無駄な抵抗

 パチッと目を開けると、目の前に翔さんの綺麗な寝顔があった。どんな夢を見ているのか、とても嬉しそうな顔だ。それにしても本当に綺麗だな。睫毛は長いし、肌もツヤツヤ。何だか自分が醜く思えて落ち込む。
 私は絡みついていた長い腕をそっと外して、翔さんを起こさないようにベッドを出た。服はところどころに散らばっていた。滝沢の部屋の、几帳面に畳まれた服を思い出す。滝沢なら、もしあんな時でも服を畳んだりするのだろうか。想像するとちょっと笑ってしまった。
 服を着て洗面所を借りた。そういえば、この部屋には翔さん以外の痕跡がない。女の人の歯ブラシとか、化粧落としとか。この部屋には女の人を連れ込んだりしないのだろうか。……私には関係ないか。
 顔を洗って髪を整えて翔さんの部屋を出た。朝日が眩しくて、早くも今日一日を過ごすためのやる気を折られた気分だった。

「おはよー、すず」
「おはよう」

 大学に行くと、既に香穂がいて隣に座った。香穂はニヤニヤしながら私の腕を突く。

「昨日翔さんと何かあったのー?」
「何か……」

 あった。とてつもない大事件があった。今でも簡単に思い出せる。翔さんの冷たい指先とか、温かい唇とか、火傷するんじゃないかと思うほど熱い舌とか、全てを呑み込むような甘い瞳とか、声とか。全部思い出せるし、感覚も残っているのに、全てが夢の中のことのように思える。それはきっと、私と翔さんが違うから。私にとって大事件でも、きっと翔さんにとっては違う。

「……なにも、ないよ」
「え?」
「眠れなくて帰っちゃったの。何も言わずに帰ってごめんね」

 そう、昨日は何もなかったのだ。 香穂はそれ以上何も聞いてこなかった。香穂は本当に空気を読めるいい子だ。
 でも、昨日のことを知っているのは香穂だけじゃない。空気を読めない、いやあえて読もうとしない男がもう一人いる。きっと根掘り葉掘り聞かれるんだろうな。どう誤魔化そう……。そう思っていたら、ちょうど滝沢が入ってきた。頭の中で何個も質問と答えのパターンを考えて、何度も練習する。

「タッキーおはよー」
「おー」
「お、おはよ」
「おー」

 ……あ、あれ?滝沢は私たちの横をすり抜けて行ってしまった。何も、聞かれなかった……?
 それからも滝沢は何も聞いてこなかった。変なの……。何か気持ち悪い。でも気になるからと言って私から話を振るのも変だと思ったので、気まずいままバイトの時間になった。
 今日は本当にバイトに行きたくなかったんだけど、今日行かなかったら翔さんを避けているような気がして憂鬱ながらも行った。Cafe fleurには既に滝沢とメグさんがいて、メグさんはニヤニヤして私を見ていたから更によく分からなかった。その話題に触れようとしないのは滝沢だけだった。
 翔さんは買い出しに行っていたようで、私が着替え終わった頃に帰ってきた。

「あ、おはようございます」
「おはよう、すずちゃん」

 翔さんの甘い微笑みから、私は思わず目を逸らした。逃げようとしていることに気付かれたくなかったのだ。
 バイトの後、賄いを食べて私は先に席を立った。

「あれ、どした。何か用事?」

 悠介さんが不思議に思ったらしい、私にそう問いかける。みんなの視線が私に突き刺さった。

「えっと……、あの、本屋さんに行きたくて」

 これは本当だ。欲しい本がある。……まぁ、こんな夜中でなく、明日でもいいのだけれど。

「……夜中に一人で歩くのは危ないよ」

 翔さんが、そう言った。いつも通り、微笑みながら。ただ少し声が低い気がした。

「えっ、あの、」
「俺も一緒に行くからちょっと待ってて」
「え、でも」
「俺も本屋さん行きたいし」

 逃げ道を絶たれたような気分だった。
 そしていつも通りの帰り道。

「ん」

 翔さんが手を差し出す。私は迷いながらもその手に手を重ねた。そして気付かれないようにため息を吐いた。でもよく考えたら、あんなことになって変に避けられたりすると翔さんは面倒に思うだろう。今まで通り、今まで通り。そう自分に言い聞かせるほどにドツボにハマっていく気がする。
 私は翔さんにとって、どういう存在なんだろう。ハッキリと振られて、けじめをつけたほうが今まで通りに接することができる気がする。中途半端が一番ダメだよね。私はそう思い、深呼吸して口を開いた。

「あの、かけ」
「昨日のこと、なかったことにするつもり?」

 私の言葉を遮って、翔さんが振り向いてそう言った。低い声と鋭い視線に、息を呑む。

「もしそんなこと言うならこのまま攫う」
「っ、え、と」
「なかったことになんか、しないで。俺の気持ちも、セックスしたのも。なかったことにしないで。俺から、逃げないで」

 どこか縋るような目に、私は信じられない気持ちで目を見開いた。翔さんの、私の手を握る手の力が強くなる。息を呑んだ音が響いた気がした。

「……すずちゃんは、いつもそうだ。俺がキスしても、好きって言っても、何も言ってくれない。フワフワしてて、やっと掴めたと思ったら簡単に逃げ出す」
「え、えっと、」
「昨日、俺がどんな気持ちですずちゃんを抱いたと思う?どこにも行かないで、俺のものになって、お願いだからこのままずっと俺の腕の中にいて。そう思ってたのに、朝起きたらいなくて。頭が真っ白になった」

 翔さんの口から溢れ出す言葉は、全く予想外のもので。固まる私に、翔さんは深い深いため息を吐いた。

「好きなんだよ。お願いだから、逃げないで。ちゃんと俺を見てよ」

 懇願するような声に、私の目から涙が零れた。

「う、嘘だ」
「……まだそんなこと言うの?」
「だって、だってメグさんが言ってた。翔さんは頼まれたら好きって言うしキスもするって。私は絶対に特別にはなれないって」

 翔さんは拗ねたように口を尖らせる。珍しいな。翔さんは仕事中の真剣な顔とニコニコした顔以外あまり見せてくれないから。

「俺、今まで一度もすずちゃんにそんなこと頼まれてないよ」
「……!」
「確かに女の子に頼まれたら、そんなこともしてた。でもすずちゃんを好きになってから、絶対にすずちゃんにしかしてない。自分からしたのも、すずちゃんが初めてなのに」

 信じたいって思う気持ちと、信じるのが怖い気持ちが心の中でせめぎ合う。私は、どうすればいい?

「すずちゃん」
「っ、」
「お願い、俺のものになって」

 そう言って抱き締められて。この人に懇願されて。私はこれ以上抗えない。そう思った。必死で翔さんの背中に手を回した。

「好き、です」

 ああ、声に出しちゃった。もう戻れない。

「大好き、です」

 抑えきれない言葉と涙が溢れる。うん、うん、と。何度も頷く翔さんの腕の中で、私はこのままどうなってもいいとさえ思った。

PrevBackNext
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -