「ミシロ」
名を呼ばれて少年が顔をあげた。ぼうっとした眼を向けながら、言葉を発する代わりにのろのろとした動きで首を傾げた。
「俺がわかるか?」
目の前にいる人物の背は低く、声はすこししゃがれているが女性の声だった。
純和風の建物にはあまり合わない洋装で、すらりとしたパンツスタイルの衣服の彼女は少しも女性らしさを持ち合わせていなかった。唯一、彼女に残されたそれらしさといえば、まさにその身長と長く柔らかな髪の毛だけであった。
「からはな、さん」
答えろ、と鋭い鋭い目にせかされて、ようやく少年が口を開いた。その発声の遅さといえば、まるでワンテンポずれており聞く人によってはあまりにいら立ちを覚えるほどの遅さであった。まるでナメクジと会話しているかのようだとカラハナと呼ばれた彼女は思う。
唐花。その名前を少年は口にした。女はその通りだと答えるように大きくうなずいた。
彼女は月を背に立っていた。少年は今でも覚えている。まさに仁王立ちというべき立ち方で真夜中にふすまをぱぁんと開け放った彼女の姿を。
「俺はてめぇに命じにきた」
彼は最初、何のことかわからなかった。それから、やはり一拍遅れて、彼は自分が用済みになったのだと思っていた。
つまり、彼女は自分を破棄しにきたのだと、そう思った。
ミシロと呼ばれた少年は、ぼんやりと彼女を見上げていた。
彼女は少女と呼べるほどに背が低く、ともすれば威厳なぞこれっぽっちも持ち合わせていないと見下す人間もかつては存在していた。だが、それは彼女の目を正面から見つめかえしたときに過ちであったと気が付かされるのだ。
その目は憎悪の目だと誰かは言った。緋色の瞳が轟轟と燃えているかのような色をともしているのは、延々と燃え滾らせるだけの火種が彼女の奥底にあるのだとその人は言った。
また別の誰かは、彼女の目はまさに猛禽類のそれだといった。一度たりとも彼女は狙いを定めた獲物を逃すことはないし、彼女に睨まれればひとたまりもないのだと肩をすくめていた。
さらにほかの誰かは、彼女の目を美しいと形容した。彼女はあくまで公正で、決して誰しもに平等ではないが強い人物だといった。彼女の公正さはときに理不尽なほどではあったが。それでもそのひたむきさを美しいと形容した人もいた。
少年は、彼女の目を見ながら、自分の目の色を知りたくなった。
彼女の目がどうしてそんなにも鋭い目をしているのかを知りたくなった。彼女はどうしてそんな目ができるのか知りたくなった。
月を背に立つその姿が少年には大きく見えた。
自分よりも小さいのに、なぜ大きく見えたのかが不思議だった。その答えを知りたくなった。
彼女の向こう側に見える月は随分大きく見えたが、小さくも見えた。狭い庭と高い塀がそこにはあるのに、その先が見える気がした。あの漆喰の塀の向こうになにがあるのか、少年は初めて気になった。
彼女はどこから来たのか。少年はしらなかった。彼女の名前はしっていたけれど、何も知らなかった。
少年の世界はこの六畳間しかなかった。少年の手足に縄などないし、ましてや首輪だってない。けれど彼は、この部屋の中で生きて、きっとこの部屋の中で死ぬのだと信じていた。ただこの部屋で無為に待ち続けるだけのさもしいさもしい…… 人生にすら劣る、ただの時間をひたすらに流し続けるのだと信じていた。
それでいいとどこかで受け入れてもいたのだ。つい、さっきまでは。
少年は彼女の目を見ながら、初めて知りたいことができたのだ。自分の目を見たくなった。その方法さえ知らなかった彼は、初めて彼の意思で問いかけた。
僕の目は何色ですか。
かすれた声だった。小さな声だった。彼女とはあまりにも違う声だった。彼女は一言、教えてくれた。
「それはてめぇで確かめろ、XXX」
少年は、外へ出た。
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少年はミシロといった。それはただ、記号としてそう呼ばれるにすぎなかった。
ミシロ。彼の名前は役割だった。彼は彼女を恨んだってよかったのに、本当に真っ白だった彼はこれっぽっちも恨めなかった。恨み方すらしらなかった。いや、恨むということはもとより、その根本すら知らなかった。
ミシロは彼女のことをじっと見ていた。彼女もまた、じっと彼のことを見ていた。どことなく憐れんだ目をしていることに、ミシロは気が付かなかった。彼がそのことに気が付くのは、遠いこれから先に、今日のことを夢で見たときのことだからだ。
「お前の手足に枷はなく、お前の首に縄はない。お前の意思は俺ではなくて、お前の体は俺ではない。この部屋から出ろ。そして自由に生きろ」
その日ミシロは初めて外に出たいと思った。
少年は知りたいことができた。それからというもの、彼は知ることばかり。今日もまだ、知りたいことがある。知らないことがある。
むしろ、彼は「知らないことのほうがまだ多い」というだろう。
わからないことばかりだと彼は言うことだろう。楽しいかと聞かれても、本当のところで彼はまだわかっていないのだと答えるだろう。幸せかと問われても、彼はやはりわからないというだろう。
けれど少年は笑った。ただの身代わりで、だれかのためにそこにあるだけだった時よりはよほど幸せなのだろうと彼は答えた。
部屋の外は明るかった。廊下の向こうは暗かった。家の外は広かった。塀の外は青かった。そんな当たり前のことを知ることができたのは、幸せだったと彼はいった。
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笑い方を覚えたのです。下手な笑い方だとあなたは言いました。でも、それでいいとも言いました。そのことをずっと忘れてはいません。
カラハナさん。あなたが出てもいいと言ってくれなければ、僕は誰に会うこともなかったでしょう。
「幸せになれよ、ちゃんと」
はい、必ず。
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六畳の狭い部屋。向かい合って僕は座っていた。
唐花さんや周りの人に強引に推されて、あれよあれよという間に来てしまった今日のこの日。正面に座っている女性が少しばかり気恥ずかしそうにしながら口を開いた。
「お名前を聞いても、いいですか?」
「え、っと…… 僕は、笠奈です。葉落笠奈です」
「はらく、さん」
「……はいっ」
僕はそう名乗った。
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やがてあなたに、もっと呼んでほしいと思うようになるとは知らなかった。
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