15.春の踊り子



※中学卒業後、高専入学直前のはなし



中学校最後の日はとうに終わり、いよいよ明日から高校生活が始まるという春の日だった。明日から悟は呪術高専に通い、ミズキは通信制の高校に籍を置くことになる。
本来であれば新入生は既に入寮している時期だけれども、彼はギリギリまでミズキと過ごすことを選んだ。
悟にとってもミズキにとっても、明日からの生活は特段楽しみなものではない。悟は中学に入る前から既に高専の依頼を受けて呪いを祓ってきたのだから今更高専で学ぶことなど無いと思っているし、ミズキにしても自室で授業の映像を見て課題を提出する生活が再開するだけである。
それよりも彼女にとって影響甚大なのは、この家から悟がいなくなってしまうことだった。

「ミズキ、眠い?」
「…ううん、寝たくない」

ミズキの部屋でソファに並んで映画を観ながら、悟はミズキの肩を抱いていた手でやわやわと桜色の頬を撫でた。
ミズキは悟の肩に凭れて、映画の流れる画面を眺めていた。

明日になれば、大好きな弟がこの家からいなくなってしまう。この広い家には把握しきれないほど人がいるけれど、ミズキが心を許せるのは悟ひとりしかいない。
それでも、寂しいだなんて口にすることは許されない。悟はゆくゆく五条の家督を継ぐために呪術高専に行くのだ。これは母胎の中で彼が男児だと判明した瞬間から予定されていたことだ。

ミズキはなるべく明日以降のことに触れないようにして、努めて明るく振る舞ってきた。
一方の悟は、ここ数日ミズキが明るく振る舞いながらも内心沈んでいることに、当然のように気付いていた。元々気配や僅かな変化に敏感なたちであるし、ことミズキに関しては本人よりも把握している彼である。

悟はミズキの髪を撫でて丸い頭にそっとキスを落とした。

「あーあ、明日行きたくねぇな」
「…どうして?」
「ミズキと離れんのが無理。手がくっついて離れない呪いとか貰ってきてさ、『仕方ないんで連れていきます』みたいなの出来ねぇかな」

ミズキの艶やかな髪を一房取って指先に巻き付けて遊びながら零した悟の与太話に、彼女はくすくすと笑った。

「笑うなよ、結構マジで言ってんだから」
「可愛い呪いね、あったらいいなぁ」
「ミズキは俺と離れて何ともねぇの?寂しいの俺だけ?」

肩に乗ったミズキの顔を覗き込んで、悟は少し拗ねた表情を作って見せた。ミズキは勿論心から悟に同調したいところだったけれど、それを言えば彼を引き留めて人生の邪魔をしてしまうとの葛藤がある。

「ミズキ、言って」

悟がミズキの額にキスをした。
ミズキは彼の肩から頭を上げて正面に回り、膝で立って悟の首に抱き着いた。柔い髪が彼の首筋を擽り、やがて小さく嗚咽する声を耳元に感じて彼は頬を緩めた。

「さとる、やだ…行っちゃいや、さみしい」
「うん、俺も」
「悟が…っいないと、さみし、の」
「毎日電話するし、休みの度に帰ってくるから」
「ごめんね…っじゃま、して、ごめんね」

悟にとって彼を想って涙を流すミズキは何より愛しいものだったけれど、『邪魔』という部分については到底聞き流せない。加えて、その語彙がミズキ自身から自然に出てくることはないーーーつまり誰かが、『邪魔になるから』と言ってミズキの涙を封じた可能性を見て、悟は笑顔の下に苛立ちを隠した。

「邪魔、は取り消せよ。ミズキといんのが俺の望みで当然。邪魔になるわけねぇだろ」
「ん…」
「顔見せて」

悟の首元からミズキが顔を上げるとその濡れた目元に彼は唇を寄せ、ちゅ、ちゅ、と丁寧に涙を舐め取った。涙を回収し終えても顔中にキスを落とし、ミズキの表情がふうわりと緩んだところで悟は鼻先の触れる距離で目を合わせた。

「もう布団入ろうぜ」
「…映画は?」
「観たい?」
「…ううん、でも寝たくないよ…明日になったら悟が行っちゃう」
「ミズキが寝るまでずーっとキスしてる。まぁ寝てもするけど」

映画と明かりを消して布団に潜り込み、悟は本当にミズキが眠ってしまうまで髪や背中を撫で、キスを続けた。額に、瞼に、頬に、鼻先に、唇に、耳に、首筋に。
眠りが浅く短い悟とは対照的に、ミズキは眠りが深い。悟は自分の腕で安心しきって眠るミズキに優しい眼差しを注ぎ、もう一度こめかみにキスをしてそっと布団を出た。





「ちょっといい?」

使用人の女は、突然の背後からの声に大きく肩を揺らした。
夜更けの廊下は薄暗く、その中で悟の白い髪は妖しく輝いて見える。
彼女が寝衣姿なのを慌てて詫びると悟は「いーっていーって」と適当に流した。

「それよりお願いあんだけど」
「はい、何なりと」

使用人の女は咄嗟に髪を撫でつけた。まだ年若い彼女は、地位と美貌を備えた悟と直接話をするのも初めてのことで、しかもこんな夜更けに『お願い』となると期待してしまうのを抑えられなかった。
悟は彼女の目の中に薄っすらと情欲があるのを察知して、内心で吐き気を催したのを表情には出さないよう努めた。

「ミズキのことなんだけど」
「…、……はぁ」

女の返事には落胆が滲んだ。
全く悟様はお優しいから、あんな出来損ないの姉をずっと気に掛けていらっしゃる。悟様の輝かしい将来の邪魔にしかならないというのにーーーというのが、女の本心であった。

「俺がいない間ミズキがぞんざいに扱われないように見張っててくんねぇ?勿論礼はするし…とりあえず月30万で足りる?」
「さん…っ!?」
「誰かがミズキに暴言吐いたとか盗んだとか触ったとか、そういうの教えてくれたら上乗せ。アンタに優しくされたってミズキから聞いたらそれも上乗せ。ど?」
「は、はい…仰せのままに」
「オッケ。当然だけど他言すんなよ」

つくづく別世界の御人だと感服するところである。悟が姉のためにそこまでするというのは女にとって気分のいいものではなかったけれども、目の前にぶら下げられたも同然の万札に心惹かれずにはいられなかった。
「あ、もうひとつ」と悟が付け加えた。

「ミズキにさぁ…泣くと俺の邪魔になるから辞めろとか、言ったことある?」

女が顔を強張らせたこと、それが即ち悟にとって必要十分な答えだった。悟はその美しい青い目を、すぅっと鋭く細めて見せた。

「ハハ、見っけ」
「ちっ違います私は!ミズキ様が泣かれていては悟様が心配なさいますよと…!」
「ア゛ーハイハイ、そういうの間に合ってんの。オマエ明日から幹部のクソジジイ付きにするから。夜の相手でもしてやれば?」
「そんな…っ!」
「そんじゃおやすみー」

ひらひらと手を振る悟は女を見もせずに去っていった。彼の向かう先は女には定かでなかったけれども、自身の行く末は容易に想像出来た。
女は薄暗い廊下に蹲った。


悟は日付を跨いだ辺りでようやくミズキの部屋に戻り、温かい布団に潜り込んだ。ミズキの匂いと体温の移った布団の方が、悟は母屋にある自分の部屋よりも余程よく眠れるのだ。
悟は布団を抜け出した時と同じようにミズキのこめかみにキスをして、温かく柔い身体を抱き込んで目を閉じた。

