白と赤の雪月花2


※弥珊前提、弥→殺♀要素あり




 あの夜を生涯忘れない。朔月を慣れない煌びやかな装飾を施し、鈍感な愚弟に会いに行った日の昨夜のことを。
決意を持って股を開いたというのに、臆病にも人間の男は躊躇い退いたのだ。人間ごときが、いつでも大妖怪を屈させることができるとでも思っていたのか。誠に腹ただしいことである。
 生粋の妖怪に優しさなんて文化はない。ただ、種を残す為に雄は穿ち吐精して、雌は雄を煽り受け止めるだけである。丈夫な雌を選ばなければ、交尾中に殺してしまうことだってある。そこに愛情はなく、ただの強い種を残すという、まるで工作をするかのような作業感だけがあるのだ。
対に、あの男は人間のいう愛情は、無意味に体を撫で回すもので、ただただ不快なのである。行為に意味があるのかすらもわからない。
 だが、奴がそれを望むというのなら考えないこともない。人間の愛情、父が人間と契った理由。そこに、強さとこの感情の答えがあるのかもしれないのだから。
さっそく、調べてみるとしよう。いつも女の匂いをさせていた男なら、1人顔は知っている。



「坊主」

 突然、聞き覚えのある声が背から降りかかり弥勒は驚いた。

「これはこれは。なんの御用でしょうか、兄上様」

 今は久しぶりの妖怪退治の仕事の最中だった。朝早くから見送ってくれた、愛する妻と子供達は家に置き、寂しく男一人旅。ああ、美しい娘でもいてくれたら眼福になるのに、など妄想をしていたところ、美しい装いの優男に声をかけられたら誰だって驚く。
なんせ、相手は人間に進んで接点を作りたがらない大妖怪。犬夜叉とりんがいない限り、人里に寄りつこうともしない彼が、何故に村はずれのお堂に座り込んでいるのだろうか。
 どうやら仕事の対象はもう彼に討たれてしまったらしい。偶然とは恐ろしい、哀れにも彼の暇つぶしとなってしまった妖怪に同情をしながらも、爪の血を払う彼の隣に座ろうとしたのだが、諮ったように立ち上がって舞うように距離をおかれてしまった。

「貴様は女の扱いに慣れているのか」
「はて。そこまで見境のない男だと思われているのでしょうか」
「慣れているのかと聞いている」

 おどけてみせたところで取りつく島はない。淡々と、用件だけを話そうとしているのが見て取れる。
弥勒としては、ゆっくりと話をしたかった。粗暴な半妖である弟とは髪と目の色しか似ていない、気品にあふれた兄。

「教えろ」

 ただ、それだけを言うと、彼は壊れた鳥居の上に座り込んだ。これは教えない限り動かないという意思表示なのだろう。無礼な行いとは裏腹に、きちんと揃えられた足と並び鎮座している毛皮。触れてみたいが、手が届く前に爪でひっかかれるであろう。

「人間の交尾はどのようなものだ」
「ち、直球ですね」
「男と女は、それぞれ何をする」

 何があったのかは知らないが、人間についてここまで興味津々なのも珍しい。きっと、りんか犬夜叉か、かごめか。その辺りと揉め事なり思想の違いがあったのだろう。
だが、情交についての意見の相違とは、いったい何があったのかは知りたくはない。あえて何も問い詰めないままに、彼の清冷な顔を眺めていた。

「そこまで言うのでしたら、貴方の事情も明かしてくれませんか」
「何故」
「私だけでは不平等です。貴方の事も話してくれたら、私も全て話しましょう」

 そこまで言われて、確かにと納得してしまった。いつの間にかりんや弟に影響されてしまったと自笑しながら、ゆっくりと術を解いた。ゆっくりと地面へと舞い降りて妖術の残り香から現れたのは、天女と見紛う妖しい美女。伏せられた流し目に、好色な法師は息を飲んで顔を紅潮させた。
 鎧が胸を圧迫してくるものだから、少し緩めてやれば乳が服を押し上げては存在を誇張する。
そういえば、奴はここを触るのが好きだった。男としての一皮は剥けているはずなのに、いつまでも初々しい弟との思い出に浸っていると、わざとらしい咳払いが聞こえてきた。

