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政略結婚2(跡部、続き)

政略結婚の続きとなっております。先にそちらをご覧ください。




半年前のことだ。




森のような広大な敷地。屋敷全体で統一された英国調の家具。飛び交う外国語。名前を覚えきれないほどたくさんいる使用人。伝統、富、栄光、矜持、実力。
社長令嬢である私から見ても跡部邸は圧巻だった。
引っ越してきた当初はこの壮麗さにただただ戸惑い、馴染もうと必死になった。屋敷の地図を覚え、使用人の名前や役割を覚え、跡部家のルールを覚えた。そうやって過ごしているうちに、肝心の婚約者・跡部景吾の話は自然と耳に入ってきた。

──ええ、この蔵書はみな景吾お坊ちゃまが集められたものです。景吾お坊ちゃまは語学に長けていらして、英語やドイツ語、ギリシャ語などに精通していらっしゃいます。
──こちらにはテニスコートがございます。景吾お坊ちゃまは様々な趣味をお持ちです。乗馬、ハングライダー、ダイビング、アーチェリー、クレー射撃……しかし殊更お好きなのはテニスで、ヨーロッパのジュニア大会で優勝なさったこともございます。
──お気づきでしたか。使用人はみな景吾お坊ちゃまを敬愛しております。自信と誇りに溢れ困難な状況にも怯まず立ち向かうお坊ちゃまの姿に勇気づけられます。

使用人のお世辞を差し引いても、跡部景吾はずいぶんと優れた青年であるらしかった。考えてみればあの娘に大甘な父が結婚相手に選んだ男だ。ただの美形御曹司であれば私と結婚させようとはしなかったはずだ。
跡部景吾、か。どんな人なのだろう。
興味を持った私は跡部について積極的に尋ねるようになった。

「申し訳ございません、本日も景吾お坊ちゃまは忙しくて予定が合わないとのことで」
「あら、残念。気長にお待ちしておりますって、後でお伝えくださいな」
申し訳なさそうに頭を下げる桜さんに笑いかけて、私は与えられた部屋の窓を見た。梅雨。五月雨がぱたぱたとガラスを叩き、庭の新緑がモザイクのように揺らいで見えた。

「もうそろそろ株主総会の季節でしょう?私の父はこの時期には総会の準備で忙しそうにしていたけれど、景吾さんもそうなのかしら」
「おそらくは仰るとおりかと思います。優様、景吾お坊ちゃまがこの春に自然エネルギーを扱う事業を始めたことはご存じですか?」
「知らなかった!それじゃあ、なおさら忙しいじゃない」
「ええ、景吾お坊ちゃまは今までの仕事のみならずその事業の報告も総会でしなければならないのではないかと存じます」
「そんな、酷いタイミングで結婚が決められてしまったものね。もうちょっと遅くしてくれたら景吾さんにとっても良かったでしょうに」
「正直、私もなぜこのタイミングなのか不思議に思ってはおります」

桜さんは歯切れが悪くなった。
私は写真で見た跡部景吾の姿を思い浮かべた。調べれば調べるほど、跡部という男の優秀さがよく分かる。彼がもともと恵まれているのは事実だ。だがそれだけではない。同じく恵まれている私にはよく分かる。親の力だけで子供が行ける場所などたかがしれているのだ。
一族の長子として背負う義務に潰されない強さ。親の七光りにもかすまないほどの輝き。時代の流れを読む先見性。リーダーとして事業の方針を打ち出す決断力。そうして働く動機も意識も違う社員を引きつけ、まとめあげることがどれほど難しいことか。「御曹司」という立場だけでは、会社を作ることはできても大きくすることはできない。
だからこそ、胸を張って跡部と会えるように自分を磨くことにした。


***


パン、と乾いた音がして平手打ちがきまった。右のてのひらがじんじんと痺れて、その痛みで余計に怒りが強くなる。跡部は顔をゆがめると私の右手首を強く掴んだ。

「何すんのよ痛いじゃないばかべ!あほべ!!」
「アーン!?手を出したのはてめえだろうが!!」

左手首まで跡部に掴まれる。私は子供のように暴れた。
ここへ引っ越してきて一ヶ月が過ぎたころ、不安が生まれた。二ヶ月が過ぎたころに不安が不信感に変わり始めた。三ヶ月が過ぎたころ、どうすればいいのか分からなくて夜眠れなくなった。勉強や運動に没頭することで跡部のことを少しでも忘れようとして四ヶ月、五ヶ月が過ぎた。そして半年経ってようやく、跡部のことを諦められたのに。
自分がめちゃくちゃなことを叫んでいるというのは分かっていたけれど口が止められない。

「殴られるようなことをしたあんたが悪いんでしょ!」
「……おい」
「何なのよ半年も音沙汰なかったのに今さら会いたかったなんて!一瞬でも会ってくれなかったくせにー!!」
「おい」
「どうせ忙しさにかこつけて私と会う気なんてなかったんでしょ!会ったら私に惚れられちゃってストーカーでもされて面倒なことになると思った!?」
「おい!ちょっと黙」
「黙るのはそっちでしょー!なーに今更わざわざ会いに来ちゃって!父になんか言われた?跡部会長に文句言われた?政略結婚だもんね、好きでもない相手に会ったら彼女さんに悪いとでも思ったんだよね、そんなことくらいわかってますー!」
「桜!手伝え!」

跡部が何か言っていたが、私は気にせず文句を言い続けた。心情を吐露しているうちに悲しみが再びこみ上げてきて、私はぼろぼろと涙を流した。声が震えて小さくなる。しゃくりあげて、うまく言葉にならなくて、でも言いたかった。

初めは結婚する気になれなかった。でも使用人ごしに跡部景吾という男に触れた。興味がわいた。栄光の奥にどんな思いがあるのだろうかと、栄光の裏にどんな努力があるのだろうかと知りたくなった。似た境遇の者同士、理解しあえる気がしていた。たとえ結婚しなかったとしても友人になりたかった。「私たちのお父さんが暴走して困ったね」と笑いあえる気がしていた。放っておかれた自分がみじめで悲しかった。跡部家からこの家に引っ越しを勧められたのだから、跡部景吾にそこまで嫌われているとは思ってもいなかった。長い時間待っていた。悩んだ。私があまりにも物足りない女だからいけないのかと。挨拶するだけでも嫌なのかと。
私は跡部に訴え続けた。唇が震える。頬が熱い。閉じた目からは次々と涙が溢れて止めることができなかった。

「だから、だから……ずっと、会いたいって、そう、思ってたのに、なのに」

言葉がとぎれとぎれのままそう言ったとき、私はぐるっと自分の体が回るのを感じた。

驚いて目を開き、息をのむ。
最後にこぼれる涙。
背中に堅い感触。
目の前に熱。
小さな音。
跡部の顔がゆっくりと離れていく。

目の前の跡部がこちらをじっと見下ろしているのを見てようやく、私は自分が跡部にキスされたのだと認識した。

喫驚のあまり体が勝手にうごいた。頭にごつんという堅い衝撃。跡部の手が緩んだところを思いっきりふりほどいて、私はピアノ室から飛び出した。


***


「何すんのよ痛いじゃないばかべ!あほべ!!」
「アーン!?手を出したのはてめえだろうが!!」

なんで俺様が殴られなくちゃならねえんだ。人を殴っておいて勝手なこと言ってんじゃねえ。苛つき、これ以上殴られないように夏目の両手を拘束する。だが夏目の抵抗を封じ込めたところで考え直した。
俺とこいつが会えなかったのは斎藤が嘘をついていたからだ。だがその事実をこいつはまだ知らない。だからこいつが俺に腹を立てるのは当然のことだった。それに、斎藤は跡部家で雇った使用人だ。この事件の責任は跡部家にある。こいつには俺に文句を言う権利がある。
俺は夏目に事の経緯を説明し、謝罪しようとした。

「殴られるようなことをしたあんたが悪いんでしょ!」
「……おい」
「何なのよ半年も音沙汰なかったのに今さら会いたかったなんて!一瞬でも会ってくれなかったくせにー!!」
「おい」
「どうせ忙しさにかこつけて私と会う気なんてなかったんでしょ!会ったら私に惚れられちゃってストーカーでもされて面倒なことになると思った!?」
「おい!ちょっと黙」
「黙るのはそっちでしょー!なーに今更わざわざ会いに来ちゃって!父になんか言われた?跡部会長に文句言われた?政略結婚だもんね、好きでもない相手に会ったら彼女さんに悪いとでも思ったんだよね、そんなことくらいわかってますー!」

ちっとも聞きやしねえ!
樺地、といつものように呼ぼうにも樺地は斎藤を連れて行ってしまった。俺は部屋の入り口で桜がひかえていることに気がついて、大きく呼びかけた。専属メイドの桜がいれば夏目も少しは落ち着くだろう。

「桜!手伝え!」
「失礼いたします」

桜は少し微笑んで頭を下げると、ピアノ室へ入って……来ずに、お邪魔はできませんと言い放ってどこかへ行ってしまった。俺は焦った。あのメイド、どういうつもりだ!?
そうこうしている間に目の前の夏目はしおれていった。目をつりあげて大声で怒っていた勢いはどこへ行ったのやら、目を真っ赤にして泣き、声は消えそうなほどになり、唇のみならず体全体が悲しみに震えている。それでもなお夏目は俺様に自分の思いを訴え続ける。

その告白を聞いているうちに、俺は奇妙ないとおしさがわいてくるのに気がついた。夏目は能力が高く向上心があるだけではない。一途で、いたいけで。ただのお嬢様ならここまでできるだろうか。夏目はたった一人で跡部の家に入り、毎日そっけなく俺との面会を断られて、しかし腐らずに与えられた環境で努力を続けた。樺地によれば夏目はいつも明るく振る舞っていたという。なんてのん気で気ままなのかと思っていたが、本当はこの屋敷での生活を楽しんでいたからではなく不安や悲しさを押し殺しての笑顔だったのだ。現状を父親に訴えてこの政略結婚をすぐに破談にすることもできたはずだ。だがこいつは二つの会社を思い、俺を思って、そうはしなかった。

「だから、だから……ずっと、会いたいって、そう、思ってたのに、なのに」

泣きながらそう言った夏目を見たとき、自然と体が動いた。
気が付けば夏目を壁に押しつけて、その震える唇に自分の唇を押し当てていた。涙で少し濡れた、あたたかくて柔らかい感触。
ゆっくりと顔を離すと、夏目は目を見開いて俺を見上げた。よほど驚いたのか、涙が止まっている。

次の瞬間、あごに強烈な痛みが走った。夏目が暴れて思わず手を離してしまう。
夏目が部屋から飛び出していくのを耳で聞きながら、俺はしゃがみこんだ。夏目の頭突きを喰らったらしい。あごの先がじんじんと痛む。

「痛え。ぐ、石頭、が」

文句を言っているはずなのに、その自分の口調はあまりにもふぬけていた。しゃがみこんだまま壁に背を預けて、俺はため息をついた。
たまらなくなってキスしてしまった。我ながら一体どういうつもりなのか。いい雰囲気になった好きな女とキスしたことはあっても、友人未満の相手にキスしたことはない。無理矢理口づけたこともない。婚約者なのだからキスしたところで社会的にはおかしくはないのだが、しかし。会いたかったと言う夏目だが俺様をどう思っているかは分からない。そもそも俺様はなぜそんなことを気にしているのか。
俺はあごをさすって立ち上がった。まずは逃げた本人を探さねばならない。


