『Missing』 p3/p4


(…奈々)

はっと顔を上げる。何時の間にか握り拳を作っていた右手。何時の間にか自習スペースの机に突っ伏して眠ってしまっていたのだろうか。"失われた運命"の本を枕にして。つまりあれは夢だったのか?
だがそれにしてはいやにリアルなものだった。それに――右手に何を握っていたのかと思って握り拳を開くと、くしゃくしゃになった桜の花びらが。勿論、夢と思しきあの足音が聞こえる前にはなかったものである。
…まだ微妙に夏の暑さが気だるく残る秋のこの時期に、桜が咲くはずがない。つまり――あれは、リアリティのないリアルだったのだろうか?更に視線を上げ、図書館の時計を確認してみる。生真面目な性格の遠野は、掲示に「図書館では携帯電話の電源をお切り下さい」とある通りに、携帯電話の電源は切っていたのだ。

「……あれ…?」

自習スペースで時計を見たときの時刻は17時を少し回った時間のはず。少なくとも15分は
読書をしていて、その時間を含めても20分ほどしか経っていない。記憶に、バスの時刻表を浮かべる。確か、次のバスは17時45分発のものだったはずだ。なら、そろそろ図書館を出なくてはならないだろう。
だが、なるべくなら冷房の効いた室内に居たいのであと10分居よう。早足で歩けば、バスが着く前には此処から一番近いバス停に着けるはずだ。

………こつ、

「誰!?」

遠野の耳に、ローファーの足音が聞こえた。図書館の静寂を乱さないようになるべく小声で、だが警戒していると伝わるようなトーンで叫ぶ。
ばっ、と振り向いた。
両耳より少し上で束ねられた濃い栗色の髪と、顔にべたべたと貼られているガーゼと絆創膏が目に入る。彼女は、警戒されて困惑しているような表情をしていた。

「あ…なんだ、憂理ちゃんか……」
「…警戒しといて"何だ"は酷いね、遠野ちゃん」
「ごめん、実は何か昨日とか一昨日とかでこんなシーンのホラー小説読んじゃったから…」
「マジで? 何てタイトルの小説?」
「えっとねー…あはは、やっぱり怖いから秘密!」
「何それ、ますます気になるんだけど!ねぇ教えてよー」

中畑憂理。イラスト部で、遠野が所属している文芸部と合同で活動したこともある友人だ。付かず離れずのスタンスを取る中畑は、篠田のことのように触れられたくない事がある遠野にはとても有り難い。
…勿論、今さっき遠野が警戒したのは、篠田の足音である。
いくら自分の大事な人である篠田でさえも、ああして来られると凄く怖いのだ。彼の死が自分の所為だとしても、遠野はまだ死にたくなどない。彼のことは重い鎖になっているかもしれないけれど、高校生活はとても楽しいのだ。
生真面目な性格もあるし、中畑に嘘をつくことはとても心が痛む。だが遠野の唇からはすらすらと虚偽が零れ落ちていった。昨日は小説など、読んでいない。

「…そういえば憂理ちゃんはどうして此処に? あ、まさか神崎くん?」

悪戯っぽく問いかけてみる。そう、中畑と神崎はかなり仲がいい。クラスが同じで、何の偶然か必然か委員会も同じになったらしい。確か図書委員だっただろうか。因みに彼女らが付き合っている、という噂が学年の中でまことしやかに流れていたりする。

「うん、そーなんだよね。10分で戻るって言ったんだけどまだ戻ってきてなくてさ。遠野ちゃん見てない?」
「あー…うん、私さっき見たよ。てか話したんだけどね」
「ふーん、そっか。じゃあ入れ違いかな。あんがと遠野ちゃんー…ってこれ神崎のじゃん」

独特な言い方で遠野に礼を述べ、ひらひらと手を振りながら中畑は去っていく。スマートフォンを操作していない左手には、此処に神崎が落としていったらしい黒い犬のキーホルダー。憂理が左肩に引っ掛けている鞄にはそれと色違いと思しき白い犬のキーホルダーが付いていた。
あれはそのうち過去の私たちになるのかな、と考えて遠野は小さく振っていた手の行き場を無くす。視線は膝に落ちた。訳もなく、悲しくなった。

