『喪失ヒンメルライヒ』 p1/p4


―――その瞬間、自分を保っていた最後のプライドが崩れ去った。


渡部真奈美は、問い掛ける。一応有名な進学校の制服を微妙に着崩して目の前に座る彼女に。

「ガチで? アンタが、黒川なの? いや今は中畑? なんだっけ…」

そうだよー、と苺味のシェイクを啜っていたストローから唇を話して、彼女は――元クラスメートは飄々と、はきはきと答える。中学時代とは随分見違えた元クラスメート。
卒業してまもなく両親が離婚したらしく、苗字が変わり、そして彼女自身も変わったように思える。名乗られるまで、誰だか解らなかったくらいには。話し方も随分変わっている―――ぼそぼそと喋ったかと思えば、開き直るようにぺらぺらと。薄気味悪い演技そのものの話し方だった、というのが彼女だったはず。黒縁でダサいとかつて散々馬鹿にした眼鏡は消えている。コンタクトになっているのだろうか。
無造作にひっつめていた黒髪は、耳より少し上で二つに括られた濃い栗色に。ファッションに疎い渡部でも(最も彼女は制服姿であるが)、彼女の服装センスが悪くないことは分かる。…何より彼女は友人を連れていた。しかも、男子高校生にしては線が細い、顔も悪くない――男。

数ヶ月前の彼女からは、まるで考えられない。
正直に言わなくても中学時代見下していた彼女に、追い抜かれた気分だ。
渡部はメロンソーダのカップの蓋に突き刺さっているストローをぎり、と歯で噛み潰す。
過ぎ去った中学時代の、残像。

(何アンタ、マジキモいし。こっち来んなよ!)
(…そう…?私が思うに、それってかなり無理なことのはずだよ)
(はぁ?お前何様な訳?…あのさぁアンタ黒川の分際でウチらに刃向かっていいと思ってんの!?)
(刃向かう?……誰が、誰になのかな?)
(うっわさすが黒川!こんな時でも空気読めないやつ!アンタマジ人間としてありえないんだけど)
(まなグッジョブ!マジそうだよねー)

マジキモい、早く死ねよと罵声と嘲笑の渦。感情が感じられない瞳とこんな時でさえ口元に湛えられる嘲りの笑み――それ以外は地味でもっさりした女子をそのまま描いたような黒川に向けられる約40人分の悪意。…きっかけなど、誰も覚えてない。
完全な中二病じみた雰囲気の黒川憂理が気味悪いと誰かが言っただろうか――昏い瞳に演技じみた話し方が、頑としてクラスに協調しようとしない姿勢がむかつく、不愉快だと。黒川を嘲り蔑むことで、渡部を含むクラスの人間は一つに纏まっていた。――彼女を贄とすることで、クラスは全て円満だった。小心者なところがあり、流行を追うのが苦手な渡部でも、黒川を先頭切って罵倒することで、クラスの中心的なグループに居ることが出来たのだ。勿論罪悪感は、欠片もない。

いつしか受験期が到来し――渡部は、ランク的には中の下くらいの高校に何とか合格した。同じクラスの女子も、何人か合格していた。また、黒川はそこそこ有名な進学校にこの中学でたった一人合格したと――風の噂で聞いた。黒川のやつ何な訳、と卒業後の離任式で嗤ったのが最後だった。
それを最後に、全てが崩れ去ったのだ。…高校に入って――渡部の世界が、軋んだ。

高校生にもなると、校則違反だが化粧をする人も出てくる。特に派手な女子はそうだろう。渡部と同じ高校に合格し、中学時代もクラスで最も派手だった女子。あのクラスの中心的グループのリーダーだったような女子―――宮本咲乃。渡部はいつも宮本と行動して、率先して黒川の悪口を言った。何よりの友達だと思っていた、宮本が―――高校になってから、何よりも変わってしまった。オシャレ、というものに追いつけない渡部をあっという間に振り捨てて。
中学時代から確かに宮本は派手だった。派手なやつが高校になるとそうなるのは解っていた。それでも、自分の友人だけは変わらない。
渡部はそう信じきっていたのだ。それは裏切られ、渡部は高校で孤立した。黒川のように。最も、渡部は黒川のように暴言を日々吐かれている訳ではない。
だが、黒川はもっと酷いはずだ。それを唯一の歪んだ支えにして、何とかやってきた。

それも、全く見違えた黒川――否、中畑に出くわしたことで粉々に崩れた。
渡部の世界が、終わってしまったのだ。




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