2.僕の最愛の人



夏油と硝子は目を疑った。あれは本当に自分たちの知る五条悟か、と。
高専に入って以来初めて初詣に誘われて、最初硝子は「別に毎年初詣行かないし」と言って断った。ところが悟が妙に食い下がるから理由を尋ねてみれば、紹介したい人がいるからと言い出したのだ。
今10mほど向こうでスモークガラスの高級車から降りてきたのは、髪の色から見て遠目にも間違いなく五条悟だった。しかし車から降りた彼が恭しく手を差し伸べて、反対の手で降り口の天井を庇って、振袖姿の女性を車から降ろしてやったその様は、どう考えても天上天下唯我独尊を地で行く普段の彼とは一致しない。
悟が紋付袴姿なのとかもう本当どうでもいい、振袖の女性が誰なのかもこの際いい(どうせ紹介されるし)、あれは実は五条悟の皮を被ったペッパー君だと言われた方がまだ納得出来る、というのが、夏油と硝子の偽らざる本音であった。

女性の手を引いて駐車場から歩いてくる悟の表情がこの上なく幸せそうに甘く蕩けていて、夏油と硝子は何だかちょっと逃げ出したくなった。もちろんそんな暇もなく悟が間合いまで入ってきて「あけおめー」と適当な挨拶を投げた。

「ふたりに紹介すんね、ミズキだよ。僕の最愛の人」

夏油はミズキという名前に朧気ながらも覚えがあった。いつ聞いた名前だったか、もちろん悟本人から聞いたのではない。遊び相手の名前を覚えることをしない悟の口から特定の女性の名前が出たなら、もう少し鮮明に覚えているはずだ。
記憶を手繰るうち、唐突に思い出した。以前に夏油が知人女性に頼み込まれて悟を紹介したことがあったのだけれど、その女性から後日これでもかというほど呪詛を吐き散らされた苦い思い出があったのだ。女性曰く、「『どうしてもって言うなら挿れてあげなくもないけど、最中は目ぇ瞑って君のことミズキって呼ぶからね。でないと僕勃たないと思うし、あ、君は声出さないでね』よ!?信じられる!?さすがに冗談でしょって思ったらマジでやりやがったわよナメてんの!?」。夏油は『君も大概だと思うけど』と言いたいのをぐっと堪えて「そっかぁ」と言うしかなかった。
続けて、かねてより悟が自分の家を毛嫌いしている割に頻繁に帰省する理由として婚約者の存在を勘繰っていたから、その推察と苦い思い出とミズキという名前がしゅるしゅると結び付いて丸く収まるのを感じたのだった。
この人が悟の特別か、なるほど美人だ、と夏油がしみじみ苦い思い出を消化していると、悟の後ろから紹介を受けたミズキが出てきて上品に笑って会釈した。

「初めまして、悟の姉でミズキといいます。悟がお世話になってます」

…………………エッ

「あーっ!ミズキ駄目じゃん姉って言わないでって言ったのにさぁ!」

マジかよ

「悟、ちょっと来い」
「えーなに、ミズキと離れるの嫌なんだけ「い い か ら 来 い」

しばしの離脱、詰問、結果被疑者は完全にクロであった。夏油は天を仰いだ。硝子はほんのさわりだけ聞き及んでいる逸話から何となく事情を察して、望み薄とは承知で煙草吸いたさに喫煙所を視線で探した。三ヶ日の神社では見付からなかった。

「いいじゃん別に、人を愛するのに理由とか必要?」
「少なくとも倫理観は必要だろ!」
「まぁ冗談はさておき初詣しようぜ」
「冗談で済ますかは警察に決めてもらえッ」

夏油に胸倉を掴まれても、悟は実にあっけらかんとしていた。『これがベストなんだけど何か問題?』とでも言いたげな様子であるし、実際彼はそう思っている。

「…まさかとは思うけど悟、きみ、自分のお姉さんを」
「やだなー抱いてないよまだ」
「まだって言いやがったコイツまだって言いやがった」
「ハハッ傑口調バグってんじゃんウケる」
「本気でどうするんだ、一生囲うつもりか!?」
「そうだよ」

実にあっさりと肯定して、悟はにこにこと機嫌よく手を振った。夏油がその視線を辿るまでもなく、悟は最初に合流した地点で手を振り返すミズキを見ている。

「この僕がさ、ここまで我慢したんだよ。当主に就任したらもう誰にも文句は言わせない、ミズキを連れてあのクソ以下の家から出るんだ」
「………」
「倫理観なんてミズキを何年も閉じ込めてきたクソどもに言えよ、僕はミズキを愛してるだけだ」

夏油は喉まで出かかった言葉を飲んで、代わりに溜息を吐いた。
五条悟に兄弟姉妹があるなど聞いたこともない。それだけ厳重に秘匿されているのだろう。ミズキに術師としての実力があるなら高専に在籍しているだろうし、そうでない現状を鑑みれば五条家幹部が彼女に何をしてきたかは想像に難くない。
正しいとは何であるか、夏油は答えられなくなった。

