幼い仔犬のじゃれあい方
兄弟水入らず、なんて機会は久しくなかった。
世間のことも知ったことはない幼少期は、妖怪と半妖の仔犬たちは仲良く駆け回ったものだ。異母であり、混血と純血という決定的な違いがあったのもあったが、歳の近い子供同士、遊び相手がいることは嬉しかった。
周囲から蔑まれていた異母弟であったが、頭領である父親は大層猫っかわいがりをしていたし、忙しい中よく遊ぶ時間も作ってもくれた。
犬猿の仲になったのは、いつからだろう。ああ、確か一族の頭がいなくなったころだったか。父親の相続品や犬一族の後継者としての蟠りのせいで、兄弟の仲は拗れていったのだ。遂には、顔を合わせるだけで一発即発。大怪我を負わせるわ、腕を取るわの拗れっぷりを見せた。
お互いに、恨んでいるわけでもなければ本当に息の根を止めたいわけでもない。まだまだ仔犬たちのじゃれあいの延長上であり、意地の張り合い。犬夜叉にとっては唯一の血縁であるし、切磋琢磨できる相手でもあり、体の相性がよく、都合のいい番いでもあり。かごめら人間からは理解のできない仲の良さの、兄弟関係を築いてはいた。
奈落との決戦が近づいたことで、同じく奈落を討つ目的を持つ犬夜叉一行とは出会うことも多くなった。別に会いたくて会ってるわけではない。決して、そうではないのだ。
「ねぇ犬夜叉。あれ、殺生丸じゃない?」
「そんなことわかってら」
奈落の尻尾は、まだ掴めない。山越え、谷越え、川越えて。もう日本全土を旅したのではないだろうかと思うくらい、途方もない距離を歩き回った。先日、雨が降っていたために整備のされていない土の坂道はよく滑る。女共と小妖怪には最善の気を配り、土を固めて進んでいた一向であるが、急に犬夜叉の尖った耳が空をさした。
しきりに鼻を動かしてはいるが、臨戦態勢をとるわけでもない。むしろ、嬉しそうに頬肉が上がって行くのをかごめたちは見た。
突然駆け出した背中の先に、徐々に見え始めたのは尾を振る竜と小さな小妖怪の特徴的な錫杖。主人を筆頭に列を成すのは、殺生丸の一行だ。
珍しく、肩にりんを担いでいる姿を見るに、童女が足を滑らさないようにと甘やかしているらしい。共にいる少年は、双頭竜の背の上。小さな老妖怪は、哀れ自らの足で歩くことを強要されていた。
相手も勿論匂いでわかってるのだろう。それでもこちらの道を選んだのは、気にとめる必要がないと悟ったのか。それとも。
振り返ることをせずに、まっすぐ突き進む威風堂々の姿と気品は、大妖怪たる資質。無遠慮に駆け寄り、風を切る音がしたことで、童女がゆっくりと後ろを振り返り顔を綻ばせた。
「あっ、かごめさま!」
その喜色満面を合図に、面々が後尾よりやってくる一行へと視線を向けた。
気が引けたのなら、それで第一目的は達成だ。急に駆け出したことで、不機嫌丸出しで髪を整えるかごめを背から降ろせば、勢い良く女児も飛び降りては駆け寄ってきた。
そして、その傍らから隠れるようにして顔を出したのは、妖怪退治屋の年端もいかない少年。おずおずと、大妖怪の影から姿を表すのはなんとも皮肉なものだ。その白い青年犬も、何も言わずに見守るだけである。
「姉上、」
「琥珀。元気にしてた?」
優しい姉の顔になった珊瑚が駆け寄り、頭を撫でて体の怪我を確かめる。申し訳なさそうに、だが嬉しそうに姉を見つめる彼に、いくら妖怪相手に幾多の戦いを強いられた戦士も、まだ甘え盛りの年端のいかない少年なんだと自覚させられる。傍らに立つ大妖怪が背を押せば、そのまま姉の腕の中へとすっぽり収まってしまった。
