断している。もうお尻の痛みにも我慢ができなくなってきたし、花の咲かない会話にも飽きてきた。退屈で眠気もくるが、こんなところで眠れるわけがない。窓越しに運転席の彼の後頭部を眺めて時間を潰していると、遠くに高い塔や屋根が見え始めた。広い空に自然が減り、整備された道を通り始めたことで揺れもマシにはなる。

「もうすぐだよ」
「思ったよりも都会だな」
「きっと、貴女が考えているよりも距離がある場所だから」

 ガタンガタン。
目的地が見えたところで、急に眠気に襲われた。揺れる馬車に身を委ねては目を閉じるが、やはり他人の気配がするだけで気が張り詰めてしまう。いつも部屋でも物音がするだけでも目が冴えてしまうし、深く眠れた日はない。それに今は昼間であるし、人混みの中へ突撃しようとしているのだ。いつ誰に姿を見られるかわからぬ場所で、醜態を晒して無防備に寝れるわけがない。
深くため息をつくと、お気に入りの手鏡を覗いては長い髪に櫛を通す。ヒヒィン!と馬の小粋な鳴き声と軽快になる蹄が地を打つ音。「向こうに着いたら、いい魚を買ってやるからな」と馬と楽しそうに対話する声を聞きながら、眉を寄せた。
そんな無防備な笑顔なんて、向けられたことはないのに。

 着いた場所は、交易が盛んな大都市だった。
暮らしている熱帯雨林地帯と打って変わって、暑さをみじんも感じさせない、むしろ涼しい風が通り抜ける住み心地の良い場所である。肌の色も、ジョゼフに似た者が多いために随分と原人たちの住処から離れたのだとわかる。
周囲を見回せば、平民から身なりのいい貴族、憲兵まで悠々と歩く治安の良い場所だとわかる。興味津々に周囲を見回せば、見たこともない作物に、物珍しい家具や衣服。アクセサリーも見つけて、思わずショーウィンドウの前で立ち止まってしまった。

「久しぶりに人に会った」
「私も久しぶりだ。洋服が変ではないかな?」
「お前にはもったいないくらいだ」

 素直に褒めてはくれないが、タキシード姿へ時折視線を向けているのは見てとれる。ニッコリと音がするほどに微笑み襟を引っ張りただすと、孫にも衣装、誰も密林の奥地に住む化け物だとは思わない。横に佇むのは、少し身嗜みにはズボラな好青年である。通り過ぎる女性たちも、振り返り彼へ情熱的な視線を向けるものすらいる始末。
 「彼の連れは私だ」と威嚇を込めて咳払いをして睨みつけると、そそくさと去っていく女たち。勝ち誇った笑みを浮かべると、そそくさと歩き去っていく。彼の隣を独り占めしている優越感を感じながら、改めて爪先から天頂まで視線を滑らせてみることにした。

「その服はどうしたのだ」
「昔密、友にもらったんだ」
「友?」
「今度、貴女にも紹介しよう」

 その友は人間なのだろうか。あの場所から一時も離れたとこはなかったが、誰1人としてよそ者は見なかった。彼がたまに出かける時がったが、食事を取りに行くか「イドーラの元へ行く」としか聞いていない。その間に出会っていたのか、昔出会ってそれっきりなのかはわからない。だが真新しいものだから、最近出会って受け取ったのだろう。こんな幻の生物にも、友と言える相手がいるとは!

「女か」
「?」
「……なんでもない」

 どうしてそんな下らない質問をしたのか、本人すらわからない。気を紛らわせるように手を引くと、人の波の中へと引きずり込んだ。
妙に目立つ彼の姿を見ていて、焦燥を覚えたのは確かである。その焦りが歩幅にも現れてはどんどん早くなる足並みに、彼の手を強く握りしめる握力。ふいと目を逸らし、問い詰められたらどう答えようかと思案していたが、急に握りしめていた質量が抜け落ちたことに気がついた。勿論、彼の姿も隣にない。
 どこへいったのだろうか。周囲を見回しても、様々な人種の人、人、人。久しぶりの人混みに酔ったし、女の香料に気分が悪くなり頭がクラクラしてきた。早く、煩わしい謙遜から離れたい。周りからの視線を振り解くように顔を振っては周囲へ視線を走らせていると、見つけた。遥か後方で、店へ真剣な熱視線を向けている彼がいるではないか。見せは書店、見つめているのは馴染みのある大陸の文字が使われた、分厚い参考書である。

