10.後で僕がちゃんと



最初は偶然だった。

その男の住むマンションの正面にはオフィスビルが近接していて、その屋上の非常用貯水タンクがベランダからの視界を塞いでいた。薄汚れた、クリーム色だか灰色だかわからない貯水タンク、それが老朽化のために水漏れしたとかで数日前に撤去された。

そんな折、休日に自宅近くのコンビニで煙草を調達した帰り、男が落としたパスケースを拾って差し出してくれた女性がいた。平たく表現すると、男はただもうその美貌に打ちのめされて夢か現かという状態に陥ったのだ。男は年甲斐もなく心臓をドキドキとさせ、流暢に礼を言うことも出来ないまま立ち去って、彼女の着ていた淡いピンクのセーターを反芻するように思い出した。

帰宅後ベランダに出て貯水タンクのあった方向に目を向けた途端、男は火を点ける前の煙草を口から落とした。彼方のマンションのベランダに、つい先程目を奪われた淡いピンク色がちらついた気がしたのだ。何年も使っていなかった双眼鏡を物入れから慌てて引っ張り出してきて、必死にピントを合わせた。
それから男は妻の出掛けている隙に、美しい世界を覗き見ることを、生活の一部とした。


彼女を覗き見るようになって、いくつか男は彼女について知ることになる。
ひとつ、彼女は無職あるいは自宅で働いていて、在宅時間が長い。
ひとつ、ハーブか何かを育てていて、水遣りのためにベランダに出てくる。
そして最後のひとつ、

男は望遠鏡に目を押し当てながら舌打ちをした。
彼女のいるベランダに、男が続いて出てきたからだ。
ひとつ、彼女は恋人あるいは配偶者と思しき男とふたりで暮らしている。
この男というのがまた度肝を抜かれるような美男で、彼女の傍に立つとかなりの長身と分かる。髪が新雪のように白いけれど、歳の頃は彼女と同じだろうと見受けられた。
妬ましかった。
望遠鏡の丸い視界の中、白髪の男は蕩けてしまいそうに美しい笑顔で彼女の肩を抱いた。彼女は小さな鉢を持ち上げてこぢんまりとした鼻先を植物に寄せて香りを確かめ、男にも差し出した。男も同様に葉に鼻を寄せてふたりは笑い合った。

男は悪態を吐きながら前のめりに望遠鏡を覗き込んでいた。妬ましい。あの白髪の男、自身も目の覚めるような美貌を持ち、あの美しい彼女を恋人にして、ここらで随一のタワーマンション最上階に住んでいるのだ。呪い殺してしまいたい。
その瞬間、宝石のような碧眼が望遠鏡を貫いて男の目を射抜いたような気がして、男は短く悲鳴を上げて望遠鏡をカーテンの隙間から引き抜いた。





「ハーブティーって初めて、いい香り」

ミズキは耐熱ガラスのティーカップに琥珀色の液体を注いで、悟はソファの上から機嫌良くそれを眺めていた。
悟の隣に座ってカップに口を付けると、ミズキは少し複雑そうな顔をした。

「少しお薬っぽいかも…」
「確かにね、ハチミツ入れてみる?」
「それ絶対おいしい!持ってくるね」

ぱたぱたと兎が跳ねるようにキッチンへ入っていくミズキを見送ると、悟は一瞬窓の方へ視線を向けた。その内にミズキがハチミツ瓶とティースプーンを手に戻ってきて、とろりとしたこれも琥珀色の液体をティーカップの中に垂らしてスプーンでゆらゆらと混ぜた。
薬っぽさが幾分和らいだそれをふたり揃って飲んで、悟はカップをソーサーに置くと、未使用のスプーンで瓶からハチミツをほんの少し掬い、指先に取った。

