『Missing Your Fate』 p3/p6


歩を進めた瞬間、空気の明度と温度が急激に低下した。肌に触れる空気は重く暗くなり、無機質な空間に閉じ込められた。直感が告げている、此処は鏡映しの世界だと。
色彩は無く、白と黒とその中間である濃淡と――つまりモノトーンに支配された。なのに芽衣から色彩は失われず、モノクロの世界で芽衣自身が持つ色彩――ブレザーの紺にスカートの灰色、リュックサックの黄色。自分の肌の、色。
芽衣自身だけが色彩を持っている、違和感。ぽっかりと取り残されたような、不安。

…ひた、…ひた、

そして、芽衣の遥か前をゆったりと、足音をわざと抑えるようにして歩く黒川の姿。その手には、カッターナイフが短剣のように握られていた。ひっと短く悲鳴を上げていたことに気付き、口を手で覆う。
無意味ではあるがそうせずにはいられなかったのだ。

―――でも、憂理は何処?

一定の距離をとって黒川の後ろを足音を殺して歩く芽衣。だが、今まで見えていたはずなのに、突如として窓も扉も閉まっているモノトーンの世界に砂混じりの風が轟、と一陣吹いた。目をつむり腕で顔を覆う。
風が止んで目を開けると――黒川の姿は忽然と消えていた。黒川よりも砂のじゃりじゃりという不快感が気になり、で芽衣はぱんぱん、と制服の袖と裾とを払う。

そして――呆然とした。

「――……ひっ…!!」

息を呑んだようにも聞こえる、短い悲鳴。
その砂は―――モノトーンに支配されたこの"高校"において、あまりに異質だった。

―――まるで、血を粉末にしたような砂。

付着した途端紅い"蟲"になったらしく、好き勝手にそこら中を這い回っていた。
紅い蟲が。壁や床や天井、芽衣のすぐ近くにも。

―――ぞろぞろぞろぞろ。

足ががくがくと震える音が聞こえそうだ。ひたすらに怖い。全身が総毛立つような感覚。
ずるずると床にへたり込み、その光景の恐ろしさとおぞましさにがたがたと震える。

突然、芽衣の肩に手が置かれた。
黒川かと思って、手を振り払い後ろを怯え混じりの視線で精一杯に睨みつける。
戸惑ったような細面が、芽衣を心配そうに見下ろしていた。

「えっと…大丈夫か?」
「あ、神崎くん…その…いきなり睨んでごめん」
「…いや、それは気にしなくていいけど。それより、何で"こっち"に居るんだ?」

芽衣は、睨みつけた後で自分の肩を叩いた人物の正体を知った。男子高校生としては線が細く、それ以外に目立った特徴はあまりない。
―――神崎黎。
憂理と同じクラスで仲がいいらしく、芽衣の耳にも噂が入ってくる。たまに廊下ですれ違う時に見た限り、おっとりとした雰囲気を持つ少年だったはずだ。
だが今、彼の表情は真剣そのもの。

「え…"こっち"って、何?」
「…知らないなら知らない方がいいと思うけど」
「教えてよ!」
「その前に俺の質問に答えて。君はどうして此処に居るの? 君の意志でないならこれは契約違反のはずだ」

神崎はおっとりと困惑しながら真剣に問う。
芽衣は神崎の雰囲気に戸惑いつつ、ぽつりと答えた。

「……憂理がこっちに行っちゃったみたいだから追いかけてきたの」

その答えに神崎は渋く眉を寄せる。その表情のまま、彼は芽衣の前に回り込んだ。
するり、と。行く手に立ち塞がるように。

「そうか。…じゃあ悪いことは言わないから…早く此処から出た方がいいよ」
「な………じゃあ憂理は!? 憂理はどうして此処に居るの!?」
「中畑は…仕方ないんだ」

神崎は横に首を振る。

「黒川憂理から受けた依頼はそういうものだからね。死者の頼みを、俺は断れない。君とかからすればかなり非現実的だろうけどさ」
「依頼……待って、じゃあ!」

人の良さそうな笑みで、存外に恐ろしいことを言うものだ。
そう、神崎は言外に、憂理を襲っている黒川の手助けをしていると言っている。

「――うん、そうだね。…俺は黒川憂理の依頼により中畑憂理への復讐を手伝っているよ」

悲しそうに微笑んで、半ば自嘲するように、そう告白した。それは情のある者だから故の物のはず。憂理を手にかけさせることに躊躇があるのかもしれない。
神崎の右手には、骨董品のような短剣が握られていた。
勿論芽衣に向かってそれを振りかざすつもりはないようで、装飾的な柄に繋がっているであろう銀色の鋭い刃は装飾的な鞘に隠れている。鞘に嵌めこまれた瑠璃色の宝石が、キラリと光った。

「橋本さん…だっけ。中畑は、もう君の世界には帰って来れないよ。だから今此処で、"鏡"の世界で見たことは忘れるんだ」
「どうして!」

恐怖で錯乱しきった芽衣の頭には、神崎の言っていることの意味は理解出来ない。ただ、彼の言うことを解釈すれば――憂理が、黒川に殺されてしまうというように聞こえた。
あの、憂理が。

「見せたくないけど…解らないなら仕方ないのかな」

溜息をついて、神崎はパチンと指を鳴らす。その表情は、限りなく無だった。瞳だけが異常に昏い。その瞬間、芽衣の視界が大きく揺らいだ。

「な…何!?」
「行くよ。言って解らないなら、行って解らせるまでだよ。辛いかもしれないけど…ごめんね」

ウチを恐怖させたことを謝るならどうして憂理を手に掛けさせることは謝らないんだ、と言いたいのを呑み込む。神崎は短剣の鞘を抜いて左手に持ち、刃を壁に勢いよく突き立てる。瑠璃色の宝石が、煌々と禍々しい光を放つ。
次の瞬間には血の色じみた砂が竜巻のように渦巻いて――神崎と芽衣を、飲み込む。

そして――彼らは、"鏡映し"の職員室前の廊下から消えた。


[←prev] [→next]



[目次/MAIN/TOPへ]