『喪失ヒンメルライヒ』 p3/p4


「うわ、ごめんなさい!」

慌てたような調子で謝罪する男子の声。何か黒川と一緒に居たやつに性格が似てそうな声だと渡部は思う。そして数秒後に、その謝罪が自分に対してのものであると気付いた。
飲み物が掛かったらしい、学校指定の茶色いセーターに雫がついている。
段々水分が浸みたのか皮膚が冷たくなって来た。

「大丈夫?」
「別に。つかふざけないでくんない?」
「ふざけてないって…渡部さん、ホントにごめん!」

おろおろとする男子の声。少し透明なしみがついているライトノベルから視線を上げた。左胸の部分に校章のついた茶色いセーター。黄色いネクタイ。大人しそうな男子を絵に描いたような顔がおろおろと此方を見ていた。

「…内山なの?」
「あ、うん…そうだけど…」

そういや同じ高校に合格していたんだっけ、と目の前の小柄な男子――内山遼の顔を見ながら思う。高校に入ってクラスが別なので存在自体を忘れていた。
何にせよ知り合いには会いたくなかったのでひらひらと手を振って追い払う。
だが内山はその場を動こうとしない。それが酷く不愉快だった。

「ちょっと、何か用でもあんの?」
「…えっと……あの………」

ファーストフード店での最悪な気分から、今さっき態とではないであろうとはいえ飲み物がかかった苛立ち。渡部は内山をキッと睨みつける。黒川にはそうしていないだろう、半ば憎しみと八つ当たり交じりの視線で。
いくら高校で孤立していて根暗っぽくなっているとは言え、中学時代ではいじめっ子の象徴であった渡部の視線。黒川ほどではないが、暗く大人しい男子の内山は一瞬たじろぎ俯く。
――当たり前だ。
渡部の胸中に昏い喜びが湧き上がる。それもそのはず――彼女にとって人を見下すことは日常茶飯事。何より、長い間渡部は人を見下すことに時間を費やして来た――

「よくないと思うよ。あんまり…」
「は?」

内山の目を見据えて睨みつけてやろうかと思って視線を合わせたことを、渡部は後悔した。黒い両目が凛、とした雰囲気で渡部を真っ直ぐ見据えていた。
其処には恐れも憎しみもなく、ただ憐れむような。

「…何……」
「中学の時は怖くて言えなかったけどさ…やめた方がいいんじゃないの」
「はぁ!?」
「だから何ていうか――もう大人になったっていいんじゃない? 忘れていいと思うよ」

―――ぱんっ

その後に、人を見下さないと生きられないなんて最低じゃないのかな、と内山の声が聞こえたような気がした。渡部は、渾身の力で内山の頬を平手打ちして立ち上がる。
図書館の床に転がるような姿勢になった内山をこれ以上ないくらいに憎く思いながら。

肩で息をし、足音荒く渡部は市立図書館を出て行った。
心の中の苛立ちと喪失感は未だに、晴れない。


20111023


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