「これは、なんとまぁ、想像以上で……」
「私が雌と気づいていたか」
「貴方の仕草には、高貴な女性に通ずるものがありました。それに、男にしておくには勿体無い顔立ちだった故」
「油断できぬ人間よ」

 ゆっくりと傍らに立つと、鼻の穴を膨らませながらも明らかに気が動転しただらしない表情を浮かべている。普段から女に感ける情けない姿を見ていたから今更どうとも思わないが、明らかな情欲を見せられてはいい気がしない。
 肌を見せないように襟を正しながら身をよじると、その奥ゆかしいところすら好感を持ってしまう。最近はきつく言い渡されて女遊びもしていないほどの徹底ぶりである。その決意が揺らいでしまうほどの色気に、咳払いをして抵抗した。

「この姿から察しろ。仔細は教えぬ」
「この秘密だけで十分ですよ」

 きっと男女の仲になりたい人間でもいるのだろう。妖怪として誉れ高い彼女の、人間らしい一面を見ることが出来て嬉しく思う。
だが一体どこの強者が、この麗人の心を射止めたというのだろうか。人間の接点といえば、お気に入りのりんと、琥珀の様子を見る為だけに人里にやってくるだけ。ちなみに弥勒は会ったことがないが、もしかしなくても避けられているのかもしれない。
思い当たるとしたら、八百屋の吾作? 行商をしている左之助? 美男子と噂されている太郎?
いや、誰も選ばれているとは思えない。相手は、目の前で欠伸を噛み殺す美しい大妖怪なのだ。
 こうなれば弟が黙っていないだろう。喧嘩をする、劣等感を抱くと様々な感情を抱いているようではあるが、兄を大切に思っているのは知っている。よもや急に現れた人間の男を「義兄と呼べ」と言われて、はいそうですかと受け入れる玉ではない。もしかすれば「俺を倒していけ!」と抜刀する恐れだってある。流石に人間相手に半妖が本気を出すとも思えないが。
平常心、平常心。冷静さを保つことを務めながら、改めて彼女の立ち姿を見てしまえば決意が揺らぐ。どうにも、人を惑わす妖術が働いているのだ、そうに違いない。

「次は貴様が答えろ」

 必死に煩悩との戦い夢中になっていると、鋭い視線が突き刺さった。だが、声はどことなくふわふわとしていて迫力はない。尾を引く欠伸が何とも可愛らしいだけだ。ゆっくりと傍に近寄れば、露骨に距離を置かれて再び御堂の屋根の下に座り込む。仕方がないから、距離のある場所にある岩に座り込む。すると、毛皮をまるで尻尾のように巻くと、やっと落ち着いてくれた。

「男は、ええと、女性に尽くすものですかね」
「尽くす?」
「嫌がることは決してせず、愛しい人に幸せになってほしいと願います」

 まるで説法を説くように綺麗な言葉を紡ぐが、眉ひとつ動かない。ただ、事実を鵜呑みにするだけの作業のような態度に拍子抜けはしたが、あの気ままな妖怪が言うことを聞いているということに、優越感を覚えてしまった。

「自分のことは、自分でなんとかするのが掟ではないのか」
「1人では、ましては女ではどうすることも出来ないことが多いですので」
「やはり人間とは脆弱なものか」
「妖怪よりは弱いでしょう。だから、力の強い男は優しく接するのです」

 いけしゃあしゃあと言ってのけるが、この男は数多の女に殴られていたと聞く。どこからその自信がくるのかと文句を言ってやりたくなったが、面倒なことになる前に口を閉ざすことにした。

「女は、何をされたら悦ぶ」
「そうですね、贈り物、とか」
「乳房に触れられると悦ぶものか」
「そ、そちらの話でしたか」

 まさか情交についてここまで興味津々とは思っていなかった。恥かしがって頬でも赤らめてくれれば可愛いのであるが、なんせ表情1つ動かさずに、美女が明け透けな猥談をしてくる。生涯でもうないであろう経験に、思わず涙を飲む。これは精神的暴行ではないのだろうか。これ見よがしに胸を揺らしては、大きさを確かめる姿にため息をつく。

「そうですね、女性特有の部位がイイようですが……」
「私には、わからぬ」
「ええと、おっしゃった乳房と……股座ですかね……」

 ここで法師は妖怪には愛撫という習慣がないのでは、と感づいた。元より快楽は血肉を喰らい、得る種族だ。予想通りといえばそうである。
ならば、この新雪に跡をつけるというのも一興。怒り狂う妻の顔が頭に浮かぶが、稀に見る絶世の美女なのだ。ここで据え膳は男ではない。

「よろしければ、私がお相手して差し上げましょうか」

 これは、浮気ではなく人助けだ。誰に言われたことでもないのに、言い訳をして口付けようとすれば、鋭い金の目がギラリと光を放つ。刹那、頬を手加減のない強さで掴まれた。

「人間如きが。私に馴れ馴れしく触れるな」

 誇り高く、美しく、剛力。まるで雪の精のように透明で、儚い存在にも見えるのに、その力は人間の男ですら太刀打ちできない。人ならざるものだと自覚させられ、逆らうこともできずに身を引いた。
丸くなったとはいえ、やはり気位の高い殺生丸である。容易に人が近くことさえ出来ず、手負いの野生動物よりも鋭い勘で威嚇をしてくる。
だが、急に身を寄せてきたかと思えば、鼻を動かして小さく呟いたのだ。

「うぅん、夜叉……」

 一瞬、うっとりとした表情を浮かべたのを見逃さない。「夜叉」と言っていたが、もしかして弟のことを指しているのだろうか。真実を知る前に体が離れて、竜を引き連れ立ち去る後ろ姿を視認した。相変わらず自由でつかみどころがない。
引き留めることも出来ず、空へと舞い上がる優雅な後ろ姿を見届けて、猛る熱を感じて盛大な息を吐き出した。
帰ろう。早く我が家に帰り、妻に殴られようとも慰めてもらおう。
そう、弥勒は落ちた肩を引きずってでも歩き出した。

 昼間から、知った珍しい匂いが近づいてきたことにより、犬の耳が空へ向かって跳ね上がった。
隠れ家の近くで、薪を集めている時だった。舞い落ちる木の葉と一緒に、姉の香を感じ取ったのは。
一体人里になんの用だろうか。毎日のようにりんの様子を見にくる、過保護な姉であるから気まぐれなのだろうか。「会いたい」と脳裏によぎるが、最終決定はいつも厳格な姉が下す。向こうがその気でなければすれ違うこともできない。
 はぁ、と諦念の大きなため息をついたところで、頭上を愛竜である阿吽が飛び越えるのが見えた。どこへ行くのだろう。鳥に負けず劣らずの速さで飛ぶ美しい姿を見上げていると、急に方向を地上に変えたではないか。
傍に抱えた木々が坂へと転がり落ちるが、知ったことではない。真っ直ぐこちらへとやってきて、阿吽が目の前に舞い降りたと思えば、背中から滑り落ちるような人影が見えた。慌てて抱き止めると阿吽が姿勢を低くする。

「どうしたんだよ、お前」

 真昼間に人里へと降りてきただけでも珍しいというのに、今にも閉じてしまいそうな双眸でおぼつかない足取り。匂いだけを頼りに犬夜叉を認識すると、倒れこむように胸の中に落ち着いた。
夜行性というわけでもないし、何かあったのだろうか。肩を揺すってみたが、目を覚ます気配はない。苦しそうに唸り声を上げているだけというのに、なんだか艶やかで桜色の薄い唇に魅入ってしまった。身じろぎをすることで、流れ落ちる銀の髪も絹の糸のようで美しい。

「そうか。昨日、寝ずの番してくれたんだったな」
「ん……」
「ありがとよ」

 ゆっくりと重い男の体を持ち上げると、人里離れた家屋へと足を進める。楓が計らって作ってくれた、家代わりの小屋だ。見知った者通り掛からない、旅人すら立ち寄らない場所である。ここなら匂いにうるさい姉も、安心して眠りにつけるだろう。賢い双頭竜も、この半妖は主人に害なす不届き者ではないと知っている。おとなしく追従すると、時折匂いを確かめるように顔を擦り付けてくるのだ。
すでに腕の中で、事切れたように泥酔しているが、そんなに疲れていたのだろうか。無防備な寝顔を晒してくれることには嬉しいのだが、鼻腔に違和感が走った。
 これは、香の匂い。貴族がつけるような洒落た匂いではなく、坊主などが使う物である。
まさか寺でも襲ったのだろうか。いや、彼女は意味もなく人を襲うことはやめた。しかも、この匂いは長く嗅ぎ慣れたものである。
 これは、弥勒が使用していたもの。
思わず悲鳴に似た声があがりかけたが、眠りを妨げるわけにはいかないと、慌てて口を閉ざす。ずいぶん近くにまで寄ったのか、髪から香る匂いは間違いない。
前から、義兄のことを目に止めている様子だった。もしかしたら、勘のいい男である故に気づいていたのかもしれない。そんな男に1人で会いにいったのは、一体何の用だったのだろうか、何も起きなかったのだろうか。不安が湧き上がる。
 探るように寝顔を眺めていたところで返事など帰ってこない。代わりにゆっくりと頭を傾けて、心まで預けるように身を委ねてくる。
本当に、大切にしたいと思っている。唯一の血の繋がりなのだ、自慢の姉なのだ。力強く漢らしい妖怪の顔も、汐らしく寄り添ってきた女の顔も、美しくそして好ましい。何度か乱暴に扱って痛んできた扉を開けて、木で作られた汚れた小屋へと上客を招き入れる。
 いつもは、獣の皮を被って眠っている。貴族のような貴公子を、粗末な寝床に寝かせるのは気が引けた。かなり前に渡された布団たるものを、カビ臭い物置から引っ張りだしたのはいいが、匂いが充満していてとてもではないが、使うことはできない。夢の中にいる彼女も、眉を潜めてはうっすらと目を開けてしまった。

「わりぃ。起こした」

 ぼんやりと輝く目の光に、言葉にならない単語が「ん」と漏れ出る。悪い視界を補うように嗅覚をふんだんに使い、カビの匂いの元に気づいて眉を寄せる。腕だけでかろうじて頭を起こすと、こてんと人形のように無垢に首を傾げるのだ。

「おい、本当に起きてんのか」

 目の前で手をひらひらと動かしても、視点が合うことはない。ただ、小さく口を開いて必要最低限の呼吸をしながら、認識しているのかわからない目をこちらへと向けてくるのだ。
ゆっくりと、ゆっくりと猛犬へと手を伸ばして肩当を外しにかかると、伸ばした腕へと対象が移った。すぐさま鼻を近づけると、相手の匂いを認識して舌を這わせ始めたのだ。何度も、皮膚の薄い指の付け根にまで暖かく柔らかい生き物で撫でられて、ぞわぞわとした感覚が指先から全身に広がっていく。

