16.揺蕩う劣情
「どれがいい?」とやけに上機嫌な悟にスマホの画面を見せられて、ミズキは目をぱちくりとさせた。画面には、色とりどりデザインも様々な水着の写真が並んでいる。
「急にどうしたの?」
「ミズキとプール行きたいと思ってさ。僕ミズキにはシンプルな方が似合うと思うんだけど、気になるのある?」
悟の指がゆっくりと画面を流していく。悟は時折サムネイルをタップして水着の写真を表示させては、それをミズキが着た様子を想像してさらに上機嫌になっていった。
しかし、対するミズキは少し浮かない顔をしていた。
「でも、悟」
「ん?」
「私泳げないよ…?」
正確には、泳いだことがない。
学校はずっと通信制で来たし、碌に自宅から出たこともないミズキが海やプールの経験などあるはずもなかった。
悟も当然そのことは承知していて、「だからこそだよ」と笑って見せた。
「もう家の連中に遠慮することねぇの、な?傑と硝子も誘ってさ。行くの嫌?」
「い…っ嫌じゃないっ!」
「じゃ、改めて。どれにしよっか?」
ミズキは実家を出てなお、咎められそうな行動を無意識に避けようとするきらいがある。悟はその行動の枠を拡げようとしているのか、あるいはただ水着姿か見たいだけか、夏油や硝子に尋ねてみれば恐らく後者に2票である。
とにかくミズキと悟は肩を寄せ合って仲良く小さな画面を覗き込んで、水着選びに興じたのだった。
かくして当日。
大きなウォータースライダーや多種多様なプールの揃うその場所は、いつもならば人の声と活気に満ちているはずだった。今日は悟が他人を締め出してしまったので、奥の方で滝のように流れ落ちる音や人工的に作られた波が繰り返し壁に当たる音が響くばかりである。
「可愛い可愛い可愛い目が幸せ僕の理想の映像、4徹できるレベルの快楽物質」
控えめなフリルのついた白いビキニ姿になったミズキを前にして、悟は褒め言葉以外の語彙を失っていた。髪は硝子の手で凝った形に結い上げられていて、白く華奢な首元やすらりとした背中のラインも惜しげなく晒されていた。
悟に恭しく持ち上げられた指先には水色のマニキュアが施されており、足先も同様。
人気のリゾートプールを貸切にしたと聞いた時には『過保護』や『大袈裟』という言葉が頭をよぎった夏油だったけれど、実際にミズキを目の当たりにすると妥当な対応だった気がしてくる。生まれてから一度も地面に足をついたことのない真っ白な子兎のように、特別、神聖、美しい、危うい、愛らしい、守りたい、穢したい、そんな複雑な感情を掻き立てる姿である。
「硝子ちゃん、傑くん」
悟に手を取られたままミズキが言った。彼女の呼ぶ声には、どこか幼い子どもが大好きな友達を呼ぶような、無垢で懐っこい響きがある。
「忙しいのに、来てくれてありがとうね。私こんな大きなプール初めて!」
硝子がふっと笑って、ミズキのポニーテールを崩さないようにぽんぽんと撫でた。
「ミズキが嬉しいなら来た甲斐あるよ。ほら、そこの大型犬連れて初めてのプール入ってきな」
「水に慣れたらスライダーにでも乗ってみるかい?初めて一緒にプールに入るのは悟に譲らないと呪われそうだ」
夏油が言い終える前に悟がミズキの膝裏を掬い上げ横抱きにして、彼女は小さく悲鳴を上げた。
夏油と硝子が呆れ顔で見るのには目もくれず、悟は少し拗ねた表情をミズキに見せた。
「僕が一番楽しみにしてんの、分かってる?僕に笑って、ミズキ」
「連れてきてくれてありがとう、悟大好き」
「僕も好きぃぃぃ…!!」
悟がその白い髪をぐりぐりと擦り寄せるとミズキは擽ったがって笑った。
いいから早く行けと友人2人に背中を押されて悟は足取り軽くプールに踏み入っていく。浅瀬のように徐々に深くなるプールが悟の膝を超えた辺りで、ミズキは緊張して悟の首にきゅっと抱き着いた。
「怖い?緊張してるね」
「だ、だって、初めてなんだもん…離さないでね?」
「僕がミズキのこと離すわけねぇだろ?だぁいじょうぶ」
言う間にもどんどん水深は増して、ある時ミズキの足先が水に浸り、ふくらはぎが沈み、尻や腹、胸元まで来たところで悟はやっと立ち止まった。