―――…ひら、

突如、風もないのに舞い落ちてきた桜の花びらが触れた。遠野はばっと顔を上げ、目を見開く。まさか、篠田が? …やめて。お願い、赦して!
周囲の明度と彩度がどんどん下がっていく。あの、足音に怯えるモノトーンの世界へ逆戻りだ。怖い。全身からざぁっと血の気が引いていくような気がする。

…ひら、

桜。3月に咲かなかった桜が、10月の今狂い咲いている。咲くと同時に散る、綺麗さよりも無常さが際立つ花。ある意味、彼は正しく桜だったのかもしれない。
がたん、と自分が自習スペースの椅子を蹴って立つ音が酷く大きく響いた。

「奈々、迎えに来た」
(遅くなって悪い。待ったか?)

そして半年ぶりに――彼の、篠田研斗の姿を見る。今、彼の目は赤く光って見えた。まるで狂気の色。全身が粟立つ。かつて聞いた台詞が、今の篠田とダブって聞こえる。それが余計に、遠野にはやるせなかった。口を動かそうとしても、動かない。つまり受け入れることも、拒絶することも出来ない。

「行こう。もう別れは気にしなくていいんだ」

……ひら、

でも、約束を破って彼を致命的なほどに傷つけてしまったのは自分以外の誰でもない。遠野の中の生真面目さと情の深さは、そう選択した。自分が死ぬことで、彼が救われるのならば。

「そうだね」

―――死にたくない!
そう叫ぶ本能に逆らって、震える手を篠田に向けて差し出す。知っているはずの図書館のこの光景が、地獄の光景にすら思えた。そう、まるで色彩の無い地獄。…これはある意味、永遠の苦行になるのだろうか。
半年だけの高校生活が走馬灯のように脳裏をよぎっていく。文化祭、部活、球技大会…短いながらも、沢山の思い出。腹を決め、静かに目を閉じて待つ。

――手が触れた。

「悪い…サンキュ」

そう呟く声が、耳元で聞こえた。一瞬目を開けると、色の薄い茶髪が見えた。篠田は茶色いメッシュが入った黒髪である。因みにその薄い茶色の髪を、遠野は先程見ている。

――神崎くん!? 何で!?

此方を見て哀れむような視線を投げかけているのは、間違いなく神崎。神崎が此処に居る理由を探る前に、何処からか桜が舞い落ちて、雪のように積もっていく。段々とそれは量と速度を増して――全てを覆っていった。


…それはとても幻想的な光景。神崎はその全てを見届けていた。遠野と篠田が桜の雨に飲み込まれていく、その光景を。終焉を迎えたことを確認すると、骨董品じみた短剣の鞘を抜き銀色の刃を――突き立てる。



「神崎、おーい神崎ー」
「………中畑?」

図書カウンターにも居なかったので、もう一度蔵書棚を一周すると――自習スペースの机に、神崎は居た。居眠りでもしていたのか、彼は机に突っ伏している。
ぐらぐらと憂理が少し乱暴に揺すってみると、神崎は眠たげな声と共に憂理の方を向く。

「アンタ結局寝てた訳?どんだけ疲れてたんだし」
「あー…ごめん。待った?」
「うん、待った。…あと、神崎これ。遠野ちゃんのトコに落としてたんじゃない?」

彼女は黒犬のキーホルダーをぽん、と神崎の掌の上に置いた。

「あ、ありがとう。本当ごめん…結局30分くらい待たせたのかな」
「そういうことになるかなぁ。ま、明日からテストだから帰り早いし、明日の昼どっか食べに行く? もちろん神崎のおごりでさ」
はいはい分かった本当ごめんね、と神崎は苦笑い。憂理の瞳に怒りはなく、軽薄な面白がりだけだ。とりあえず早く帰ろうよと急かす憂理に頷いてみせ、ほんの5分ほど前まで遠野が居た自習スペースの机を一瞥する。

其処には季節外れの桜が、ぽつんと1枚だけ取り残されていた。


――その日、遠野奈々が行方不明になった。
人一人を失ったこの世界は、何にも無情に無関心に、ただ回る。



20110917


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