02.秘密の約定


(よし)


 そうと決まれば、彼女の怪我を医者に診せないと。

 新しい傷も古い傷も山ほどあるのに、そのどれもが適切な処置をされず放置されているように見受けられる。
 特に爛れたり、腫れ上がったり、化膿している場所は、今からでもきちんとした手当てをした方がいいだろう。

 今更何をしたところで痕が残ってしまうかもしれないが、何もせず自然治癒に任せるよりよっぽど良いはずだ。……手遅れ、なんてことはないと信じたい。


(それに──) 


 見える場所だけでもこれだけの傷があるのだ。
 服の下にはもっと酷い怪我があるかもしれない。


「っ……」


 その可能性を考えただけで、おぞましさに身体が震えた。
 だが、勝手に打ちひしがれて立ち往生している暇はない。
 少女の信用に応えるためにも、今はとにかく動かなければ。

 独歩はこれからどう動くつもりか少女に説明し、次いで寂雷に連絡を取った。
 傷だらけの少女がいるが、ワケありで警察には行けない──そう伝えれば、寂雷は二つ返事で迎えに来てくれると言った。
 医者として、シンジュク・ディビジョンの治安維持を担う麻天狼として放っておけない。そう言ってもらえた時、もう大丈夫だと安心し、勇気が湧いてくるようだった。

 独歩ひとりではどうにもならないことも多い。
 けれど、先生がいてくれたら──独歩はどんな不可能だって実現できる気がするのだ。







「お待たせ、独歩くん」
「すみません、先生。よろしくお願いします」


 歌舞伎町から少し外れた静かな通りに、寂雷は車で現れた。
 遅い時間にも呼び出したにもかかわらず、文句のひとつもないどころか、待たせたとすまなそうにする寂雷は本当に聖人のようだ。どこぞのハゲ課長とは大違いである。


「──さ、二人とも乗って。私の病院に行こう。診察と入院のための部屋は用意してもらってあるから」


 少女の姿を見た途端、寂雷が顔を曇らせたのがわかった。
 連絡した折、彼女がどんな怪我をしているのか一応伝えてあったものの、想像以上に酷い有様だったということだろう。
 医者としての強い意志を感じさせる、力強い声音だった。


「はい。……今、ドア開けるから。ちょっと待っててね」


 歩くことさえままならない少女に代わり、後部座席のドアを開け、異常に細い身体を支えて車に乗せる。
 車に乗って移動することは先に話し、了承を取ってあるので大丈夫なはずだ。


「俺は隣に居ない方がいい、よね?」


 確認の問いかけに少女は頷いた。
 ……その顔がほんの少し気まずげに見えるのは、心を開いてもらえたからだと思ってもいいのだろうか。


「大丈夫、気にしないで」


 淡く微笑みかけ、独歩も助手席に乗り込んだ。





   *





 車内では独歩と寂雷の会話がポツポツと続いた。
 どういった状況で少女を見つけたのかや、路地で彼女から聞き取ったことが主な話題だ。

 後部座席の少女を気にかけながら、独歩が話して。
 まっすぐ視線は進路を捉えたまま、うん、うん、と静かな相槌を寂雷は重ねる。


「そういえば、歌舞伎町からあそこまではどうやって移動してきたんだい?」
「僕が彼女を支えて歩いて来ました。……もしかしたら通報されるかも、とも思ったんですが、つつがなく移動できて正直ほっとしてます」
「なるほど……」


 ──果たしてそんな上手いことは起こるのか? と寂雷が僅かに眉根を寄せた。

 いくら人気のない路地を抜けてきたと言っても、麻天狼のメンバーである独歩は注目を集めやすい存在だし、何より少女のあの惨状だ。
 ひとり、ふたりは奇妙な組み合わせに気付いて目を留め、話しかけてきてもおかしくない……否、むしろそれが当然だろう。

 なのに、この二人は誰の目に留まることもなく、寂雷と合流してみせたという。
 独歩の様子からして、嘘を吐いているわけではなさそうだが……。


「……」


 ちら、とバックミラー越しに窺った少女は瞼を閉じ、満身創痍の身体をシートに預けている。
 一見して休んでいるようにも思えるが、その実、まったく隙がないことに寂雷は気が付いていた。