***


夏目は自室にはいなかった。書庫にもいない。あてもなく屋敷を探し回っていた俺は、立ち止まって廊下の窓から庭を見下ろした。窓ガラスにはあごに湿布を貼った間抜けな自分の姿が映っている。日はすっかり暮れており、外は真っ暗で微かに灯るガーデンライト以外は何も見えない。嫌な想像が頭に浮かぶ。
夏目は庭で迷っているのではないか。この屋敷の庭は俺でも迷いそうなほど広い。それとも誰にも気づかれぬうちに庭の池に落ちたということはないか。これだけ暗いのだ、足を踏み外してもおかしくはない。それとも。
いてもたってもいられなくなって、庭に出ようと歩き出したところで「景吾お坊ちゃま」と声を掛けられた。桜だった。

「優様をお探しでいらっしゃいますか」
「ああ。知っているのか?」
「はい、先ほどお見かけしました。その、景吾お坊ちゃま」

言葉を濁した桜は、ゴホンと咳払いをするとすました顔でとんでもないことを言った。俺は目を剥いた。

「優様が『けーごさんに手込めにされた!もうお嫁に行けないー!!』と嘆いていらっしゃったのですが、一体どういう」
「アーン、手込め!?まだしてねえ!」
「まだ、ですか」
「うるせえ!とにかくどこだ」
「私の部屋にいらっしゃいます」

桜は含み笑いをしながら、ご案内します、と頭を下げてきびすを返した。俺はときどき可笑しそうに震える桜の背中に舌打ちし、同時に夏目が無事であることに安堵した。晩秋の夜は寒い。外に出られて万が一のことがあっては困る。
使用人のプライベートルームは跡部邸の地下の一角にあった。階段を下り音響室やワインセラーを抜ける。使用人部屋へ近づくにつれ廊下は飾り気がなくシンプルになってきている。廊下の左右には番号がついた扉が並んでいる。他と比べてずいぶん簡素な屋敷の造りを目にしながら、俺は疑問を口にした。

「夏目はなぜそんなところにいる?客人がいくところじゃねえだろうが」
「安心するのだと思います。優様が引っ越していらした時に使用人部屋も案内したのですが、たいそう驚いていらっしゃいました」
「アーン?」
「『跡部家はうちより遙かに絢爛豪華だけれど、使用人部屋は似たような感じなのね。まるでうちにいるみたい』と仰っていたのです。それから、たまに私の部屋に来ていいか、とも」
「そうか。それで、普段から夏目はお前の部屋に来ていたと」
「ええ、たまに。こちらにいらっしゃるときの優様はたいてい元気がなく、もしかしたら使用人部屋にくることでご実家にいるような安心感を得ていたのではないかと思うのです。すべて推測ですが」

俺はまた舌打ちをした。心が痛む。斎藤の事件で俺が受けた被害は苛立ちとピアノ室ドアと頬の痛み程度のものだ。しかし夏目にとってはそれだけではない。
桜は『021』と金文字でナンバーの入った深緑の扉の前で立ち止まった。コンコンとノックをして「優様?入ってよろしいですか」と声をかける。中から返事はない。桜は困ったように俺の方を見ると、静かに扉を開けた。
中は10畳ほどの小部屋になっていた。飾り気のないテーブルや椅子、タンス、ベッドが配置されている。半開きのクローゼットからはハンガーに掛けられた服類と丸まった毛布が見える。ベッドはシーツが乱れ布団も曲がっている。生活感あふれた庶民的な部屋だった。俺は周囲に目を走らせたが夏目の姿はどこにもなかった。