童児2人はそれぞれの人の元へ向かったのを見計らって、犬夜叉はゆっくりと異母兄の側へと近寄って行く。対抗するように2人の間に分け入ろうとした邪見は、殺生丸に睨まれて縮こまってしまった。さすがに、毎度ながらかわいそうだと思ってきた。
「よ。相変わらず人間のガキに好かれてんな」
「人間の子は、女の尻に敷かれている半妖のガキよりは静かなものだ」
ああ言えばこう言う、そんな険悪な関係は挨拶のようなものである。今更気にすることはない。久しぶりに聞いた、低く耳障りの良い声に笑いが漏れると、怪訝な顔で睨みつけられて、視線が詰問してくる。「何の用だ」と。
「目的は同じなんだ、すれ違いもするだろ」
「ならば早々に去れ。近付くな」
どれだけ鋭く、射殺さんばかりの眼光を向けられたところで、慣れてしまえば怖くない。寧ろ、赤い化粧が施された目がなんとも言えず妖艶で、女性的。
ゆっくりと妾の細い肩を抱き寄せようとすれば、唐突に小妖怪の金切声が耳を劈いた。
「犬夜叉! 殺生丸様が迷惑がっているのがわからんか!」
「うるさいぞ邪見」
邪見を邪険にするところも日常茶飯事ではあるが、今日は一段と風当たりが冷たい。落ち込み、地面に解読不明の図解を描き始めた邪見を跨き、遠慮なく傍らに立った。
「しっかしなー、あいつら姉弟仲いいよな」
慈愛に満ちた目で琥珀を撫で、嬉し恥ずかしそうに顔を綻ばす琥珀の姿。
わざとらしく大声で言うことで、機嫌が損なわれていくのが見える。冷静とみせかけ、激情を持つ主人がいつ暴れ出すかを懸念して、ハラハラと見つめていた従者だが、空気はいつまでも酷く穏やかなものである。むしろ、積極的に聞き耳を立てているのだ。半妖を目の敵にしていた時期から考えると、驚くほかない。
「姉弟だからな」
「テメェが言うのかよ」
「どう言う意味だ」
「別に」
「もったいぶるな」
ふいと顔を背けてしまった犬夜叉を怪訝な目で見つめながら殺生丸は食い下がった。今日は、やけに興味津々である。
懸念していた通り、兄弟の仁義なき睨み合いが始まり、挟まれる邪見の精神はたまったものじゃない。いつ、何時抜刀して大喧嘩に発展するかを見守っていたが、その気配はない。徐々に沈静化する怒気の真意が読めず、逆に不気味である。
「どうあっても言わぬつもりか」
頬を引っ張りながら、眉間に寄せる眉はどことなく楽しそうで。「いひゃいいひゃい!」と声にならない言葉を発したところで、優しくなるわけもない。
痛覚を訴えようが、御構い無しに引っ張り、指で肌触りを堪能しては飽きてきた頃に唐突に手を離す。
赤くなった頬をさするが、文句は恨めしそうな視線のみ。一発即発で乱闘をしていた犬の兄弟も丸くなったものだ、と周囲は目を疑ったが当人たちは預かり知らない。
「ほら、俺らも異母兄弟だろ?」
「兄弟仲睦じいのが羨ましい」。言いたくて仕方ないのに意地を張り、わざわざ遠回しに言われて殺生丸は心底呆れた目を向けた。素直に言われれば「嫌だ」とつっぱねる理由もなければ、しぶしぶという演技をしながらも首肯はするというのに。お互いに相手に弱みを見せたくない似た者同士、困ったものである。
「なんだ。撫でてほしいのか」
「ちげぇよ!」
「ならば可愛がってやろうか」
「やめろ」
どうあってもはっきりと公言するつもりはないらしい。むくれる子供を見ているのに耐えかねて、踵を返して道を逸れれば早足で跡をついてくる。
「どこいくんだよ」
「沐浴だ」
