一番大事なもの
『陣痛始まったから病院行ってきます』
そんなメッセージがヨリから来ていたことに気付いた時には、もうそれから2時間が経過していた。今日は朝からクソ上司の尻拭いで時間を取られ、クソ怠い会議にまた無駄に時間を取られ、昼休憩を取る暇もなかった。携帯を見たのはようやくトイレで一息吐いた時だった。
「はあ?!」
別に便意を催したわけではなかったが一人になりたくて入った個室。そのメッセージを見た瞬間立ち上がった。
いやいやいやそんな大事なことメッセージだけで済ますか?普通電話しねえ?
俺はたとえ大事な会議の途中でもヨリから電話がかかってきたら出ることはできなくても仕事の邪魔だとかそんな風に思うことはない。絶対に。だから何か用事があるなら遠慮なく電話をしてほしいことは常日頃から伝えてある。ヨリから実際に電話がかかってきたことはないが。
陣痛が来た、なんてどんな会議より大事だ。クソ上司の説教は元々大事じゃないから比べものにはならない。
俺は部署に戻るとPCに向かっていた三崎に言った。
「陣痛始まったらしい。帰る」
「分かりました。お気を付けて」
急いでいる俺に無駄な時間を取らせない無駄のない返事。さすが三崎、と感心していると鬱陶しい声に呼び止められた。
「立花」
「……はい」
「今日ミーティングあったろ。俺はこの後社長と……」
「妻の陣痛が始まったので失礼します。三崎、後はよろしく」
「はい」
「はあ?仕事と嫁どっちが大事なんだよ」
「嫁と子どもに決まってるでしょ。じゃ」
クソパワハラ上司がまだ何か喚いているのが聞こえたが無視して部署を出た。仕事は大事。でもそれ以上に、ヨリが大事。きっとフォローしてくれているだろう三崎に申し訳なく思いながら、走って会社を出た。
「ヨリ!!!」
「わ、びっくりした」
病院に着くとヨリはご飯を食べていた。……え?ご飯?
「じ、陣痛は?」
「あー、ちょっと引いちゃってね。でも先に破水しちゃったからもう産まないといけないんだって」
「そうなんだ……」
一応俺だって色々勉強した。ヨリが不安になっても支えられるように、ヨリに寄り添えるように。陣痛の前に破水が起こることもあるとは知っていた。そして破水があるとできるだけ早く産まなければいけないことも。
「昼過ぎから点滴だって」
「そう……」
急いで来たのに少し拍子抜けした。いやまあ、今から産むんだから拍子抜けしてる場合じゃないんだけど。
「あら、日向くん」
「あ、こんにちは」
飲み物を買いに行っていたらしいお義母さんが部屋に入ってきた。ヨリはとてもリラックスしているように見える。俺の方が緊張している。
「ヨリは強いね……」
「ん?」
結婚して、一緒に住むようになって、ヨリの体の変化は全部見てきた。苦しそうだったつわり、体重の変化も、そしてどんどん大きくなるお腹も。望んでいたことだった。ヨリと家族になって、ヨリとの子どもができて。でも日に日に変わっていくヨリにどこか不安を感じていたのも確かだった。ヨリはどんどん「お母さん」になっていくのに、俺は置いていかれる。
「俺はちゃんと父親になれんのかな……」
何弱音吐いてんだろ、俺。これから頑張るのはヨリと子どもなのに。
「何言ってんの。めっちゃくちゃ私のこと大事にしてくれてんじゃん」
ヨリはいつもそうだ。俺がウジウジ悩んでても簡単に笑い飛ばしてくれる。そう、簡単に。
「……うん」
大事にする。ヨリも、子どもも。絶対に。ようやく腹が決まった瞬間だった。
***
「うわあ、可愛いいぃぃ」
「でしょでしょ」
ヨリが退院して一週間。翔とすずちゃんがお祝いに来てくれた。あんなにウジウジ悩んでいた自分が恥ずかしくなるくらい、子どもは可愛いしヨリも可愛い。
赤ちゃんを抱っこするヨリはまるで聖母のようだ。完璧。完璧すぎる俺の嫁。
「日向、顔キモイよ」
翔にめちゃくちゃ笑われた。大好きな嫁に見惚れて何が悪い。
「俺、ヨリと子どもだけは絶対に守るからね」
「あざーっす」
「軽いわ」
俺の命を賭けたと言っても過言ではない宣言をヨリは軽く受け取った。酷いよねほんと。でも知ってる。最近ヨリが、子どもを寝かしつけた後絶対に俺と手を繋いで眠りたがること。ヨリも俺を頼りにしてくれてるんだって、そう思っていいよね?
「それにしてもほんとに可愛いねぇ」
大切な妻と、親友夫婦と。子どもの寝顔をただ見つめるだけの時間が、何よりも大事な時間だった。