「バルサー」

 側によって声をかけるが、返事はない。もう本の中に引き込まれており、真剣な視線は活字を追うだけの機械に成り下がっている。真横に立って覗き込んでも、反応一つない。どうにも腹が立って足を踏みつけてやれば、苦悶の声一つ上げず、リアクションもなくすぐさま視線を向けてきた。そして連れの存在に気がついては「ああ」とどうにも薄い反応を示すのだ。

「本が欲しいのか」
「……」

 再び活字へ視線を向けることに没頭を始めた姿にため息をつくしかない。
研究にしろ読書にしろ、この知識に貪欲な神様は一度集中すると周囲に一切の興味がなくなる。こうなればいくら怒鳴りつけても無駄だし、街の中心で下品な姿を晒すこともない。

「気が済むまで見ていたらいい」

 最後に、嫌味の諦念のため息をつくと、聞こえるはずもない言葉を投げかけては彼を後にした。
いつもは使用人が側で荷物持ちをしているのだが、今日は1人。重い荷物を自らで運ぶことに貴族の令状は納得がいっていないが、仕方がない。目新しい店へと足を向けると、必要な小道具だけを買い揃える。化粧品、下着、火を付ける道具。生活必需品となる物を買い占め、腕から下げた小さな鞄へと詰めていく。少し腕に負担がかかり始めたから、あとは連れに持たせたら良いだろう。嬉々として本を見つめているであろう知識バカな蛇を迎えに、来た道を戻り始めた時だった。急に声がかけられたのは。

「もしもし。そこのお嬢さん。お一人ですか?」

 久しぶりのことだったため、始めは自分が呼ばれたとは思っていなかった。無言で立ち去ろうとすれば、腕を強い力で掴まれては引き戻された。驚きバランスを崩したジョゼフを抱きとめたのは、身なりがいい初老の紳士。どこかの金持ちなのだろうか。身につけているものには純金や珍しい素材のブランド品ばかりだと、一眼でわかる。
数ヶ月程度では長年の習慣は忘れない。にっこりと邪気のない営業スマイルを浮かべては、スカートの裾を持ち上げて頭を下げる。この近辺の貴族ならば、仲良くしておいて損はないだろう。

「私に何か御用ですか?」
「この近辺では見ない、美しい方なのでつい声をかけてしまいました」
「ウフフ。お上手ですね」

 社交辞令を受け流しながら、表面上だけの笑みを貼り付ける。同居人は興味を示さないが、元来、ジョゼフに振り向いてもらおうと声をかけるのが日常である。鈍感で、女心がまだまだ勉強不足なルカの能天気な笑みを思い出し、深いため息をついた。それを退屈しているものだと勘違いした紳士は、ゆっくりと手を取り自然な微笑みを向けてくるのだ。

「どうですか? ご一緒にお茶でも」

 このままパトロンが増えるのは願ったりだ。是もなく了承をしようとしたのだが、ふと別行動をしている男の顔が脳裏の過ぎるのだ。別に放っておいたところで、勝手に帰ることもなく待っているだろう。それでも、どうしても気になってしまう。急にソワソワと周囲を見回すものだから、不審に思った男も背筋を正して姿勢良く首を傾げるのだ。

「どなたか、お連れの方でも?」
「ええ、まあ」
「こんな美しい人を放っている者など、気にすることもありませんよ」
「それはそうなのですが」

 「さあ、早く」と腕を引く力を強くする男に、少なからず恐怖を覚えた。許可を与えていないのに、知らない相手に無理矢理連れて行かれるなど悪寒が走る行為である。慌てて腕を振りほどこうとしたのだが、それを押さえ込むように強い力で引き剥がされたのだ。

「彼女は私の連れだ。何か用かな?」

 凛とよく通る声が割り込んできたと思えば、背中にジョゼフを隠しては男の前に立ちはだかる大きな後ろ姿。木々の、自然の匂いが染み付いて離れない背中を「臭い」と思うこともなく、懐かしさと安堵を覚えてしまった。無意識に体を預けていたなど、彼女も気付いてはいなかった。もたれかかってくる熱を冷ますよう、後ろ手で雑に背中を撫でると、小さな声で呟かれる。「ジョゼフ。1人にして悪かったよ」と。
「悪いというものではない」言葉の代わりに思い切り上着を引っ張ってはウエストを締め付けると、悲鳴は小さく上がったが、拗ねた彼女が微笑ましいと感じる。
2人で微笑ましい雰囲気を作り、剰え男が幸せそうに笑っているものだから、不快感を覚えた貴族の男が引きつった表情で詰問してくる。

「貴方は、彼女の使用人ですかな?」
「いや、婚約者だ」

 よくもいけしゃあしゃあと嘘が出るものだと関心してしまった。だが今は都合の良い方便である、合わせておくに越したことはない。何も言わずににっこりと微笑んでいると、無言を肯定と受け取った紳士が、驚いた表情で2人の顔を見比べる。確かに見なりだけは貴族を真似ても、何百年も自然の中で生きてきた野人では気品が違う。物覚えはよくとも、無理があるだろう。
 それでもナンパをしていたお嬢様が言うのなら間違いはないだろう。仲睦まじく寄りそう姿に、自慢の髭を少し弄っては、帽子を取ってぎこちなく微笑んだ。

「そうですか。お嬢さんがお1人というのもおかしいと思いましたよ」
「お相手をしていただき、ありがとうございます」

 表面上だけの社交辞令の挨拶を交わし頭を下げたと思えば、彼の名残惜しい視線から隠すように強く肩を抱き寄せられる。文句を言おうと口を開く前に、石で舗装された綺麗な道を早歩きで進み、人気のない裏路地へと引き込んだ。勿論暴行をするわけではない。怒りの沸点が限界に達した彼女を案じてである。
案の定、人の視線がなくなった途端に、高いヒールの靴で真新しい革靴を思い切り踏みつける。ワナワナと震え、少し涙すら浮かべては怒りを露わにする姿に、罪悪感すら湧いてくる。

「くるなら! もっと早く!」
「すまないね。興味深い文献に、つい夢中になってしまった」

 予想通りではあるが、腑に落ちないのも確かである。最近人間の知識に興味津々であるのは知っていたとはいえ、放って置かれたのは確かである。物も言わず色気もない「本」という無機物に負けたのだ。腹が立たない方がおかしい。
わざとらしくを膨らませてはフイと顔を逸らし、彼を困らせる。どうしたものかと悩んだルカであるが、そこで、先ほど興味深い資料を見たことを思い出す。確か「恋人との仲直りの方法」であった。

「手、繋ぐかい?」

 書かれていたのは、指を指を絡めるという方法である。どういう効果があるのかはわかっていないのだが「もう逸れない」という意思表示にはなる。しかし、目を瞬かせている彼女は、基本的には身体接触を嫌がる。言ってしまった後の祭りではあるが、良い成果は見込めないだろう。諦めて差し出した手を引っ込めようとした時だった。同じ部位ではあるが、一回り小さな手が差し出されたのは。
 驚くのはルカである。急に素直になったと思えば、まだかまだかと指を動かすのだ。慌てて指を絡めて答えると、また驚いた表情を浮かべては、満足そうに応えるのだ。強く細い指を絡め、を赤くして。

「もう目を離さないようにするから」
「私は迷子か……。悪いのは貴様だろう」

 彼女の言葉は相も変わらず厳しいが、声音は柔らかい。手を引き腰を抱き寄せるがため息以外は返ってこない。そういえば、婚約者という方便に対してのお叱りはないが、人目があるからだろうか。尋ねようとも、思ったより強い手の力と伝わる他人の熱に興味が惹かれ、言葉がでなかった。



 蛇との奇妙な同棲を始め、半年が過ぎていた。
人の知識が加わったことにより、ログハウスにも様々な文明の利器が取り入れられた。お金持ちの彼女が、発明家の彼に知識を与えたことにより、購入した衣服や紅茶のセットの他、手作りのキングサイズのベッドやシャワーなどと言った、文明の利器が自然の中の一軒家へ取り入れられることとなった。違和感はあるが、生活がやりやすくなればこちらのものである。
ジョゼフの頼みで人里に降りることは多くはなったが、まだ丁寧な言葉遣いだけは得意ではないらしく、いつまで経ってもルカはジョゼフに気さくな言葉を使う。貴族というものを教えたところで「わかった!」といいつつも態度は変わらない。
聡明な彼のことだから、理解はしている。だが、彼女と親しい距離から離れようとしないのだ。狡猾な蛇が、獲物を狙うかのように。