「お、おいっ」
「やしゃ、」
「な、なんだよ」
「ん……」

 寝ぼけていたのだろう。すぐさま口を離すと、毛皮を抱きしめて眠り始めたものだから安心した。ついでに火鼠の衣を掴んで離さないものだから、破られる前にと脱ぎ捨てれば毛皮の山に取り込まれていく。もうどこまえが布かもわからなくなってしまった。
深い寝息が聞こえてきたところで、外で待つ双頭竜に水を適当な器に入れて出してやる。目を丸くして、匂いを嗅いで警戒していたのだが、主人の匂いのする男故に信用に足ると判断されたらしい。馬具を外してやれば、一瞬牙が見えて冷や汗が流れた。だが、皮膚に食い込むことはなく水面をなぞり、急くようにぺろり、ぺろりと舐め始めた。

「お前の主人、面倒くせぇだろ」

 フンフンと鼻を鳴らす竜の鱗の艶は、まるで川底にある石のように丸く滑らかだ。きっと、丁寧に世話をしてもらえているのだろう。だから、忠義も尽くすし従順。主人の匂いが染み付いた犬夜叉に擦り寄ると、嬉しそうに喉を鳴らす。確か、竜には逆鱗たる禁忌にあたる鱗があるのだ。喉に触れないよう、優しく撫でてやれば嬉しそうに小さく首を振った。
 なんだかんだで、生き物に対する慈悲を知ったのだと、嬉しくも愛おしくも思う。もしかして、最近盛りついているのは生存本能ではなく、りんのような「我が子」が欲しいのかもしれない。
昨日の晩、彼女が守ってくれたように入り口に座り込むと、横に竜も鎮座する。「主人を守るのは自分だ」というように、ライバルを4つの目で見つめると、すぐさま前を睨みつけては尾を地面に叩きつける。それだけでも近くの子妖怪は近づけないし、何よりも眠いっていても溢れ出る妖気に、並大抵の霊能力者と妖怪では近づくだけで精神が摩耗する。
暇ではあるが、横に頼もしい相棒もいるし、振り返れば気を許して眠る姉もいる。自然と緩む頬で空を見上げると、緑の若葉たちが寄り添うように風に揺れていた。



「夜叉?」

 カタン、と後ろから音がしたと思えば、服が引かれる感覚。振り返れば、まだ虚ろな金の目が真っ直ぐにこちらを捉えていた。

「よお。起きたか」
「ここは、」
「俺の寝床だ。よく寝てたな」
「私は、どれほど眠っていた」
「ん。太陽が一番上にあったが、もう沈んじまうな」
「そうか」

 欠伸を噛み殺し、目をこする姿は随分と幼い。段々と言葉にも力が出てきて、元気が出た。阿吽へも手を伸ばしたところで、すれ違い様に再び漂ってきた男の匂いに眉を寄せてしまう。

「お前、弥勒に会ったのか」
「誰だ」
「俺の連れだった法師だよ。名前くらい興味持て」
「ああ。会ったな」

 悪そびれしない顔は、兄らしい。まだ人間の顔は認知できないのか、する気がないのか、恐らくは後者なのだろう。口角をわずかにあげて愛竜を撫で回す姿を見ていては、どうでもよくなってしまった。

「あいつ、女好きだから気をつけろよ」
「貴様には関係ない」
「もしかして、お前、誰でもいいのかよ……」

 つい昨夜に肌を重ねた矢先に他の男の匂いを纏わせてくるとは。許嫁が、仲間の雄、しかも人間の匂いを全身からさせていい気のする者などいない。唇を尖らせて、目に見えて拗ねると大きなため息が聞こえてくる。
「もっと撫でてくれ」と鳴く竜から離れて、唐突に胸倉を掴んだのだ。弟の。

「誰でもいいわけがあるか」
「え?」
「私は貴様を選ぶと言っただろう!」

 わなわなと震え、眼球の周りが赤くなり始めたのを見とり、慌てて肩を掴んで抑えつける。怒り狂っているのだけはわかる。だが、どうにもその激昂の原因が可愛らしいものだから、ついつい緩んでしまう顔の筋肉を正すのに必死になって力が入らない。
 逃げようとする体を抱きしめると強い香の匂い。彼女から、色ボケ法師の匂いがするのはいただけないが、本人がこう言っているのならば信じよう。