追って後をついてこようとする童女と龍、小妖怪は近くの森の入り口を流れる川を指差して待機を命じ、後ろをついてくる駄犬には何も言わない。
犬夜叉も、かごめたちに一緒に休むようにと叫ぶと、すぐさま横に並んで上機嫌だ。澄まし顔で文句を言われないことは、同行の黙認だと判断する。逃さないようにと肩を抱けば、容赦のない毒爪が手の甲に突き立てられる。毒が皮膚を溶かしていく痛みが、ジワジワと肉へと襲いかかる間隔に思わず青くなる。
これは、仲間の視線がある中での干渉にご立腹なのだ。
このままでは、腕が爛れ落ちる可能性もある。手加減はしているようだが、いつ機嫌が急転直下して、容赦のない攻撃が襲って来るかわからない、それが冷静に見えて激情を隠す異母兄の性質だ。
「いってえ!!」
「自業自得だ」
「うるせぇ!」
手の痛みを緩和するために振っていると、低い声でボソリと呟かれた。
「りんが見ている」
どうやら、ご執着の少女に見られている、ということが罪悪感を刺激されているのがわかる。それでも異母弟との密会を拒まないあたり、お気に入りという分類はしてくれているらしい。それだけでも優越感が湧き上がる。
大切な少女の匂いが離れる度に、毒を帯びた手が弱々しく地面へ向かって垂れてゆく。妖怪の膂力は徐々に緩まり、最後にはおとなしくされるがままに肩を抱かれていた。
「最近ご無沙汰どころか、会ってすらなかったな」
「盛るな」
「なーあー、いいだろ?」
「煩い。甘えた声を出しても無駄だ」
簡単に素直になってくれるとは思ってはいなかったし、強く気高い彼の資質に惹かれて、また興奮する。
「殺兄。我慢できないのはお前の方だろ」
「っ!」
「珍しく近寄って来たじゃねえか」
合流できたのは、露骨なほどに兄の一行が方向転換をしたから。食物がある場所でもなければ、水もない平地だった。あるものとすれば、弟の一行の通り道だけ。いつも会いたい時は、何も言わずにやってくる異母兄が、ここまで露骨に「会いたい」と伝えてくるなんて、嬉しかったのだ。
耳に犬歯を当てて囁かれた呼び名は、犬の兄弟しか知らない。懐かしく不思議に甘く殺生丸の胸に響く。
「い、ぬ夜叉」
「殺兄、昔のやつ」
「夜、叉……」
「そうそう。今は誰も聞いちゃいねぇ」
妖怪のしがらみや、掟も何も知らないほど幼い頃。懐かしい異母兄への呼称を呟けば、応えるように彼の口からも懐かしい言葉が返って来る。
過去へと遡ったかのような甘美な感覚に酔いしれ、ゆっくりと今までの非礼への許しを乞うように、至極優しく服に手をかけた。随分と積極的であるし、今ならいけるだろう。振袖のような花の刺繍がされた布地は肌触りが良いが、奥ゆかしく隠れた白く必要最低限の筋肉がついた体躯は、それ以上に美しい。邪魔となる鎧を地面に置く音すら興奮材料となり、鼻息を荒くする。
一連の動きを「ああ、こいつは発情期か何かだろう」と他人事のように見逃していたが、さすがに下帯は許されない。頭を押さえつけるように、引っ叩くと抗議の遠吠えが上げた。
「いってぇ! 乗り気のくせに!」
「沐浴だと言っている」
ここまでの無礼を許したというのに、まだ理性が張りつめられているというのか。色素の薄い唇に負けず劣らず桃色に色づく頬は、まるで紅を塗ったかのよう。奥ゆかしく、男を知らぬ処女のようでやりづらさを覚えてしまうが、いつものことだ。
どうやれば、この真面目で意固地で矜持の誉れ高い兄が、許可をくれるだろうか。睨みつけてくる美しい野犬を見つめながらも、頭をゆっくりとかいたその度に動いた耳を見て、彼の瞳が揺れたのには、気がつかなかった。