「…分かったよ、その代わり詳しく話せ。私や硝子に何をさせたいのかも」
「さっすが傑、恩に着るよ」
「戻ろう、ミズキちゃんが不安そうにしてる」
「大丈夫いつも通り傑が僕を虐めてただけって言うさ」
「殴るぞ」





夏油が悟を引き摺っていったのを見送ると、硝子とミズキはチラッとお互いを見合って小さく笑った。

「あの馬鹿私と夏油のこと紹介しないで行っちゃったね。家入硝子、よろしく」
「硝子さん、よろしくお願いしますね」

硝子は高専での悟の様子を交えて夏油や自分のことを紹介しながら、ミズキが同い年なのを聞いて敬語を辞めさせた。
ミズキが悟と双子で、呪力が弱く、家からほとんど出ないのだと聞いただけで、硝子は大方の事情を察することが出来た。『家から出ない』は『出してもらえない』と同義であることも。
天与呪縛だろうか…とミズキの顔を見ながら硝子が頭の隅で考えていると、視線に気付いたミズキが笑った。

「呪力が弱いっていってもね、天与呪縛じゃないの。本当にただ風邪を引きやすい一般人なの」
「そっか。ごめん、不躾だったね」
「ぜんぜん。…だけどせめて、術師になれるくらい力があったら、悟にばっかり辛いことを押し付けなくて済んだのになぁって思うだけ」
「五条は特に辛いとか思ってなさそうだけどね。良心とか優しさは全部ミズキに偏った感じ」

ミズキはくすくすと笑って「悟も優しいのよ」と言って、離れたところに夏油といる悟に手を振り返した。
ミズキに手を振る悟の表情がことさらに甘く幸せそうなのを見て、硝子は溜息を吐いた。一般的な倫理をあの男に説くのは夏油が試みて失敗したところだろうし、巻き込まれる覚悟を決めなくてはいけないようだ、という意味の溜息だった。

その後、仕切り直して4人で初詣をした。
悟はミズキが手水をすれば振袖が濡れないように手を添えてやり、清め終えたところへハンカチを差し出し、手が冷えたろうとその白い手を撫で擦ってやり、少しの段差にも手を貸し、始終幸せそうにあれこれと世話を焼いた。
別れ際に連絡先を交換して、初めて自分の端末に悟以外の名前を迎えたミズキは、帰りの車の中で画面を見ながらふくふくと嬉しそうに笑ったのだった。

「ミズキ、疲れてない?」
「大丈夫、今日はありがと悟。楽しかったぁ」
「何よりだね。傑も硝子もいい奴だからさ、これから4人で仲良くしようよ」
「嬉しい、とっても」

広い後部座席でも、ふたりともが中央寄りに座って惜しむように身を寄せ合っていた。
従順な運転手は急加減速をせず、至極滑らかに車を走らせることに心血を注いでいる。

「悟こそ、朝からの互礼会で疲れちゃったでしょう?」
「終わったらミズキと初詣だって思えばチョロいもんだよ。実際振袖姿見たら生きてて良かったって思ったね」
「大袈裟なのよ」
「マジだよこれ。綺麗だなぁ…僕のミズキ」

悟の指先がミズキの目元をするりと撫でると、彼女は楽しげにくるくると笑った。
どうしたの、あのね、の会話が内緒話のようにふたりの間で為された。

「硝子ちゃんには私天与呪縛じゃないって言ったんだけど、本当はそうなのかもしれないわ」
「ふぅん?呪力の代わりに何をもらったの?」
「悟をもらったのよ」

悟は数秒の間目を丸くしてミズキを見ていて、言われた内容が頭に染み込むと目の前の白い頬を捕まえて深く深く口付けた。ミズキの喉元から艶っぽい声が漏れたところで運転手はルームミラーに驚いて一瞬ハンドルをブレさせたけれど、悟がキスに夢中になっている間に自身の動揺を捻じ伏せて運転に集中した。
悟は息の上がってしまったミズキが彼の肩をとんとんと叩く頃になってようやく、半ば無理矢理に唇を離した。離したばかりの至近距離でミズキの目がうっとりと蕩けているのを見てすぐにまたキスをしたくなったのは、どうにか自制した。
こつん、とミズキと額を合わせた。

「可愛い、可愛いミズキ、好きだよ」
「私もすき…」
「もう少しだから、もう少ししたらきっと、僕を本当に全部あげる」
「うれしい、さとる、すき…」
「僕は愛してるよ」

結局、一度は我慢したキスを再開したのだった。

時々、悟は心内で懺悔する。ミズキに血族同士の恋愛が禁忌だと教えなかったことを。
そして憎悪しながら感謝もする。家の連中がミズキを閉じ込めて外界とほとんど接触させなかったことを。
そして歓喜する。ミズキが閉じ込められていればこそ、禁忌に気付かず他の男も知らず、自分の手の中にもう間もなく落ちて来ようとしているのだから。




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