「ん、もう朝……?」

 初めは不便だった原始的生活も、原住民の知恵があれば住めば都。食用になる菌類や木の実の見分け方、魚や獣の捕らえ方、火の起こし方、粗暴な動物たちからの身の守り方。すっかりジョゼフも家族のように扱われ、時折何を私にきたかを忘れてしまうことだってあった。
そう、秘薬の製作法について探ることは忘れてはならない。首にかかるロケットに誓う。
 今朝も暖かく、むしろ日陰にいるのに暑い。太陽の登り始めた剥き出しの空を眺めては、あくびを一つ漏らしてジョゼフは身を起こした。高価な羽毛布団に包まれながら、現地の木を切り倒して作ったベッド。2人は並んで眠れる大きさにはしたが、大体は彼女専用の場所である。もう1人はいつ眠っているのかすらわからない。BGMのように鳴り響く音は、哲也で作業をしていた証である。作業机を睨みつけている蛇の背中を、まだ定まらない視界で捉えては目を擦る。
何度か、無礼な男から守ってくれた背中だ。もうすっかり後ろから見つめることが当たり前になっていたそれに、ドクンと心臓が脈打った。

「おい。朝だ。今日も徹夜か」
「ああ、おはよう。もう朝か」
「……お腹が減った」
「準備するから待ってて」
「魚がいい」
「わかった。獲ってくるよ」

 蛇は、決して人間の我儘に逆らわなくなった。金で雇われたわけではない、脅されているわけでもない、彼女のものにしようといいところを見せようとしているわけでもない。ただ、純粋に「何かをする」ということが楽しいらしい。発明家らしい柔軟な発想と行動力には目を見張るものがある。
 何故だか、急に胸が締め付けられる思いがした。
寝ぼけていて、いなくなった弟の背中とブレたのだろう。出て行こうと背中を向ける彼を見ていると、無性に手を伸ばしたくなった。「あ……」と短い悲鳴が上がり、体を伸ばしたところで、ドタンと鈍い音がして地面へと落下してしまった。驚いたのは蛇である。慌てて引き返してくると、細い腕で抱き上げた。体力のない彼のことだ、それだけで困ったように笑みを浮かべては踏ん張る姿が見て取れる。

「大丈夫か? お水、飲む?」
「……このままがいい」
「寒い?」
「……暖かい」

 目を閉じて全身を預けてくる姿は、さしずめ動物の赤子である。長い睫毛が宙を叩き、赤く染まった目元が美しく、そして可愛らしい。しばらく何も言わずに抱き合っていたのだが、鳥が窓に止まってうるさく鳴くものだから、我に帰ることができた。日はすっかり顔を出しており、その陽の光で朝を告げる。

「じゃあ、行ってくるから」
「……わかった」
「寝ててもいいよ」
「本」
「昨日読んでたものかい? 私の机の上だよ」

 妙に甘えてくる姿にはルカも驚くばかり。前触れもなく、急にパーソナルスペースが近くなったのだろうか。場所を示しても手渡すことを望むお嬢様に苦笑しながら、分厚いハードカバーの薬草学の本を渡してやれば、寝ぼけながらも指を絡めてきた。
街で行ったご機嫌とりの応急処置のつもりだったが、彼女の中ではすっかりお気に入りとなってしまっていた。それに、彼女が寝ぼけるほどに深く眠っていたのも珍しい。だが、気を良くしてこのまま熱を享受していれば、わがままな彼女は急に怒り出すに違いない。慌てて手を振りほどこうとすれば、思ったよりも感情的な、悲しげな表情を浮かべるのだ。戸惑わない人間がいないほどの。