「弥勒とは、なんともねぇんだな」
「人間の男女の仲がわからぬ。だから説きに行った」
「だから、お前からあいつの匂いがするのか」
「そうだ」
「よかった……」

 心から安堵した声に、ムカッ腹がたった。勝手に自己満足されても、こちらの怒りは収まっていないのだ。勢いよく腕に噛み付けば、くっきりと歯型が残る。「痛い」という声は上がるが、生命活動には支障のないレベルである。妖怪の力ですぐさま傷は塞がるし、慈しみをもって撫でてやれば表情は穏やかなものに変わっていく。

「女をはべらかせていた貴様と一緒にするな」
「もう浮気しねぇよ!」
「私がどのような面持ちで見ていたかも知らずに」
「だって、おめぇ、俺のこと嫌ってたから」
「言い訳無用」

 罰は1つ与えるだけでは、また腹の虫はおさまらないが、一旦許すとしよう。甘えた声を上げながら鼻同士を擦り付けてくるのは、犬妖怪としての愛情表現。彼女はお馴染みの鉄面皮をつけたままで、事務的な意図しか感じないが、必死に擦り付けては首へと噛み跡を残す。激しいマーキングではあるが、求めてくれることは嬉しい。答えるように耳へと噛み付けば「痛い」と不服な声が上がった。

「今夜はどうすんだ? 俺は今から飯取ってくるけど」
「貴様は寝ぐらに1人か」
「そうだよ」
「ならば残る」

 ゆっくりと武装を外しては腰を落としてくつろぎ始めた。毛を巻きつけ、まるで巣でも作るかのように自分の居場所を作る。現れたのは、骨ばって筋肉のついた男の体。逞しい胸板が服の上からもしっかりと線が見えることを視認してから、気まずくなって視線を地面へとそらす。
別に、胸部を自然と見てしまったのではない。いつも鎧で隠れている上半身へと、自然と目移りしてしまっただけだ、疚しい心が完全にないわけではないが、今盛りついているわけでは断じてないのだ。

「俺といる間は、その、術解けよ」
「何故」
「疲れねぇのか」
「微々たる力だ。それに、慣れた」

 まるで、まだ壁を作られているかのような態度ともとれる。何百年と隠していた秘密を改めて明かしてくれたのだから、心を許してくれているのかと思いきや、もしかしたら昨日のことを怒っているのだろうか。胸中で最悪な事態を妄想しては冷や汗が流れる。
 勿論、怒りはしたが引きずるなんて女々しいことはしない。生きていくための行為として見に染み付いてしまった、呼吸のようなものである。言われてから気づくような状態ではあるが、目の前で明から様に暗い表情をするつがいにとっては、そうではないらしい。

「でも、それは本当のお前を否定しているようなもんだろ」

 見開かれた目と、引き結ばれる小さな口。仄かに紅潮した肌を眺めていると、体全体が丸みを帯びて、目元が柔らかく垂れ下がる。おとなしくいうことを聞くというのも違和感があり恐ろしいのであるが、彼女の気まぐれだろう。無防備に女体を晒す姿に、再び胸部へと視線が流れそうになって慌てて咳払いで煩悩を振り払うことにした。
寝起きでもあの殺生丸だ。無理矢理事に及ぼうとしたところで、殴られて事なきを得るのだとはわかっている。だが、良心の呵責と後悔が残るに決まっている。刀鍛冶から譲り受けた武士が使う刀を手に取ると、ふわりと甘い香りが横をよぎった。土間に降り立った彼女はどこへ行くのだろうか。手を伸ばして問おうとしたところで、まるで心を読むように無邪気な顔で振り返ってきた。