翌朝目を覚ますと、用意された朝食にミズキは目をぱちくりとさせた。彼女の好物ばかりが所狭しと膳に乗っている。

「今日は何だか…とってもたくさん」

悟はミズキに気付かれないように溜息を吐いた。昨日買収した使用人全員に、『気取られないよう自然にやれ』と言って回らなければいけない。
朝イチからこんなにあからさまに媚びてくるとは悟も予想していなかったのである。

「まぁミズキの好きなのばっかで良かったんじゃねぇの」
「そう…だね?食べよっか」

ふたりで向かい合って手を合わせ、食事を始めたところで、使用人の1人が盆を持って部屋に入ってきた。その女は盆の上で湯呑みにお茶を注ぎ、にこやかに悟とミズキに差し出した。

「おはようございます。よくお休みになられましたか?」
「はい、あの…初めての方ですね」
「はい。本日からミズキ様の身の回りのお世話をさせていただきます。御用がありましたらいつでもお呼びください」

女は柔和に微笑んで頭を下げると静かに退室していった。その際にチラッと悟の方を向いた目が『いかがですか』と言わんばかりなのに対して、悟の評価は『わざとらしい、減点1』といったところ。
悟は涼しい顔で甘い卵焼きを口に運んだのだった。

食事と身支度を済ませて玄関に立ち、悟は見送りのミズキを強く抱き締めた。ミズキは彼の真新しい呪術高専の制服に顔を埋めてしばしの離別を惜しんだ。

「何かあったらすぐ連絡してこいよ。マジでいつでもいいから」
「ん…昨日泣いちゃってごめんね」
「言うなってったろ?俺のこと好きすぎて泣いちまうの嬉しいに決まってんだから」

三和土に立つ悟と框に立つミズキでは、普段よりも少し身長差が小さい。いつも悟がミズキを抱き締めると小さな頭を胸に抱えるようになるところを、今は彼女の柔い髪が首筋を擽るのが心地良かった。離れ難い甘い匂い。悟はいつもより彼の顔に近いミズキの髪にキスをした。

「ミズキ、大丈夫だからな。離れても俺が守ってやるから」
「悟、大好き。怪我しないでね」
「するわけねぇだろ、誰に言ってんだか。じゃ、行ってくんな」

少々朝には似つかわしくない噛み付くようなキスを最後に、悟は意を決してミズキから手を離した。彼女の目元が僅かに赤らんで息も乱れているのを見れば部屋に連れて戻りたくなるので必死に見ないように目を逸らしたまま、悟は外へ出た。
待機していた車に乗り込むと運転手が挨拶と共にすぐさま高専へ向けアクセルを踏む。

座席に凭れると、悟は自分の衣服からミズキの甘い匂いを微かに感じることが出来た。つい先程まで目を潤ませたミズキが、この制服に縋り付いて甘い息を零していた。彼女の触れた箇所を確かめるように撫でながら、悟は下半身が疼くのをどうにかやり過ごした。
早く抱きたくて、それでも大切過ぎて穢せない綺麗なミズキ。悟の半身で唯一。
家督を継げば誰にも文句は言わせない。ミズキを連れ去ってふたりで暮らすのだ。そのためなら自分には必要ない呪術高専にだって大人しく通ってやる。それが、誰にも明かしたことのない悟の本心である。

「だからまぁ、さっさと行けよ」

藪から棒に悟は運転手を煽り、運転手は怯えた返事をしてアクセルを強く踏み込んだ。ちなみに予定していた出発時刻に遅れたのは悟の方だけれど。
やはり始業時刻には間に合わず、悟は初日から微妙な遅刻をすることになる。そしてそれを、長い黒髪をきっちり団子に纏めたクラスメイトに正論で咎められ、入学早々派手な喧嘩をやらかすのだ。

このようにして五条悟の高専での生活が始まった春だった。




***

悟坊ちゃんがはじめて人を買収する話でした。
タイトルはサカナクションの【夜の踊り子】から。
曲最後の『今泣いて何年か後に行く 笑っていたいだろう』が好きです。



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