3.冷たくとろり
夕飯を終えた寮で数人がだらだらとテレビを見ている時に、悟のスマホから音が鳴った。半分寝たような顔で端末を取り上げた彼が内容を確認するや目の色を変えて、すぐにソファを立って男子棟へ向かいながらスマホを耳に当てた。
「いつから?…何度あんの、食欲は?」と漏れ聞こえた内容だけで夏油には事態が把握出来た。
「五条さんどうしたんですか?」
棒アイスを齧っていた灰原が、悟の消えていった扉を見ながら言った。
「お姫様のピンチってやつさ」
夏油の答えに灰原は首を傾げながら、アイスの続きを口に入れた。
5分もしない内に部屋着から外着に着替えた悟が談話室を足早に通過して、「ちょい出てくる、朝には戻るから誤魔化して」と言い残して出て行ったのだった。「はいはい」と受け取り手のいない返事をして、夏油は自室に引き上げたのだった。
ミズキは身体が重く布団に沈んでいく感覚の中で、ふと額に冷えた手が触れたような気がして目を開けた。
悟の心配そうな顔が覗き込んでいた。
「…さとるには言わないでって言ったのに」
ミズキが瞬きをすると、熱のために潤んでいた目から涙が溢れた。
「ミズキが苦しいのに僕には内緒なの?寂しいね」
「初詣のせいじゃ…ないからね…?」
「ハハッもう連れてかないなんて言わないよ、安心して」
ミズキは苦しそうに上下する胸から安堵の溜息を抜いて、額を撫でてくれていた悟の手に甘えるように擦り寄った。
ミズキは発熱の兆しを感じた段階で、周囲の使用人たちに「私が熱を出しても悟には伝えないでちょうだいね」と言い含めていたのだけれど、使用人たちは漏れなく悟に買収されているし、伝えずに後からバレた場合(何故か必ずバレる)のリスクをよく知っていることもあって、隠し通すのは土台無理な話だった。
「ミズキ、ご飯食べた?薬は?」
聞きながら悟はミズキの枕元に置かれた盆を見た。小さな土鍋はまだ温かそうで手の付けられた様子は無く、粉薬の袋も破られていない。
ミズキが弱々しく首を振った。
「のどがひりひりしてるの…」
「あー食べるの辛いよね。でも薬は飲もうよ、ホラこれなぁんだ?」
悟はビニール袋を探る音をさせた後、丸い紙のカップをミズキの目の前に出して見せた。どのスーパーにもコンビニにも必ずあるアイスクリームだった。
「冷たいのだったらいけるしょ、ね?」
「んー…」
気乗りのしない返事のミズキを気にすることなく、悟は付属のスプーンを構えて紙の蓋を外した。大きく掬って自分の口に入れ、ミズキに覆い被さった。
ミズキが驚いている間に冷たくとろりと甘いものが流れ込んできて、咽せないように反射的に喉の奥へ送っているとぬるりと冷えた舌が入ってきて、彼女の舌を愛しげに舐めた。
アイスが全て飲み込まれてもしばらく、悟はミズキの口の中から出ていこうとしなかった。舌に残る甘味を口の中すべてに塗り込めるようにした後で、湿った音を残してやっと唇が離れていった。
「は、ぁ…」
「ほらいけた」
「ん…きもちい…」
悟は妙な声を漏らしそうになるのをぐっと堪え、『相手は病人』と内心で無限回唱えた。
気持ちいいというのは冷たいアイスが喉を通っていくのが気持ちいいのであって性的なことではないはずだ。食べさせるのにかこつけて結構濃いめのキスをしたけれども。
ただ、潤んだ目や上気した頬や悩ましげに漏れる吐息は、風邪の症状の内とはいえ下半身にくるものがあった。
冷静を取り繕いながら悟は粉薬をカップの中に開け、アイスと練るように混ぜ合わせてからミズキの口に運んだ。何度かに分けて飲み込み終えてミズキが長く息をつくと、悟は一度アイスを置いて彼女の額を撫でてやった。
「薬終わりだよ、頑張ったね」
「ありがと…」
「まだ食べられる?」
「………」
「うん?」
「さとる、きもちいいの、して…」
ミズキの語尾が途切れた瞬間に、悟は求められたはずのアイスを傍に置いて再び彼女に覆い被さっていた。ミズキの熱い手に指の1本ずつを交えてシーツに縫い付け、アイスの甘味と僅かな薬の風味が残る唇に噛み付くようにキスをして舌を絡ませた。
喉の痛みも発熱も粘膜を擦り合わせて僕が治せればいいのに、と思いながら、悟は夢中になってミズキの口内を可愛がっていた。
