きみはなんにもわかっていない

ミズキは地面に倒れて幼虫のように身体を丸めたまま、肺の全てで精一杯の呼吸を繰り返した。
彼女と組手をした3年生は余裕のある表情をしている。

「ミズキちゃん頑張ったね」
「…ぜんぜ、ん、だめです」

ミズキは一応全くの素人というわけではない。彼女の家に昔からいる用心棒に、体術の基礎は習ってきた。
それでも実際の任務に当たりながら訓練を積んだ上級生に勝てる筈もなく、30分も転がされ続ければ、もう指の1本も動かせないほど疲労困憊だった。

「あちこち痛いだろ?2年の家入が反転術式使えるから治してもらいに行こう」
「これくらい、いーです…それよりうごきたくないぃ…」

汗で額や頬に髪が張り付くし、全身砂埃まみれだ。シャワーを浴びたいところだけれどとてもそんな余力はない。このまま最低10分は寝転がってからでないと動ける気がしなかった。今日はこの後もう授業がないことが救いだ。
そもそも先輩がミズキの容姿のことや『あの』五条悟の婚約者らしいという噂から組手を尻込みしているのを捕まえて、本気で相手をしてほしいと頼み込んだのは彼女自身なのだから、後始末でまで先輩を煩わせることは避けたいというのが本音だった。
先輩がくったりと横になっているミズキをチラッと見てから口元をもごもごとさせ、彼女の傍にしゃがんだ。

「…それなら俺が背負って、」





夏油が「あ、あれミズキじゃない?」と言い終える前に、五条はその方向へ向かっていた。
任務から戻って校舎へ向かっていた最中のことだった。

遠く離れたグラウンドの砂の上にジャージの背中が古タイヤのように転がっていて、その傍には上級生の男がしゃがんでミズキの顔を覗き込んでいた。
少し離れた位置に立つ灰原が五条や夏油を発見して声を上げようとしたけれど、隣の七海が口を塞いだ。
「それなら俺が背負ってあげるよ」と先輩にみなまで言われる前に、五条はその手首をしっかり掴んだ。

「俺の、婚約者が、オセワになりましたぁ」

わざとらしく一音ずつキッパリ区切って発音しつつ、190p近い長身から見下ろして言葉とは裏腹な敵意を表情に込めれば、先輩は口元をひつくかせてミズキから離れた。
今度は五条がミズキを覗き込んだ。

「なに地ベタに寝っ転がってんの?ボロボロじゃんウケる」
「…放っといてください、HPがいまアレなんで」
「ハイハイ硝子治療院までな、舌噛むなよ」

言うが早いか五条はミズキの身体を米俵でも担ぐように肩に乗せて立ち上がり、スタスタと歩き始めた。
ミズキは交互に出る五条の制服の脚だとか後ろへ送られていく地面を見て、数秒遅れで事態を把握した。そして暴れた。

「ちょっ、歩けます!降ろして!」
「ボロの古タイヤが何言ってんだよ」
「そう古タイヤだから埃だらけの汗まみれなんですっ!ごじ…っ悟さん汚れますよ!?」
「いーから大人しくしてろ落とすぞ」
「あっ先輩ありがとうございましたっ!おーろーしーてー!」

引き攣り笑いの先輩に手を振ってからミズキが大きな背中をポカポカ叩いたけれど「あーもうちょい右」と流されたところへ、夏油がからからと笑いながら近寄った。

「ミズキ、頑張ってるね」
「夏油さんっ!この大きな人どうにかしてください!」
「悟、女の子の運び方としてちょっとどうかと思う」
「夏油さん聞いて!?」
「アー?そんじゃあ…」

五条の肩に乗っていた状態からぐるんとミズキの視界が動き、体勢が落ち着いたときには彼の顔が間近にあった。背中と膝裏を支える腕は一見細身ながらしっかり安定している。

「…一応言ってみるんですけど」
「なに」
「自分で歩きたい的なあれ」
「イケメンのお姫様抱っこだぞ、金払う女がわんさかいるわ」
「私マイノリティでいいです」
「それよりサングラス取ってくんねぇ?」
「話飛びますね」

色々と諦めた表情でミズキは五条の丸いサングラスに手を伸ばし、パッドやテンプルが顔に接触しないようにそっと抜き取った。
五条はその日初めて目にするミズキの姿を角膜に染み込ませるようにゆっくり瞬きをして、淡く笑った。