彼はミズキの膝裏から腕を抜いて対面でぴったりと寄り添うように抱き締めた。ミズキのまろやかな胸と悟の直線的な胸板に挟まれた僅かな隙間を水面がちゃぷちゃぷと上下している。
ミズキは足先が水を掻く感触に少し怯えた。
「悟ここ、私足届かない…」
「僕が抱いてるから大丈夫。怖かったらもっとぎゅーってして?」
「ちょっと怖いけど、へいき…」
「じゃあもっと深いとこ行こっかなぁ」
「ふふっ意地悪しないでよ」
悟の腕の安定感にミズキは次第に緊張を緩め、足で水を掻く感触を楽しんだり悟の肩越しにスライダーを見上げたり、目の前の悟の肩に水をかけてみたりと遊び始めた。
「慣れた?」
「うん、冷たくて気持ちいいね。ゆらゆらするの、不思議な感じ」
「そっか。僕としてはミズキがもっとぎゅーっと抱き着いてくれた方が気持ち良くなれるんだけど」
悟は緩く口角を上げて、ミズキの腰を支えていた手を丸い尻に回して彼の下腹部に押し付けるようにぐっと引き寄せた。その感触にミズキはぴくりとまた緊張する。
「さ、さとる…?」
「んー?」
「あの、えっと…」
「当ててんの。ほんっと、最高に可愛い…ねぇミズキ、僕が今何したいか、分かる?」
冷たい水の感触とは裏腹に顔に熱が上がって、ミズキは答えられなかった。悟の目の中に、彼がいつもミズキを抱く時に見せる情欲の色がある。
「ね、このプールってリゾートホテルにくっついてんの。来る時に見えたろ?」
「う、うん…」
「部屋取ってあるから、プール終わったらそのまま泊まろう」
「イイ?」と低く甘い声で囁かれて、ミズキは頷くしか出来なかった。
「部屋取ってあるからプール終わったらそのまま泊まろうとか言ってそう」
「十中八九それ」
友人2人の予想はさすがの的中率である。
プール中央には南国風のバーが備わっていて、カラフルな酒の瓶が並んでいる。その隣には硝子好みの日本酒や焼酎が置かれていた。
「【まぼろし】の黒まであるとはね」と夏油は硝子に注いでやってから、酒の品揃えに感嘆した。悟は、自身は下戸のくせに硝子へお願い事を通す切り札として高い酒・希少な酒にやたら詳しいのである。
「そっちは何に釣られて来たの?ここ蕎麦は置いてなさそうだけど」
「人を蕎麦しか食べない生き物みたいに言うの辞めてくれないか?別に、ミズキが喜ぶならいいかって思っただけさ」
「出た優等生の女誑し」
「硝子だってそうだろ」
夏油に図星を突かれて、硝子はふっと笑うだけに止めた。
実際のところ、特級術師2人と反転術式使いの休みを合わせるのは至難の業である。
「あの子見てるとさ」と硝子が言った。
「何かこう…養いたくなるんだよ。この点だけ五条と同意出来なくもない」
「はは、分かるよ」
「ちょっとビックリさせてやろうか。あの子今日あれでスッピンだぞ」
「………いま結構本気で驚いてる」
夏油は自分の過去の女性遍歴を思い出していた。第一印象が美人であればあるほど素顔との落差は大きいものだという彼の中の法則が崩れた。
「本物の美人は輝度が高いな」
「スッピンで日焼けしないようにってのでUVカットガラス天井のプールなんだと」
「その気遣いを仕事にも向けてほしいものだね」
「無理に1票、あとここの酒全部賭けてもいい」
硝子がカラカラと笑った。彼女には珍しい、屈託のない笑い方だった。
「夏油」
「ん?」
「ミズキが手振ってる」
硝子がグラスを置いて手を振り返し、夏油も振り向いて笑い掛けた。
「ほら浮き輪持って行ってやれ。いつまでも五条の抱っこじゃ動けない。曳航してこい」
「呪霊に引かせるよ」
夏油が浮き輪を手に立って、ドボンと澄んだ水の中へ飛び込んだ。
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ネタポストより、「繭の内側夢主ちゃんと五条さんと水着のお話」でした。
「家庭環境的に海も見たことなさそう」とか、「独り占めしたいけど楽しませてあげたいし…」というのが解釈一致すぎて震えました。
素敵なネタをありがとうございました!