ピアノ・マン

※モブばっかり喋ります



最後の一音の余韻が消えると、ミズキは拍手をした。遠巻きにそれとなく聴いていたギャラリーは、ひとりまたひとりと去っていって、拍手をしたのはミズキひとりだった。

「とってもお上手ですね」
「音大生なんですよ。ピアノ専攻なんで一応」
「素敵」
「進路迷い中ですけどね」

青年はピアノに向かって、ミズキはピアノに背を向けて、何となくお互いの顔を見ないまま一脚の長椅子を分け合っていた。
「どうして」とミズキが尋ねると、青年はハハと笑った。

「ピアニストなんて、天才が10人ぐらいいれば音楽界は回るんですよ。で、その席はもう埋まってるし、僕は自分の天井も見えてきちゃってるし」
「…」
「ピアノ弾いてれば幸せってんじゃなくて、ピアノしか人より得意なものなかったから惰性で来たって感じで」
「…分かる気がします、気持ち」
「何かの縁だし話してくださいよ。何か悩んでる風だし、迷子同士」

「まいご」と言ってミズキは少し笑った。正にそんな気分だったから。

「…ついさっき、ものすごくド正面から人権を無視されたっていうか」
「僕よりヘヴィだ」
「ちょっとまだ受け止め切れてないです」
「…受け止める義理あるのかなぁそれ」
「交通事故に遭った感じで」
「災難でしたね」
「あと、うーん…お互いの自由のために、口裏合わせしてた…そういう相手がいるんですけど」
「はぁ」
「実はぜんぜん、相手の方は状況が変わらないっていうか、ただ私が守られてただけで、何の役にも立ってなかったっていうのが…さっき分かりました」
「何かすみません軽率に話せとか言って…あと進路の悩みとか小さいなぁ僕」

青年は右手を鍵盤に乗せて、気の抜けた様子でまたメロディを奏で始めた。ほろ酔いで川辺に並んだ仕切り石の上を歩くような調べだった。
「あなたは」と手を動かしながら青年が言った。

「その相手の人の役に立ちたかったんですね」

ミズキは視線を足元に落としたまま、首をコテンと傾けた。頭を支えるのが億劫になってしまったという仕草だった。

「そう…ですね」
「すみません僕、気の利いたこととか言えなくて」
「いえ…充分です」

青年は今度は左手も加えて、ウクレレで弾きそうな陽気でくつろいだ曲を始めた。

「あー生きるのしんどー、何か南の島とか行きたくないですか」

温かい風、木陰の居眠り、鮮やかな花や鳥、いいかもしれない。ミズキは笑った。

「いいですね、イルカと泳ぎたいなぁ」
「宝くじ当てよっかなー」
「じゃあ私油田掘り当てようかなぁ」

何気なく口にした与太話から、ミズキは五条の顔を思い出した。南の海みたいに青い目と、砂浜みたいに白い髪をした美しい人のことを。

「…役に立ちたかったんですよ、本当に」

強引で天邪鬼だけど優しいあのひとの役に立っているつもりで、実際は雨から庇われているだけだった。相手の背中が濡れていることに気付きもしないで。
南の島みたいな音楽が止まった。

「いるだけで充分てこともありますよ、多分」と青年が言った。

「そんな風に思ってくれる人がいるって、僕なら救われる」
「…そうですかね?」
「逆なら『役に立たないから要らない』って思います?」
「それは…ないですけど」
「でしょ」

少しの間自分の足と床のタイルを眺めてから、ミズキは「そうですね」と笑った。そうして初めて青年に顔を向けて、「ありがとう」と言って彼の目を見た。
青年の方はミズキの顔を見るなり目を丸くして口を半開きに固まってしまった。人の好さそうな垂れ目が、空想上の生き物でも見たように見開かれている。

ミズキが首を傾げて青年に声を掛けようと口を開きかかったところで、彼女の名前を呼ぶ大声が響いた。見ると五条が長いコンパスでみるみる距離を詰めてきているところだった。明らかに苛立った歩き方をしていて、ミズキは椅子から立ち上がった。

「悟さん」
「お前こんなとこで何してんの、誰コイツ」
「こら悟、失礼だろ」

小走りに追いついた夏油が嗜めても、五条は青年を威圧的に見下ろすのを止めなかった。

「この方はですね、えっと…偶然お見かけしたら右の肩がとっても『重そう』だったから、ちょっと肩を叩いて。そしたらお礼にピアノを弾いてくれました。音大生さんなんだそうですよ」
「すごいじゃないか、ひとりで出来たんだね」
「…どーせ雑魚だろ」
「そっそう!私でも対応出来そうな凝りだったので!」

続いてミズキは青年を振り返って、五条と夏油のことを「専門学校の先輩」と紹介した。一応嘘ではないけれど、マッサージの専門学校と聞かされていた青年は巨躯のふたりを見上げて『ぽくないな』と思った。
しかしそんなことよりミズキの容貌が彼には衝撃的すぎて、未だに処理しきれないでいた。さっきまで打ち解けて話していた相手がこんな美人なんて聞いてない、教えといてくれ、とミズキを見ながら混乱が収束しない。ただ、ついぞ見たことのないほどの美貌に目を奪われているとある時、五条の視線がいよいよ鋭くなってきたことに舌打ちの音で気付いた。
その舌打ちにはミズキも気付いて、五条の不機嫌の理由は分からないまでもとにかく彼の背中を押してその場から遠ざける判断をした。

「寮に帰りましょう、ね?お兄さんピアノありがとう!」
「おい押すな!」
「はいはい悟帰るよ、人を威嚇しない」

ばたばたと忙しなく歩き始めた3人の背中に青年が「あのっ」と声を掛けると、ミズキと五条が振り向いた。勿論五条の方は口を「ア゛?」の形にして。

「あの…元気!出ましたか」

ミズキはにっこりと綺麗に微笑んで、「とっても。ありがとう」と手を振った。
五条がまた舌打ちをしてミズキの手を引いて歩き始めたのを見て『もしかして口裏合わせってあの人かな』と勘繰った青年の読みは当たっている。
改札を通った後になってミズキは青年の名前さえ聞いていないことに気が付いたけれど、振り返っても青年はもういなかった。
その彼女の横顔を見る五条が歯噛みしているのを見ながら、夏油はひとつ溜息を吐いた。




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