「悟、なにするの?」
「シー、お口閉じて?」

ん、と素直に閉じたミズキの唇に、悟はハチミツの指先を滑らせた。

「ハチミツって保湿効果あるんだってね」

グロスを塗ったように艶々としている唇を、ミズキは一度口紅を馴染ませるように閉じ合わせ、ぱ、と開いた。甘い香りが立った。
間近にそれを見た悟は我慢が効かなくなって、ミズキの両脇に手を差し入れて軽々身体を持ち上げると自分の膝の上に対面して座らせた。そうしてより至近距離に招いたミズキの唇に噛み付くようにキスをして、自分で塗ったばかりのハチミツを丁寧に舐め取った。

「ンッさと、んぅ」
「あま、美味しい」
「っん、も、舐めちゃって…」
「ハハッごめんね?」
「悟もお口の周りべたべた」

ダウンライトの反射具合で悟の口周りを確認すると、今度はミズキが悟の口元を控えめに舐めた。仔猫がミルクを舐めるようにチロチロと。
想定外の出来事に悟はしばらく呆然とミズキの舌を受け入れていて、理解が追い付いた時点で堪らなくなってキスの主導権を取り戻した。

「…んっ、ぁ」
「ミズキ、ミズキかわいい、えっちだね、僕唇舐められたの初めて」
「ん…だめだった?ごめんね」
「違う、好き、あーーー…ダメだ、したい」
「なに、ン…を?」
「わかんねぇ?」

熱の篭った目で悟はミズキを見つめたまま、彼女の腰に手を置いて自らの身体に押し付けるようにして、ゆさっと軽く腰を揺すった。悟にすべて教え込まれたミズキは僅かに頬を赤らめてコクンと頷き、「して」と短く強請った。
悟はそのままソファにミズキを押し倒そうとして、思い直して彼女を抱き上げた。ミズキの頭を自身の胸に押し当てるようにしながらリビングを出たのだった。

「後で、後で僕がちゃんと片付けとくから。そしたらさ、ソファでもシてみたいな」
「うん…?さとる、続き…」
「ん、ごめんね。気持ちいいのしようね」

カーテンを引いた薄暗い寝室のベッドで、悟は最愛のひとから求められる幸福にずぶずぶと身体を浸した。
ミズキは熱を享受しながら意識の裏側で、どうして悟はティーセットの片付けなんて気にするのだろうと少し不思議に思って、それもすぐに考えられなくなった。



偶然はまた男に降り注いだ。

男が彼女のマンションの足元をうろついている時に(男は次第に覗き見るだけでは満足しなくなっていた)、清掃業者の社名の入ったワゴン車が駐車場へ入って、作業服姿の男性2人がエントランスへ入っていった。男は咄嗟に、ギリギリ声の拾える距離で物陰に身を隠し耳をそば立てた。
毎月、清掃の、解錠を、機材が、最上階も。
清掃業者とコンシェルジュの会話など内容は知れている。来月も同じ日付か曜日で清掃が入るらしい。そしてその間、最上階も含めて解錠される。
このグレードのマンションであれば最上階へ入るには玄関の鍵とは別にフロア自体にも鍵があることは、男も知っていた。自宅マンションを検討する際に、予算の都合でそのグレードに手が届かなかった苦い思い出と共に染み付いた知識だった。

翌月の同じ曜日、清掃業者と似た上着を着て男はマンションの近くに立っていた。
口から心臓が飛び出しそうに脈打っていた。
パスケースを手渡されて以来、あの美しい人に最接近出来るかも知れないのだ。天も男に味方したと見えて、白髪の男が昨日の夕方、巨大なスーツケースを持って出掛けていくところも見た。
美しい彼女に危害を加えるつもりなど無い。ただ、もう一度視線を交えて微笑みかけてくれれば、この虚と妬みが満たされる気がするのだ。

本物の業者が入った後、なるべく平静を装って業者然とした態度で、エントランスを抜けた。一瞬だけコンシェルジュの検問する視線に晒されたけれど会釈すると通された。エレベーターに乗り最上階へ、その間に上着は脱いで、最上階へ着くと物陰に押し込めた。心臓が破裂しそうだった。
廊下を歩き、ひとつしかない玄関扉の前に至った。空気に彼女の匂いが漂っている気さえする。ドアノブに手を掛け、静かに引いた。抵抗なく扉が薄く開いた。
瞬間、思いもよらず扉が勢いよく開かれて男は尻餅をついた。

「いらっしゃい」

白髪の男の笑顔が扉の向こうから現れたのを最後に、男の意識は一度そこで途切れた。

次に男が目覚めた時、その場所がどこであるのかすぐには把握出来ずに忙しなく視線を動かした。身体は動かせない。金縛りにでも遭ったようにピクリとも動かない。その内に目が白髪の男を発見した。

「おはよー、気分どお?」

『どお』と尋ねる割に返事を待つ様子は無く、悟は男を足蹴にして転がした。転がった後で男が元いた場所を見ると、どうやら巨大なスーツケースに無理な体勢で詰め込まれていたようだった。
さらに見回せば、どうやらここは男の自宅であった。

「ミズキのための部屋だからさ、安全面には最大限こだわったんだよ。一定以上の呪力を持った奴は結界で弾けるけど、非術師が難しいとこだよね。ミズキにはストレスフリーに歩いてもらいたいしさ」

悟は男の前にしゃがみ、わざとらしいほど首を傾けて笑顔で男を覗き込んだ。

「ま、環境整えたところで悪い芽はいつの間にか伸びてくるもんだろ?定期清掃は必須ってね」

悟が立ち上がって男に背を向け、屈んでスーツケースを畳んだ。ジジジ、とファスナーが滑る音。

「ねぇ、僕のミズキを覗き見して、楽しかった?楽しかったろ?花とお菓子と仔猫を一緒にしたみたいに可愛いもんな。虫はすぐ払いたかったけど、ミズキは怖がりだからさ。例えば近所で怪死事件があったりその犯人が捕まらないなんてことがあったら、怯えちゃうだろ?でも、会社も休みがちになった冴えない中年男が消息絶ったってニュースにもならねぇの。分かる?」

『分かる?』のところで悟は肩越しに半分振り向いて、ニコ、と愛想良く男に笑って見せた。

「それじゃそろそろ傑、おねがーい」

スーツケースから転がされた体勢のまま指の一本も動かせないでいた男は、悟の呼び掛けた先を見た。何故今の今まで気付かなかったのかというほど堂々と、長髪の男が壁に凭れて立っていた。かなりの長身、黒髪をハーフアップにして、耳にはゴツい拡張ピアス、狐のような切長の目。
夏油は壁から背中を浮かすとコツコツと男に歩み寄った。床から長身の2人を見上げるしかない男は、土足、と場違いなことを思った。

「全く人使いが荒いな」
「お前こないだミズキからチョコ貰っただろ。僕最低5年は根に持つからな」
「バレンタインって毎年あるんだけど…」

やれやれ、とでも言うように肩を竦め、夏油は禍々しい呪霊を呼び出した。床の上から血走った男の目がその異形の姿を捉えて動揺しているのを認め、夏油は「あぁ、死に際で見えるようになったんだね、可哀想に」とさらりと笑った。
金縛り状態で声すら上げられないまま、男は鋭い乱杭歯に囲われた巨大な口にばくりと飲み込まれた。「これもお食べ」と悟がスーツケースを放り投げると、芸をする海洋生物のように滑らかにこれも飲み込んで、異形の呪霊はしゅるんと行儀良く夏油の掌の上で黒い玉に戻った。

「お掃除完了、傑先生ありがとー」
「はいはい、これでチャラにしてくれよ」
「そういや傑ここ使う?この部屋僕が買うけど」
「要らないよこんな事故物件…それに奥さんがまだ住んでるじゃないか」
「その内引っ越すよ」
「あぁ…そう…まぁ何にせよ要らない」
「ふーんまぁいいや。今日はありがとね!僕これから帰ってミズキとソファでイチャラブセックスするんだぁ」
「それ私に言う必要ある?」
「傑今度遊びにおいでよ」
「この流れで誘うかな普通?ソファ座りにくいだろ」




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