次に唇が離れて小休止が挟まる頃には枕元のアイスは溶けてしまっていて、すっかり輪郭の蕩けた塊がとろりと白い水面に浮かんでいるような有り様だった。
「ん…そうだアイス、だった、ね。食べよっか」
「ぅん、ちょうだい…」
ミズキが薄く口を開いて待つので、悟はカップを傾けて甘い液体を口に含むと、またミズキにキスをし始めた。
溶けたアイスを継ぎ足しながらキスを続ける内、疲れと薬からくる眠気でとろとろとミズキの瞼が下がってくる。悟は眼前間近のミズキが眠ったのを確かめると最後に唇を弱く吸って離れた。
安らかな寝顔を見て、彼はハァーーー…と深く長く息を吐き出した。キスの許しは得たとはいえ相手は病人であって、首から下に触れるのはさすがに自制した。というかまだ性的に触ったことはない。つまり結構な長時間ひたすらキスばかりしていたのだけれど、悟は下腹部のそれが張り詰めて痛むほどだった。
「あ゛ー…イテェ」
悟は自嘲的に笑った。
以前夏油の紹介で仕方なしに女の相手をしたことがある。いかにも遊んでいる風で自分の武器をよく理解していそうな女だったけれど、そのグレープフルーツのような胸を見せられても掴まされてもこれっぽっちも催さなかった。それなのに実の姉の寝込む姿とキスだけで痛いほどガチガチになっているのだから、とんでもなく性癖が拗れていてヤベェ奴だという自覚はあった。
そういえばグレープフルーツの相手をした時も、目を瞑ってミズキのこと考えたら秒で勃起したっけ、と再びの自嘲。
ミズキに布団を掛けて彼は部屋を出た。風呂を済ませて急ぎミズキの部屋へ戻ると、薬の空袋や手付かずの土鍋、アイスのカップなどは片付けてあって、ミズキの隣にぴったりと添って布団が敷かれていた。察しのいい使用人がいて助かるよ、と僅かに笑みを溢しながら悟は布団に滑り込んだ。
隣へ手を伸ばしてミズキの髪を撫でると、少し触れた額は熱が引いたように感じられた。
「朝には高専に戻らなきゃだからさ…元気になって笑って見せてね」
額にキスをして悟も目を閉じた。
翌朝彼が目を覚ました時、半覚醒で隣を見るとミズキの姿が無く、慌てて飛び起きた。
悟が足早に可能性のある戸を開けて回っていると、彼女の姿は洗面所にあった。歯ブラシを咥えた「おはよう」に悟は安堵して、歩み寄って額に手を当てた。
「おはよ。熱はなさそう?」
「うんもう平気。悟、昨日はありがとう。…来てくれて嬉しかった」
「勃った」
「ふぇ?」
「違う、ミズキが元気なら僕はそれでいいよ」
グレープフルーツ 〈 越えられない壁 〈 歯磨き中のミズキ
悟の中の真理である。
彼は内心の欲情を顔面には一切反映させず爽やかに笑って、洗面台から自分の歯ブラシを取って歯磨き粉を乗せて口に入れた。
大きな鏡に向かい並んで立ってしゃこしゃこと歯を磨いて口を濯ぐと、悟が手近なタオルをミズキの口元に当てて水滴を押さえた。ミズキがそのタオルの端を掴んで悟の口元へ持っていくと、届くように腰を屈めてやるところまでが自然な流れである。
「悟、朝ごはんは食べていけるの?」
「んーあぁ、ちょっともう出ないとヤバいかな。着替えたら出るよ」
壁の時計を一瞬見て悟が言うと、ミズキは少し残念そうに「そっか」と笑った。
「悟、屈んで?」
ミズキからのお願いに疑いなく悟が屈んで中腰になると、彼女は屈んでもまだ自分より高い悟の両頬を柔らかく捕まえて少し背伸びをした。
ちゅ。
「じゃあ私部屋に戻ってるから、帰っちゃう前に声掛けてね」
ぱたぱたとミズキが去った後もしばらく悟は中腰の姿勢のまま固まっていた。ミズキが自分からキスをしたのは初めてのことであった。
「…五条さんはどうしたんですか」
七海が胡散臭そうに眉を顰めて言った。朝食の途中で帰ってきた悟が輝かんばかりの笑顔を振り撒いていて、気味が悪いことこの上ない。
七海の隣で朝から丼飯をかき込んでいた灰原が口の中身を飲み下してから無邪気な笑顔を悟に向けた。
「昨日のお姫様のピンチだとかは、その感じだと解決したんですか?よかったですね!」
「えへへそーなんだよ灰原聞く?もー可愛くってさぁ僕朝からちん「灰原それ以上は聞くのやめな」
止めたのは夏油だった。
七海は何となく察した。これは聞いてはいけないやつだと。