「いねえな。移動したか?」
「いえ、いらっしゃいます。そこに」

桜が指さしたのはクローゼットだった。俺は眉をひそめた。

「いねえじゃねえか」
「いらっしゃいます。毛布の中です」

丸まった毛布は微かに上下している。どうやらベッドから剥いだ毛布にくるまってクローゼットに飛び込んだらしい。だからベッドが乱れていたのかと内心呆れながら俺は毛布に声をかけた。

「おい、夏目」

反応はない。奇妙に思ったのか桜が毛布に近づいた。桜は俺に目配せをするとそっと毛布を揺する。しかしやはり反応はない。桜がそっと毛布の端をめくると、黒っぽい優の後頭部が見えた。桜に手招きされてそちらへいくと小さな寝息が聞こえてきた。

「寝ていらっしゃるようです」
「みてえだな」
「どうしましょう」
「俺が連れていく」

俺は暖かな毛布の両脇に腕を入れてクローゼットの中から夏目をひっぱり出した。夏目を抱え上げると、桜は毛布を拾いながらクスクスと笑った。

「優様、心配なさることなどございませんのに」
「何のことだ」
「お嫁に行けない、って。景吾お坊ちゃまに嫁げば良いではありませんか」
「……チッ。迷惑かけたな、桜」
「いいえ、とんでもございません」

このメイド、楽しんでいやがる。俺は舌打ちをしたが桜は気にも止めずに毛布を畳みながらにこにこと笑っていた。
俺は夏目を抱え直して部屋から出た。廊下の明かりに照らされた夏目の顔は穏やかで、泣き疲れたのか目覚める気がかけらもないような様子で眠っていた。


***


目を覚ますとそこは真っ暗だった。布団があごまでかかっている。いつの間にかベッドで寝ていたらしい。私は目をつぶって、深呼吸をした。
キス、された。
跡部があんなに軽いタイプだとは思わなかった。メイドたちからは女性にすぐに手を出す人ではないと聞いていたのに。どういうつもりなのだろう。私がうるさかったから?罪悪感をごまかすため?キスしたら私が跡部に惚れるとでも思った?それとも、それとも。

私は寝返りを打った。そんなことは考えても仕方がない。跡部の気持ちなんてさっぱり分からないのだから。むしろ問題なのは毛布にくるまってクローゼットに潜り込んでいたときに桜さんが言っていたことだ。パニックになっていたから当時は何にも考えられなかった。しかし確か、桜さんは私に謝罪して、この結婚を邪魔する企みがあったのだと言った。夏目家を押しのけて跡部の会社に取り入りたい者が、結婚を邪魔して自分の娘と跡部を結婚させたかったのではないかと。その手先の一人が斎藤で、斎藤は私と跡部が会わないように嘘を付いていたのだ、と。
信じられなかった。でも、確かピアノ室のドアを蹴破って入ってきた跡部は斎藤さんのことを睨んで「嘘を付いたな」と言っていた。そして、斎藤さんは真っ青になった。桜さんの説明には信憑性があった。朝になったら跡部にも確かめなきゃいけない。そしてそれが本当だったら、謝らなきゃ。

私は時計を探そうとあたりを見回して、ぎょっと跳ね起きた。頭の方にある窓がいつものより大きい。ベッドが薄いカーテンで覆われている。自分の部屋じゃない!
暗闇でよく周囲が把握できず、私は窓から外をのぞいた。いつも見ていた風景より少し高い。たぶん3階だ。窓から表玄関は見えず、池のそばにある高い円錐のコニファーが真正面にある。風景の位置関係から考えて、今いるのはたぶん跡部の部屋のそばだ。そういえば、布団の香りがいつもと違う。おまけに今寝ているベッドは天蓋つきな上にキングサイズである。むしろ、ここが主の部屋な気がする。いやこのベッド一つにしても豪勢な感じ、跡部の部屋に間違いない。
私は再びぎょっとして横を見たが、そこには誰もいなかった。一瞬跡部と添い寝しているのではないかと仰天したが、それは被害妄想だったようだ。

