6.落ちる影
震える身体に、笑う膝に力を入れて立ち上がる。
とうとうこらえきれず、ぽたぽたと涙がいくつか床に落ちた。
「っ……」
泣いている顔を誰にも見られたくなくて、とっさに俯く。
だけど、両隣のお二人には流石に隠し切れなかったみたい。
「ユウ?」
どこか戸惑ったような、状況を呑みこめていないような顔をした二人から視線を逸らす。
目元をそででごしごし拭って、無理矢理つくろった笑顔を赤司さんに向けた。
「わ、かり、ました。……わたし、ここ、でます」
「めいわく、かけて、すみませ……っ……」
しゃくりあげてしまいそうなのは、必死に我慢した。
喉がひきつって上手く声が出ないけど、それでも、私が虹村さんたちにくっついて、ここに来てしまったことを謝罪する。
ごめんなさい。
私なんかのせいで、嫌な思いをさせてしまってごめんなさい。
ちゃんと、大人しくここを出て行くから。
だからどうか、これ以上、何も言わないで。
「虹村、さん。灰崎さん、も。ありがとうございました。……え、と。それと、花宮さんも……ありがとうございました」
ここまでずっと一緒にいてくれて、私を庇ってくれた二人。
それから、赤司さんに物申してくれた花宮さん。
一人ひとりに頭を下げて、ちゃんとお礼を言って。
顔を上げきるより早く、人の輪に背を向けた。
鉛のように足は重く、引きずるようにして一歩を踏み出す。
……早く、早く、ここを出て行きたい。
だって、そうしないと、目の前が真っ暗になってしまいそうだから。
「白鐘!」
痛いくらいの力で腕を掴むのは、きっと虹村さんだ。
本当は、今すぐ縋りついてしまいたい。
ひとりは嫌だって、外は怖いって、みっともなく泣きついて喚いて。
『私と一緒にいて』って我侭を言いたかった。
けど、でも、私ね、わかってるんだ。
私みたいな異分子なんかにこだわったら、今度は虹村さんや灰崎さんの立場が危うくなる。
こんな状況で、あんな化物がいるとわかっていて、単独行動するなんて自殺行為だ。
だから、だから……優しい二人には、ちゃんと生きててほしい。
――そして、そう思うなら、私はこの手を引き剥がさなくちゃいけないことも、わかってる。
「だめ、です。虹村さんは、灰崎さんも、みなさんと一緒のほうがいいです。ぜったい」
ついてくるな、とは、口が裂けても言えないから。
遠回しに伝えて、一瞬の隙に虹村さんの手をふりほどく。
沈黙を抜け、体育館を出ると、まっさきに視界に飛び込んできたのは血だまりだった。
さきほど私たちを追いかけてきた【バケモノ】のものだろう。
足元にはひしゃげた肉塊が飛び散り、むわりと生ぬるい空気が全身を撫でる。
血だまりに足をつけると、ぴちゃ、と粘性のある水音が耳に届いた。
「…………っひ、あ、――――ッ」
一歩、また一歩と進むごとに身体の震えは大きくなる。
涙腺は壊れ、滂沱が頬を濡らしてぐしゃぐしゃにしていった。
怖くて、不安で、悲しくて。
憎くて、辛くて、恨めしくて。
感情の嵐が吹きすさび、頭も心もぐちゃぐちゃだ。
……それでも、思考を止めることだけはできないから。
そんなことをしたら、【バケモノ】や【テケテケ】の餌食になるだけだって、理解できているから。
自分が一体どこに逃げるべきか、どうするべきか、死に物狂いで頭を働かせる。
「……【バケモノ】に襲われるくらい、なら……灰崎さんの方が、よっぽどましだよ……」
どっちも洒落にならないけど、少なくとも、灰崎さんなら命の危険はなさそうだし。
いささかばかり洒落にならない冗談を言うくらいの方が、今はちょうどいい気がした。
□■□■□
「……そう、いえば……」
この学校には、【テケテケ】がいて、【バケモノ】もいる。
なら、もしかすると、ほかにも何か――学校の怪談にまつわるモノとか、いるのかな。
そう考えた時、ぞく、と背筋が震えた。
もし本当にいるのなら、女子トイレや家庭科室に隠れるのはとても危ない。
【トイレの花子さん】はどういう性質なのかわからないし、【ポルターガイスト】で刃物が飛んで来ようものなら簡単に死にかねない。
思ったより冷静な頭に安堵しつつ、再度思考を巡らせる。
【テケテケ】がいる二階に行けない今、逃げ込むことができる安全そうな場所はどこだろう?
「……校内の見取り図、探そう」
適当に校内をふらふらするより、見取り図を見て考えた方がよさそうだ。
たぶん、見取り図は玄関に行けば見つかるだろうから……一番最初の目的地は玄関か。
息をひそめ、抜き足差し足――とまではいかずとも、なるべく足音を立てないように気を付けつつ玄関を探す。
運よく玄関は渡り廊下から校舎に戻ってすぐだったので、あっさり辿り着くことができた。
なんだか嵐の前の静けさみたいで嫌だな、という気持ちは急いで振り払う。
見取り図を見る限り、校舎はコの字をしているらしい。
一階にあるのは職員室、校長室、保健室、用務員室、家庭科室、トイレ、図工室、放送室、それから図書館。
……正直どの教室も微妙だ。怪談がなくても、入れるかどうかわからない場所ばかりだし。
だからと言って、二階に上がるのも怖いしなぁ……。
――ぴちょん
目の前で何かが落ちた。
足元を見ると、点々と赤色が広がっている。
いつの間にか頭上からは低い息遣いが聞こえた。
恐る恐る見上げると、二度と見たくなかった醜悪な【バケモノ】が天井に張り付いている。
「っ、きゃあああああああああ!」
――ああもう、『赤』が嫌いになりそうだ。
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