「貴様、毛並みが汚い」
「は?」
「動くなよ」
突然、赤い舌が躊躇いなく犬の耳をなぞった。雪のように白い指が銀の髪に絡めて梳いていくのは、ただの毛づくろい。時折耳を齧り、舐めとじゃれているだけなのだが、人の姿をしているために面妖で扇情的な雰囲気を醸し出す。
昔は、時折こうやって毛づくろいをしていたものだ。しかし異母兄は化け犬の姿をしていたし、ただの兄弟であったために今のような欲情もなかった。
白く、荒れた毛と獣の耳へ指を這わせるだけでも、敏感に動いて体を強張らせているのが初々しい。更に軽く牙を突き立てるだけで、面白いくらいに頬も紅葉したかのように染まる。力の入った腕を、服の上からさすればしっかりとついた男の筋肉が指に触れ、ほうと熱い息を吐く。随分と男らしく成長したものだ。擦り寄り、今度は頬へと舌を這わせてやれば流石に身じろぎ目を丸くした。いつもは好き勝手にやらせているのだから、誰が上か分からせてやらねばならない。勝ち誇った笑みを浮かべて目を細めると、口を開いた状態で固まってしまった。
その肌を掠める甘い吐息に、犬夜叉は気が気でないのだ。ただのじゃれあいにしては面妖で色めかしく、怪しい色気すら振りまいて過剰なまでの接触を好むのだ。いつもの彼では考えられない。赤い舌が桃色の唇から現れ度に、体がどんどん固くなる。
「お前、ほんと艶やかになってきたよなぁ……」
「身を清潔にする事に色気もなにもあるか」
「自覚ねえの? すげえ色っぽい」
肩に手を回そうとすれば、思い切り叩かれた。こんなにも積極的なくせにしらばっくれながら、水干の襟に指を滑り込ませてくるのだ。これは無意識なのだろうか。珍しい兄の様子に、逃げぬよう力づくで髪ごと頭を抱きしめると、動きづらいと抗議の膝蹴りが無防備な腹へとめり込んでくる。足が自由なのは盲点だった。
「意地、はらなくていいぜ」
「……ぬかせ」
「本当は溜まってんだろ」
「下品なやつ」
太陽が見ているし、まだ羞恥心が色事より優っているらしい。そういう真面目で奥ゆかしいところもお気に入りなところではあるが、手加減はしてほしいものである。主に頬に食い込む爪が痛いのだ。文句を言おうとはしたのだが、片手で器用に朱色の衣を剥ぎ取る彼の、伏せられた目と長いまつ毛に見とれて、声がでなかった。
盛りついた弟が見惚れているうちに上半身を露わにすれば、健康的な白い肌に、生々しい刀傷や爪痕が痛々しく描かれていた。血の匂いが微かに漂ってくると思えば、この無数の切り傷だったのか。ゆっくりと舌を這わせては水の膜で戦歴を労ってやれば、徐々に下半身に変化をもたらし出す。
武人は元々性欲が強い。妖怪であっても、雄である以上例外ではない。
容姿も、地位も、武力も申し分はない、女にも困ったことはない。それでも、色情にうつつをぬかしている暇があれば、鍛錬に勤しんだ。それなのに、この躾のなっていない父親の忘れ形見が、欲していたものを与えてくれた。
手頃な手合わせの相手と、情欲を鎮めるだけの気兼ねない妾代わりと、余計な感情と。
半妖ながら、よくも妖怪に劣らない実力をつけたと褒めてやるべきか、さすがは腐っても父上の血族と尊敬すべきか、「これが私の弟だ」と誇るべきなのかはまだわからない。言えるのは、昔のような嫌悪感はもう湧かずに、共にいる時間が心地よいとまで思えてしまっていた。
「やっぱり、もうシたいのか?」
「毛づくろいで勃起をするな変態」
「うるせえ! 誘うように愛撫してくるのはお前だろうが!」
最後に、むき出しにした首筋へと噛み付いて終わりを告げて衣服を整えていやると、キョトンと丸い目が向けられる。
どうしてそんなに驚くのかは、言われなくてもわかる。禊もしていないのに、情交をするつもりもなければ、簡単に躰を許すつもりもない。幾分か汚れの取れた弟と、彼の味が広がる口内に満足しながらも、自慢の毛皮を敷布団がわりに広げて、彼の胸にもたれかかる。
「私は疲れた」
「ん、」
「疲れた」
「おう?」
毛皮を動かしながらも、身動き1つとらない。何か挑発的な言動をしたわけではないのだが、射殺さんばかりに視線が突き刺さった。
「貴様はとことん鈍感だな」
「はぁ!? テメェには言われたくねえ!」
犬夜叉には急にむくれた理由がわからなかった。だが、そっぽを向いて頬を膨らませる珍しい表情を見せられ、毛皮が激しく尻尾のように振られている。ああ、交代で奉仕をしろといいたかったのだ。つまりは、明確な接触の許可で。
言いたいことがわかり、彼の手を引きたぐりよせる。抵抗はないが、ため息と冷たい視線で不満を訴えててくる。これは、鈍感な弟が悪いと誰が見ても明らかだ。
「殺兄。悪かったって」
「気が利かん奴だ」
「お兄ちゃんは気難しいよな。ちゃんと可愛がってやるから」
「気色悪い。その呼び方はやめろ」
一度冷静になれば、甘い雰囲気すら壊れるもの。拳で容赦なく頬をブン殴られ、不機嫌を丸出しにした、もはや殺気が視線と共に突き刺さる。体も、心もかなり痛い。
「何しやがるんでい!」
腫れた頬を押さえながら涙目で抗議すれば睨まれた。最もな怒りではあるが、殺さんばかりの膂力はやめてほしい。勿論、犬夜叉がこの程度で怯むことすらないことを考慮しての力加減ではあるが、いくら何でもやられっぱなしは名がすたる。戦闘態勢を取れば、宥めるように毛皮が腰へと巻きついてきた。
これは彼の一部であるし、柔らかく触れているだけで心地が良い。1房手に取り、肺いっぱいに匂いを吸い込んでやれば、くすぐったいと鼻にかかる声が耳を犯す。尻尾のように揺れる白い毛玉に、思わず頬の筋肉が緩んでしまった。
「やっぱり、甘えたいんじゃねえか」
「貴様が仲のよい兄弟を羨ましがっていたのではないか」
「いてっ」
容赦のない一閃が鼻を掠めるが、追い打ちをかけるように同じものが鼻の頭に当てられる。鼻同士を擦り合わせて、相手の匂いを肺いっぱいに深く吸い込んでは安堵の息を小さく漏らす。これを甘えと言わずに何というのか。初めて、無邪気に色めいてじゃれついてくる仔犬にを抱きしめたが、もう毒を含んだ爪も、鋭い爪も飛んでこなかった。
「殺生丸、」
「普通に呼べ」
「え、殺生丸じゃねえの?」
「………」
「殺兄?」
「ん、」
大変お気に召したのか、機嫌は上昇するばかり。赤くなった頬はまだ痛むが、直々に治療をしてくれるというなら安いものだ。目を閉じて、感覚を研ぎ澄ませて舌の柔らかさを感受するれは、頬を滑る唾液の微かな音すら拾ってしまい、体が火照ってきた。
そんな性の匂いを敏感に感じ取り、鼻を動かしている。どんどんと下へと降りていく頭に、期待はした。してしまった。
だが、もうすぐで存在を主張する塔へと触れるところであったのに、幸せな重みが離れたのだ。
「沐浴が先だ」
「おあずけかよ! そりゃないぜ!」
「ぐずぐずするな」
「へいへい。兄上の仰せの通りに」
生殺しの竿が涙と涎を流しているのが、無理に押し倒して食おうものなら、容赦躊躇いのない毒爪が腹を貫くだろう。いや、もしかしたら去勢されてしまう可能性だってある。
最悪の未来を想像して青くなると、服の汚れを払い毛皮を手繰り寄せる貴公子の背中を追いかける。
何を今更恥ずかしがるのかはわからないが、もう何度も躰を重ねた関係であるにもかかわらず、肌を見られることを嫌う。一線を置かれているのだ、これ以上深い仲にならぬようにと。だから、今日も「貴様はここで待て」と文句を言われるものだと思っていたのに、お咎めの言葉も視線も来ない。それどころか速度を落とし、ついてくることを公認されて、逆に戸惑ってしまった。何を考えているのだろう、と。
お互いに、ただの情欲処理の相手である。そこには異母兄弟以上の関係も、愛情も介入させないと暗黙の誓いを立てたのだ。お互いに、絶対に甘い世迷いごとは言わなかった。はずなのに。
「殺生丸……いや、殺にい」
「ん」
「俺はよ、お前のこと、その、最初は都合のいい奴だと思ってたけども。あのさ」
薄い唇を近づける。もう少しで、その柔らかな花唇に触れることができる。はずだったのに。
横から襲いきた平手に打たれて、脳が揺れた。乱れた視界に、赤い光を帯びる剣呑な目。凛々しい目が、どうしてそんな不安に揺れているのだろうか、わからなかった。
口づけを強いられたのは初めてだったから、驚いただけだ。その驚愕に、正当防衛だと言わんばかりに手がでただけ。この行為に関して拒絶したわけではない。いや、拒絶しなければいけない。そんな複雑な2つの心境が、この関係の真意を白日のものとする。
「私が、処理だからといって誰にでも痴態を晒すと思ったのか」
「え」
「ましてや女として扱われるなど癪に触る」
「お前、そっちの趣味があるのかと」
「一度、貴様につっこんでやろうか」
「悪かった。もう何も言わねぇ」
彼の一物は規格外だ。毎回お詫びの代わりに口で奉仕はしているのだが、とてもじゃないが受け入れられる気がしないし、吐き出す精の量も尋常ではない。
真っ青になりながら、必死に首を振れば鼻で笑われてしまった。
「これは必要な処理なのだ。そうでなければ私が、貴様に抱かれるなど、恋慕の念を抱くということはない、断じて」
どうにも言霊の力を感じる。必死に自らに言い聞かせる、乱れた言葉たちに首を傾げるだけ。泳ぐ視線の先を追っても、何も見えないし白磁の頬がピンク色に染まっていくだけ。褥の中でしか見ることのできない雌の顔に、首を傾げながら純情の子供を装い笑みを見せる。
「お前が何を言いたいかはわかんねーけど、俺はお前のこと、好きだぜ」
「なっ!」
「今さっき自覚した。俺、男同士だけど、お前のことが好きだ」
「黙れ!」
今日は何度兄に殴られたのだろうか、数えるのも文句を言うのも億劫になってきた。
流石に腫れ上がってきた頬を摩っている間に、大股で歩き去っていく姿を見送るしかない。
雨水や森の香りより明確に鼻を擽ぐる甘い匂いは、彼が情事の時に出している悦び期待する時の芳香であり、水では誤魔化しきれない。いつでも追うことはできる残り香を無意識に残す彼にだらしなく表情を緩ませると、とりあえず木の陰に隠れている七宝と涙目の邪見に石を投げておいた。
自覚してしまった気持ちは、受け入れたもの勝ちである。空にかかった虹を見上げてほくそ笑んだ。
+END
++++
2人が幼かった頃、呼称が違ったという、友達にネタ提供してもらったもの
09.7.18
修正:20.5.5
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