 独歩や一二三とはまったく違う。
 彼女のこの隙のなさは、ヨコハマ・ディビジョンの左馬刻や理鶯、あるいは……。


(かつての私か)


 うら若い少女がなんとも物騒なものだ。
 一体、どんな問題を抱えているというのか。


(ずいぶん奇妙な出来事なのは間違いないでしょうね)


 ──穏やかに呼吸する少女の胸元で、シルバーのチェーンが街灯を反射した。







「信じられない」


 少女を蝕む怪我はその一言に尽きる。
 制服の下に隠れていた傷から、筆舌に尽くし難い……想像に絶する仕打ちを受けたことは明白だった。

 こんな怪我で東京まで歩くなんて不可能だ。
 きっと寂雷でなくとも同じことを考えただろう。なのに。


「……なんてことだ」


 いざ診察を始めてみてわかったのは、致命的と思しき怪我が絶妙に──完璧ではないにせよ、動くには支障のない程度に治っていたことだ。
 医師の手がなければ治療が難しいようなものさえ、自然治癒で治りつつある形跡が見られた。

 普通なら絶対に有り得ない。
 けれど、この少女はそれを体現している。


(興味深い事例ではありますね)


 思考する寂雷がカルテに記入する傍らでは、女性看護師が悲痛な面持ちで少女への処置を施していた。
 自身の娘とそう変わらない年頃の少女が痛めつけられた──そう思うと見知らぬ加害者が腹立たしく、憎らしくて。それと同時に、目の前の彼女の苦しみを思うと胸が締め付けられるようだった。


「もう大丈夫ですからね」


 声をかければ、少女はぎこちなく、かすかに笑って見せた。
 ぺこりと頭を下げたのは、声を出せないなりにお礼を言っているつもりなのかもしれない。なんとも可愛げのある子だ。


「あら? そのペンダント、指輪を提げているの?」


(……指輪?)


「とってもきれいな指輪ね。大切なものなのかしら? ……そう。本当、大切なものを失くさなくて良かったわね」


 看護師の言葉にこくこくと頷き、少女はギュッとチェーンに提げた指輪を握り締めた。
 チャリ、と金属のぶつかる音に導かれ、寂雷が顔を上げる。
 患者衣の胸元に揺れる指輪を見つけ、そして──彼の脳裏にひらめくものがひとつ。


「それは、もしかして」
「寂雷先生?」
「すみません、少し席を外してもらえますか。彼女と二人で話したいことがあるのです」
「私は構いませんが……貴女は大丈夫?」


 探るような視線を向けてくる少女に、トントン、と己の胸元を指し示した。
 指輪についての話だと言外に伝えたつもりだが……果たして上手く伝わったようだ。
 少女は看護師に控えめに笑いかけ、看護師は安心した様子で部屋を出て行く。


「単刀直入に訊きます。その指輪は、ここ数年、イタリアのマフィアを中心に広まっているものと同種の指輪ですね?」


 ──肯定。


「……まさかとは思いますが、君の怪我にはマフィアが関係しているのですか?」


 ──肯定。


「君はマフィアの関係者?」


 ──肯定。


「君自身がマフィアの構成員、ということ?」


 ──否定。


『この度は麻天狼のお二人にご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ございません。
 マフィアの件で伊弉冉さんも含め、麻天狼にご迷惑をかけることはないと約束いたしますので、どうかご容赦いただきたく存じます。
 今すぐは難しいですが、治療費は必ずお支払いします。』

『どこの誰とも知らないわたしを気にかけ、手当てしてくださったこと、本当に感謝しています。ありがとうございます』

『厚かましいお願いであることは重々承知しておりますが、どうか、ほんの少しだけ、動けるようになるまでで構いません。
 わたしを麻天狼の庇護下に置いていただけないでしょうか?
 どうか、どうかお願いします──』


「『私はまだ、死ぬわけにはいかないから』……ですか」


 問答の末、筆談用の紙にそう書いて、少女は地べたに額を擦りつけた。
 受け取った紙面の文字はところどころ滲んでおり、痩せ細った無防備な身体が床の上でぶるぶる震えている。


(……不思議ですね)


 今の彼女はどこからどう見ても、誰が見ても、泣いて縋って助けを求めているようにしか思えないのに。
 どういうわけか、寂雷の目には違って見えた。

 少女が震えているのは、恐怖などではなく、もっと別の──




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