「……はぁ、わかったよ」
「何が」
「もう少しここにいるから」
「朝食が遅くなるだろう」

 それでも手は離さない。妖しい魅力を持ち、自分の利益になることでしか甘い表情は見せないというのに。を染めては嬉しそうに手の感触を味わう彼女を見ていると、なんだか暖かい気持ちになってくる。奥から湧き上がるような気持ちを、人の姿を借りた神様は知らない。
彼が満足した彼女に解放されたのは、彼女の腹の虫が居心地の悪さに小さく咳払いをしたところだった。バツが悪い顔で睨みつけてくるが、決して手は出さない。唇を尖らせながら視線を外して、まるで淑女のように汐らしく拗ねるのだ。

「あはは。続きは食べてから、かな」
「続きなんてない」

 そっぽを向いてはいるが、大人しく離したのは少なからず期待をしているからだろう。大人しくベッドへ座り、彼から手渡された本を宝物のように抱えてはペタリと無防備に座り込む。
 最近、人間の女の特性についてわかってきたような気がする。月に一度、何をしたわけでもなく機嫌が悪くなる週があるし、ジロジロ見られることを嫌う。今思えば、少女たちもジロジロ見られることを嫌っていたから、彼が薬の開発以外に興味がなかったのだとわかる。だが急に体のラインを見せつけるような動きを見せるし、やっていることと言っていることが不一致な時もある。それはジョゼフの性格もあるのだが、まだ彼には性別と性格の見分けかたはわからなかった。

「じゃあ、今度こそ行ってくる」
「いってらっしゃい」

 小さく手を振り見送る彼女の意地らしい仕草に、恋愛感情を理解していない男でも惹かれるのがわかる。自然と浮かんだ笑みに釣られて照れる彼女の姿をちゃかすように、再び腹の虫が鳴いたのだった。

 彼が戻ってきたのは、そう時間がかからなかった。
手のかかっていない、簡易的な焼き魚という料理を楽しむと、彼は会話も厳かにすぐ背を向ける。研究が忙しいのはわかる、研究が進めばジョゼフの祈願も達成して一石二鳥。それでも、今は喜ぶ気になれなかった。細い指を伸ばし、掴もうと動かすが彼は気づかない。こんなにも近く、大きく見えるのに触れることは困難。またベッドから落ちてはたまらない。身をあげるだけで止めると、至極優しい声で呟くのだ。

「バルサー」

 名前を呼べば振り返る背中と、優しい声。「ん?」と穏やかな笑みがこちらを向くだけで、心臓が高鳴りつい胸を抑えてしまった。
ああ、うるさい。朝起きた時は、ただの寝起きの問題かと思っていたのだが、どうやら違うらしい。
ずいずいと近づいてきた彼につい後ずさりをすれば、首を傾げながらも無遠慮に距離を詰める。相手が気が気でないことなど、お構いなしである。
目の前にそびえ立つ、背の高い蛇の姿。頭上に影がさしたことでやっと我に帰ることができ、慌てて言葉を紡ぐのだ。

「今日から、イドーラの元に引っ越すことにする」
「何故? 今までは、ずっと一緒だったじゃないか」
「……気が変わった」

 本当に急な発言で、思わずルカから表情が消えた。
昨晩までは普通に食事をし、言葉を交わし、読書をしている姿を見つめ、眠っている姿を眺めていた。何気ない日常であり、前と変わらない関係。それが、急に崩れようとしていた。納得がいくはずがない。
急に現れた客人ではあるが、1年もすれば家族同然。いなくなれば寂しいし、少なからず神様も人間の彼女に情が湧いた。

「行かないでおくれよ」
「どうしようが私の勝手だろう」
「研究を手伝ってくれる、と契約をしたもの貴女だ」

 無許可で羽交い締めにしたと思えば、ゆっくりと抱きしめられた。急な抱擁に身を固くする彼女と、スリスリと犬のように頬を擦り付ける彼。だが、強すぎる力ではなく、振り解こうと思えばすぐに解けるほど。捕まえておきながらも逃げ場を作っては彼女の意思を尊重しようと努めるのだ。

「前にひっついて眠ると、冷たくていいと言っていたのに」
「気持ちはいい、けれども」
「じゃあ、今夜は一緒に眠ろう」

 昨日までは煩わしさすら覚えた無邪気な笑みが、今は直視することができない。首を横に振るべきなのはわかってはいるが、感情に突き動かされるままに、ギクシャクとした動きで首肯すると「ありがとう!」と八重歯を見せて笑う。動く尻尾に、シャラシャラという鱗の動く音と共に。

「貴方を抱きしめると、甘い匂いがするし、暖かくて、よく眠れるんだ」

 伸びてきた手に抗わず、彼女は目を閉じて冷たい鱗の感覚を享受する。ざり、ざりと滑らかな年頃の女の肌を撫であげながらも赤い舌を機嫌よくチロチロと覗かせる。

「だから、出て行かないでおくれ」

 寂しそうな目で、優しい声で言われてしまえば首は横に振れない。ドクン、ドクン。どちらのものかわからない心臓の音が響く。
 ジョゼフにとっても、本当に急だったのだ。朝、目が覚めて、簡単でぶっきらぼうな言葉を交わし、簡易の食事をして優雅な時間を過ごす。豪勢でな住まいでもない風も通るボロ小屋ではあるが、ふと、彼の笑顔が眩しく感じた。思わず目を閉じ、次に直視をしようとして気付いてしまったのだ。心臓がうるさいくらいに高鳴り、熱帯雨林の気温よりも体温の方が急上昇していく感覚に。
 ヒトは、これを「恋」と呼ぶ。
認めたくなかった。引く手数多な貴族の令嬢が、原始的な蛮族のことを好きになるなんて。それに、人間ですらない得体のしれない超常的な生物である。普通は会うことすら難しいほどの。

「どうして、こんなデリカシーのない蛇のことを……」

 着替えは凝視する、風呂も覗く、許可なく口付けをする。そんな女の敵のような男だ。それでも、彼を思い出す度に正常な思想は麻痺をする。恋は盲目、惚れたら負け、よく言ったものである。
今の歯の浮いた言葉だって、彼の天然の言葉だ。母国で指折りの娘をくどいているわけではない。この抱擁だって、変温動物が暖を求めているにすぎない。それでも、少しは期待していいのかもしれない。
部屋を漁っても小言は少なくなってきたし、自由行動をしてもお咎めはなし。気を許されているのだと自惚れてしまう。つい腕を巻き付け返せば、目をパチクリと瞬かせながらも、微笑み抱き返してくれた。

「どうかした?」
「……別に」

 蛇への恋慕を認めてしまっては、計画に支障が生じる。いつか彼の研究結果を盗み出すつもりなのだ、尾を引く想いなど断ち切らなければならない。だが、公私混同をしないことは得意だ。きっと、その時になればどれほど冷酷な判断でも下せる自信はある。
「もう少しだけ」堕天の囁きが耳元で聞こえる。ゆっくりと瞳を閉じては最後に強く抱擁を返すと、つっけんどんに男の逞しい胸を押し返した。彼女の気難しい性格には随分と慣れた。これも拒絶や怒りではなく、ただの気まぐれ。何か恥ずかしい思いを退けるための動作だとはルカもわかっている。
子供の微笑ましい反抗期でも見るように、何も言わずに笑みを浮かべては、落ち着いた彼女の頭を撫でるのだ。

「さて。今夜は何が食べたい?」
「なんでもいい」
「珍しいね。お姫様が我が儘を言わないなんて」
「お前の、食べたいものがいい」
「ふぅん。じゃあ、肉でもとってくるかな」

 含みのある笑みではあるが、声は優しい。いや、今までと同じ声音であるが惚れた弱み。まるで一流の声優のような美声と、モデルよりも美しい容姿に見えてしまうのだ。

「やっぱり、買い物に行きたい」
「うん、いいよ」
「新調したいものがある。巻尺はあるか」
「あるよ」

 この家にあるには珍しい、比較的真新しい文化の物は、ジョゼフが持ち込んだものである。文明の利器を片手に外へ出ようとすれば、「どこへ行くんだ」と能天気な声。「イドーラの元へ行く」と言えば、慌てて這い寄っては再び強く抱擁されては「行かないでくれ」と勘違いをした焦燥の言葉。それほどにまで手放したくないのかという思想は、自惚れではない。

「どこにも行かないさ」

 まるでルカに、ジョゼフに言い聞かせるような言葉に、やっと蛇は安堵の息をついて体を離した。

++++
21.11.28


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