『Missing』 p2/p4
あの本は――彼が買ってくれた"失われた運命"は彼の葬儀の時棺に入れた。その時はそれで正しいような気がしたが、もしかするとそれは間違っていたのだろうか。思い出なんていらない、という風に取られてはいないだろうか。
最近、そんなことを考えるようになった。脳内に引っ掛かっているざらりとした感触に、心臓を掴む冷たさ。その"聲"が、聞こえる度に。…理由は、なんとなく心当たりがある。
(ごめん、本当にごめんなさい)
天を仰ぐ。見えるのは灰色をした、市立図書館の天井と無機質で無力な光を放つ蛍光灯だけ。
(赦して。研斗…お願い、赦して)
遠野奈々の頬を伝ったのは涙――だったのだろうか?
それに答えるのは、沈黙だけ。つまりは、答えるものなど無いのだ。
…ひた、
遠くから近づいてくるような足音。なんとなく、懐かしい気配。はっと視線を降ろすと、辺りがモノトーンに覆われていた。世界が、黒と白と灰色に彩られている。
グレーの天井や壁と違い、少なくとも木製の本棚は色を持つはずなのに。
自分だけが色彩を持っている、ある種の違和感。
――――ぞわっ
そう感じた途端、肌に触れる空気の温度と辺りの明度が、急激に低下した。何より、自分以外の誰の姿も見えないことが更に不安を煽る。
…ひた、
知っている。この、感情を音と共に押し殺した足音を自分は知っている。あれはそうだ、今自分が通っている高校を受験し、合格発表のときだ。桜が咲いた、と無邪気に喜んでいた自分。ひとしきり喜んでから彼の――篠田研斗の受験番号を探したが、ついぞ見つからなかった。
――そして、
…ひた、
幻聴であっただろうが、確かに自分はあの合格発表の場で聞いた。あの足音。彼の足音。今はこの異様な状況と合わさって、恐怖しか感じない。振り向こうか、そうしようか。そう思っているのに、首が後ろを向こうとしない。
まるで金縛りにあったかのように、指の一本すらも動かない。
…ひた、
篠田研斗の足音の気配が自分の背後近くにあるような。彼は死んだというのに。合格発表の翌日、彼は自宅であるマンションの屋上から身を投げた。遺書もなく、自殺の原因は不明――ではあるが、志望校に落ちたことからそれを苦にしたのだろうと周りは噂した。
だが遠野は、篠田が自殺した理由を理解していた。あれは心臓に氷の棒を突っ込まれたかのように冴え渡った、嫌な予感であり、確信だったのだ。
……ひた。
遠野のすぐ後ろで、その足音は止まった。
金縛りのせいで、振り向きたいのに振り向けない。この身を焦がすような罪悪感。
今の高校に遠野は受かり、篠田は落ちた。
本当は、誰も悪くはないのかもしれない。誰もが、悪いのかもしれない。
「ごめんなさい。ごめん、研斗…」
気配は答えない。
「きっと私のせいだよね。私が…」
言葉が続かない。気配は、答えない。
――――轟、
と閉め切られた図書館に一陣の風が吹く。ぎゅ、と唯一自由だった瞼を閉じる。
それは何故か暖かな春風のようにも思え――彼に抱きしめられているような錯覚すら覚える。頬に桜の花びらのような感触が、ふわりと触れた。
そして、遠野の視界が暗転する。
「…そうなの?」
「誤解だったみたいだ。奈々が罪悪感を持ってるなら、俺はそれでいい」
最後の桜がふわりと闇に消えて、光源がなくなった漆黒の世界。自分と彼が、色彩を持っている。まるで薄ぼんやりとした淡い光を放っているような。
「そうなんだ。でもいいの?もしかしたら君、篠田君は遠野さんに忘れられるかもしれないよ?」
聖人のような微笑で、彼は篠田に語りかける。あくまで優しく、諭すかのように。
「それに、今更契約破棄なんて困るのは君なんじゃないかな。君は間違いなくこの契約書にサインしたでしょ?」
――私は死者の世界へ道を繋げることを望みます。
この意志は、隔てられた世界の壁を壊すまで違えることはありません。
そう毛筆じみた筆致で書かれた契約書。高級和紙の匂い。
「…それが何だよ?」
篠田は眉を顰める。それに彼は――篠田が落ちた高校に通っていて、暫しの間遠野をあのモノトーンの世界に閉じ込めた少年は、こう答えるのだ。
「この契約は絶対なんだよ。人がいずれ死ぬということが絶対であるようにね」
「………あぁ?」
彼は、優しく微笑んだままだ。半ば薄ら寒く見えてくる。
「君がそう言うのはさ、死者の世界で遠野さんに会えるという前提があるんじゃないかな?」
「そうだ。それが何だって、」
「もし仮にだよ。この契約を破棄したら――篠田研斗という存在は消えてなくなるんだよ。死者の世界からさえもね」
「………!!」
神崎黎と自分に名乗った少年は、少しだけ冷ややかな光を浮かべて言う。口元だけが笑っていることに気付いたから、恐ろしくなったのだ。きっと、そうなのだ。
「君は、それでもいいのかな?」
よくない。それに、奈々をこちらに引きずり込みたいという想いが、完全に費えた訳ではないのだ。先程、神崎にああ言ったのは篠田の中に僅かにあった良心。
だが――その良心のせいで、自分が永遠に彼女に会えなくなるのなら。
もはや、神崎との契約を破棄する必要など欠片もないのだ。
「うん、分かったならそれでいいかな。じゃあ、もう一度」
神崎は、骨董品じみた短剣の鞘を抜いて――まるで止めを刺すかのように崩れ行くモノトーンの世界に突き立てた。短剣の鞘に嵌まっている瑠璃色の輝石が、禍々しく光を放った。その瞬間、半年ほど季節が外れているはずの桜が、ぶわ、と舞う。淡い色の竜巻が、モノトーンの世界を壊していき――
篠田は覚悟を決めたかのように目を瞑る。一方の神崎は――相も変わらずに、罪人を憐れむような聖人の眼差しで、じっと何処か一点を見つめていた。
[←prev] [→next]
[
目次/
MAIN/
TOPへ]