私は自分が変な勘違いをしたことを恥じて、ベッドから抜け出た。天蓋から垂れる薄いカーテンをめくってきょろきょろとあたりを見回す。そこは私にあてがわれた客人用の豪華な部屋よりもはるかに広く、更にゴージャスな造りになっていた。床に敷かれた赤い絨毯には金の房がついている。
ベッドから二三歩進むと私は部屋の隅に小さな明かりが灯っていることに気が付いた。先ほどまでは家具に遮られていて気が付かなかった。足音を立てぬように忍び足で近づいて、家具の陰から様子を伺う。

予想通り、そこには跡部がいた。明かりをつけたまま机に突っ伏して眠っている。頭のそばでは本が半開きになっている。私は跡部に近づくと、本を手にとって表紙を見た。最近ノーベル賞を取った経済学者の名前が記されている。夜遅くまで経済の勉強でもしていたのだろうか。平日は仕事で忙しく、せっかくの休みである土曜日の昼間はドアを蹴破ったり私に叩かれたりと一騒動あったのに。
いつでも高みを目指す跡部への尊敬と、感情的に暴れたことへの後悔と、そんな自分に対する恥ずかしさ。
まだ暦の上では秋といえど、室内の温度もぐっと低くなってきている。私はベッドから毛布を抱えてくると、広い跡部の背中にそっと毛布を掛けた。しかしタイミング悪く当の跡部は身じろぎをして、ゆっくりと身を起こした。

「あ」
「寝ちまったか……ん?」

跡部は毛布を見、驚いたように私を見上げた。目が会う。その青い瞳を見て、跡部に腕を掴まれたこと、会いたかったと言ってしまったこと、キスされたことが次々と思い出される。私は恥ずかしくなって逃げ出したくなった。しかし今回は逃げるわけにはいかない。
私が何も言えぬまままごついていると、跡部はふっと笑った。

「会いたかったっていうのは本当だぜ」

私はうつむいた。跡部は結局私のことを助けてくれた。陰謀にも負けずに私を迎えに来てくれたし、私を寝かせてくれた。使用人たちが口々に言っていたように、たぶん、跡部は優しい。それなのに、私は。
跡部の穏やかな言葉を耳にしたとたん、素直な謝罪がころがり出た。

「ごめんなさい」
「……アーン?」
「あんな風に感情的に怒って、責めて、平手打ちまでしてしまって。桜さんに聞いたんです。景吾さんが私を拒絶してたわけじゃなかったってこと。それなのに私は、景吾さんの話も聞かずに」
「あれはうちの使用人の仕業だ。こんなことになっちまったのは跡部家の責任だ。お前は悪くねえ」

跡部は毛布を椅子の背に掛けるとゆっくりと立ち上がった。跡部は私のほほに触れ、目を細めた。

「それに、いきなり謝るんじゃねえよ。ふられたかと思ったじゃねえか」

両腕が伸びてきて、慣れない香りに包まれた。暖かな体温。跡部の手が私の髪を撫でる。
びくりと跳ねた心臓が、そのまま早鐘を打つ。


***


桜が頭を下げて部屋に入ると、入り口のそばで跡部社長と夏目社長が仲良く正座をしていた。桜は自分の仕えるご主人様と客人を見下ろす格好になってしまったことにぎょっとしたが、奥方二人はソファに座り何食わぬ顔で優雅にワインを飲んでいたので気を取り直した。
跡部と夏目は眉をハの字にしながら、ぼそぼそと会話していた。

「おい、跡部。私たちはいつまで正座していればいいんだね。そろそろ足がしびれてきたのだが」
「知るかそんなこと。ああ桜、ちょうど良かった。景吾と優ちゃんの様子はどうだね」

跡部は小さい声で「あの子たちがうまく言っていたら私たちも妻に許してもらえると思うのだが」と付け加えた。桜は吹き出しそうになりながら、腰を屈めて今日の出来事を報告しようとした。

「申し上げます。先ほど景吾お坊ちゃまが優様をお部屋へ運んでいかれました。優様は本日の事件で少々パニックになっていらしたようで、景吾お坊ちゃまに手込めにされたなどと仰っ」
「なんだと!?」

桜の声を遮って夏目が大声を出した。しまった。言わないでいいことを言ってしまったと思ったが後の祭り。しかも早とちりされてしまっている。
夏目は見る間に真っ赤になり、次いで青くなって、跡部の襟首を掴むとがくがくと揺さぶった。

「ど、どど、どういうことだ跡部!?てて手込めだと!?私は結婚の許可はしたがそんなことを許可した覚えはないぞ!」
「ま、まぐっ、待て夏目!私は何も知らな」
「知らないだと!?こんなに手が早いとは聞いてないぞ!景吾くんはお前譲りか、お前譲りなのか!?」
「私は手は早くなぐっ、おい揺さぶ、しゃべれないぐっ」
「娘をキズモノにするなんてどういうつもりだ!」
「お、落ち着け、景吾はそんな手荒な真似をするはずはない!たぶん」
「たぶんとは何だね!?」

桜はがっくんがっくん揺さぶられている跡部と青を通り越して白くなっている夏目から目をそらした。男性陣と対照的なのが女性陣だった。奥方二人にもさきほどの話は聞こえていたはずだが、二人は落ち着いたもので、少し驚いたような顔をしたがそのまま談笑しながらワインを口に運んでいる。
跡部夫人が困ったように首を傾けて謝った。

「うちの景吾がごめんなさいね、夏目さん。でもあの子は責任はきちんと果たしますわ」
「お気になさらず。むしろ景吾くんが相手で嬉しく思っております」
「ありがとう。私も、景吾が優ちゃんのような素敵なお嬢さんを選んでくれてほっとしました」
「まったく、何を騒いでいるのかしらねえ、あの人たちは。優も景吾くんももう大人。それくらいよいではありませんか。ねえ、跡部さん?」
「ええ、仰るとおりですわ。ともかく、二人が上手くいってほっとしました」

早とちりされたまま訂正の機会を失ってしまった。でもまあいいか、と桜は心の中でぺろっと舌を出した。
専属メイドとして仕えるうちに夏目優の良さは十分に理解できた。あの二人がくっついてくれれば自分としてはこれほど嬉しいこともない。さきほどピアノ室でビンタされていた跡部景吾の様子を見るに、あの二人がくっつくには少々時間が必要かもしれない。だったら、先に両親という外堀から埋めたっていいではないか。

これは優様を泣かせた罰であり、優様を気遣ったことへの褒美ですよ。景吾お坊ちゃま。

桜はにっこりと笑って、ワインセラーから運んできた新しいシャンパンを奥方に差し出した。


(20140125)






「景吾さん、本当に恋人はいないんですか」
「いねえよ。いたらキスするわけねえだろ」
「えっ、な……いたっ!」
「うぐっ、く、あごに頭突きするな!」
「頭あげただけですよ!景吾さんこそ暴行罪!強制わいせつ罪!むりやりキ、キスしてー!」
「アーン!?てめえは俺様に嫁ぐんだから問題ねえだろうが!」
「ヤダー!大切にしてくれない男となんか結婚しないー!大切にされない程度の女だってことくらい分かってますよバカー!」
「そんなこと一言も言ってねえ!」




「こぶになってるなあ、痛たた……あ、おはようございます、跡部さん」
「おはよう、優ちゃん。体をどうにかしたのかしら?」
「昨日ちょっと景吾くんと。でも大丈夫です!」
「そう、なら良かったわ。まったく、あの子は」
「……?」




翌朝、勘違いした母親に「優ちゃん痛がってたわよ。女の子の体は大切にしなさい」と諭される跡部景吾(28)。そしてまた始まる喧嘩という名の仲良しこよし。

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