「食事に行くのだろう」

 悠々とそこへ続く立て付けの悪い板戸を潜り、首を長くしていた阿吽を愛でてから手綱を握る。
だが、鎧を外した状態でいいのだろうか。有り余る妖力で形成されているとは聞くが、念のために武装はするべきだ。たとえ、奈落という驚異がなくなり強力な妖気を感じなくとも、だ。

「待ってていいんだぞ」
「貴様は狩りが下手そうだ」

 確かに、旅をしていた時にはカップラーメンたる携帯食を主食としていたが、ここ最近は狩りを主にしている。時間はかかってしまっているが、失敗はしていないし下手ではないと自負している。
それでも、なんでも優雅にこなしてしまう姉からしたら、まだまだ親から学ぶことの多い子犬。

「うるせぇ、お前が言えた義理かよ」
「ほう、生意気な口を聞く」
「りんが「食べてるところ見たことない」って言っていたぜ。狩りなんてしたことねーんだろ」
「自分で獲って食事はしていた。2人の食料までは盗らぬ」

 「殺生丸さま、ご飯ちゃんと食べてるのかなぁ」いつしか少女は、丸い目を不安に揺るがして呟いていた。
確かに、一緒に旅をしているというのに目の前で食事を取らないというのは不安でしかない。それでも顔色が悪くなるわけでもなく、腹の虫が鳴るわけでもなく、優雅に前へと進み続ける姿を見ては、犬ではなく新種の妖怪なのではないかと疑ってしまう。
それでも、向上のためなら影でも努力を惜しまない人だ。腹を減らしている連れの近くで、これ見よがしに食事をする気にもなれず、しかし甘やかして食事を与えるわけでもなく、隠れて食していたという。

「まじか。肉、食べんのか」
「私のことを何だと思っている」
「いや、肉とか食わなさそうだし」
 
 木の実だけで生活していたと言ったら嘲笑われるだろうが、妖怪の性分を丸出しにして肉に食らいつく姿も想像しがたい。
別に姉に夢を見ているわけではないが、案外似合っていると感じてしまう。腕を組んで、首を傾げて、妄想してから吹き出すと、怪訝な表情で頬を引っ張られた。「わけのわからないやつだ」と。

「とにかく、食いたいものくらい自分で獲れよ」

 甘やかしてしまっては、自分も締まらない。ずんずんといつもの狩場へと足を向けると、竜へ横ずわりで乗り込んだ姫様も追従する。

「人間の雄は、雌に尽くす生き物だそうだな」
「誰が言ってたんだよ、そんなこと」
「女臭い法師だ」
「弥勒からぁ? 余計なこと言いやがって……」

 間違ってはいない、と同意をしてしまえば、この女王様が調子に乗る可能性もある。あえて否定的な言葉を吐いたところで、性分は明け透けになっている為に、彼女は何も言わずに笑っていた。「違う」と一言いってやりたかったが、無表情を崩してあまりに楽しそうに笑うものだから、否定するのも疲れてしまった。

「せいぜい、私に力を使わせぬよう立ち回ってみせろ」
「バーカ、もともとお前の出る幕なんてねぇよ」
「頼りにしてやる。私を幻滅させるな」
「てめぇも、その竜から降りんじゃねぇぞ」

 「心配だから」なんて口が裂けても言ってやらないし、それを男勝りな姫も望んでいない。代わりに「食うからには一番でかいのを獲るぞ」と豪語してやれば、鼻で笑われてしまった。
「私1人では食べきれないほどの、川の主でも期待しようか」どんどんわがままが増えていはいるが、叶えてやろうと思う。
認めさせて見返してやろう。
愛してはいるが、これとは話が別である。いつまでも切磋琢磨しあい、互いを伸ばし会える関係。そして、いずれこれ以上の男がいないとわからせてやる。何年かかっても、いつかは叶うだろう目標に1人笑えば「何をにやけている。気持ちの悪いやつだ」と容赦のない罵倒が飛んでくる。余計なものは見て欲しいとは思っていないが、蜂蜜色の目がはいつまでも追ってくるのだった。

++++
20.6.7




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