「お疲れさん」
「…任務帰りのひとに汗だくの埃まみれを運ばせるなんて」
「いーって。それより言うことあんだろ」

ミズキは手の中のサングラスを弄りながらしばし考えて、五条の青い目を見た。

「おはようございます、こんにちは、おかえりなさい、お疲れさまです、汗と埃ごめんなさい、あとは…」

彼女は頭の中で指折り数えるようにして今日一日分の挨拶を順番に並べ、最後ににっこりと笑った。

「ありがとう」

汗と砂埃で髪や顔が汚れていようとも、溜息の出るような美しい笑顔だった。
五条が瞬きを惜しむようにミズキを凝視している間に、彼女は手の中のサングラスを丁寧に折り畳んで五条の襟元に挿した。この階段を登り終えれば寮まですぐという位置、授業は全て終わっているから硝子は寮に戻っている時間だろう。

「悟さんはお父さんみたいね」

きらきらと輝く笑顔の発した言葉が3秒ほど理解出来なかったというのは五条にとって初めてのことだった。彼の背後で夏油が爆笑した。



「え、何どういう状況?」

笑い過ぎて息も絶え絶えの夏油から電話で談話室まで呼び出された硝子は眉間に皺を寄せて困惑した。
五条はソファにどっかりと腰を下ろしてテレビのチャンネルを無意味に回しつつ、全ての番組に舌打ちをして明らかに不機嫌。その傍に立つミズキはジャージ姿で汗と埃にまみれ、五条の不機嫌の理由が分からず硝子同様困惑している。
夏油から事情を耳打ちされると硝子も笑って、理解した。五条のアレは不機嫌というよりも、拗ねている。
硝子が近寄りながら呼ぶと、ミズキは振り返ってぱぁっと笑顔になった。汚れた服で座るのを遠慮して、五条の後ろで所在なさげに立っていたのだ。

「硝子さん、わざわざごめんなさい」
「いーよ、服の下に傷ある?」

「ねぇよ」と答えたのは五条だった。彼の目には布越しにも明らかなのだろう。

「上手に受け身取ったんだね、偉いよ」
「あ、ありがとう…ごさいます…」

僅かに頬を紅潮させて照れたように喜ぶミズキに、硝子の悪戯心が刺激された。彼女はチラッと五条の後頭部を見、彼がしっかりこちらを気にしているのを確認してからミズキの美しい頬に手を添えた。

「ほら、もっとよく見せて」
「は、はい…っ」
「大きな傷作っちゃだめだよ、いい子だから」

親指の腹で目元を撫でながら不必要なほど顔を寄せると、ミズキがさらに頬を赤くして狼狽えた。

「可愛いね、ミズキ」

硝子の唇が緩やかに弧を描くと、ミズキはいよいよ真っ赤になって両手で顔を隠し硝子から後ずさった。

「み、見ないでください…っ」
「どうして?」
「こんな汚れた格好で、恥ずかしい。硝子さんに見られたくない…」

硝子がからからと笑う頃には、それまで一応我慢していた五条が口を挟んだ。

「お前俺ん時はそんな格好気にしなかったじゃねーかよ!?」
「え、言ったじゃないですか『汚れますよ』って」
「ベクトルが違ぇんだよ阿呆!」
「何か理不尽に罵られてます?私」

硝子はまた笑ってミズキの肩に手を置いた。ちなみに会話の間に主だった打撲の治療は済んでいる。

「夕飯の前に風呂だね。着替えとか一式取っておいで」
「そうします。…あっすごい、痛くなくなってる!硝子さんありがとう」
「いーよ、じゃあ5分後に大浴場ね」

ひらひらと手を振る硝子に返事をして、ミズキはぱたぱたと女子棟へ入っていった。
硝子も同じ方向へゆったり歩き出しながら、ソファの上で顰めっ面の五条を振り返りニィッと意地悪く笑った。

「頑張れーオトウサン」
「テメ…ッ泣かす」
「ハイハイさーて私はこれからミズキと風呂だ」

五条の歯軋りを聞くのは初めてだった。硝子が女子棟へのドアを開けたところで、やけに神妙な調子で五条が呼び止めるので振り返ると、声と同じに五条は神妙な顔をしていた。

「なに、ミズキ待たしたくないんだけど」
「硝子…マジで手ぇ出すなよ」
「夏油この馬鹿殴っといて」




×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -