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政略結婚(跡部)

和歌を恋文にしていた時代には夜を共にするまで結婚相手の顔を見たことがないなんて普通のことだったらしい。なんてリスキーなと思うけれど、当時の高貴な女性は男性に顔を見せずに生活していたから顔を見られなくても当然という感覚だったのだろう。そんな時代から約1000年。人の生活は驚くほど進化して、みな東へ西へとせわしなく動き回り、鉄の鳥や目に見えぬ電波が頭上を飛び交う毎日だ。平安時代の習慣なんてわずかばかりも残っていやしない。それなのに、全く、時代錯誤もいいところだ。

ある日いきなり「跡部家の御曹司と結婚しろ」と父に言われて、反論も反抗もできぬうちにせき立てられるように跡部邸へ引っ越し、同棲を始めてから早や半年。

私は未だに跡部景吾に会ったことがない。





『政略結婚』





部屋に響くノック音に顔をあげるとメイド服を着た若い女性が入ってきてお辞儀をした。桜さんだ。頭をあげた彼女の顔を見て私は、ああ、今日もだめだったんだなと悟った。慣れたものだ。半年も同じ答えを聞き続けてきたのだから。

「申し訳ありません、景吾お坊ちゃまは本日もお忙しいそうで」
「そっか。いいのよ、桜さんが気にすることじゃないから」
「ですが」
「私は大丈夫」

今日も私は跡部景吾にはお目通り願えないのだという。そう報告するときの桜さんは毎回すこし眉尻を下げて、気の毒そうな顔をする。
この家へ引っ越してきた当日も、私は自分の専属メイドになった桜さんに同じことを言われた。その時はほっとしたものだった。まだ跡部景吾の妻になる覚悟なんてなくて、そもそも彼がどんな人間かもよく知らなかったから会いたくなかったのだ。翌日の朝も同じことを言われて、私はまたほっとした。その翌々日も同じで、ほっとした。その次の日も、その次の日も。

だけどそれが一ヶ月、二ヶ月と続くうちに私の中には跡部景吾に対する不信感が積もっていった。いくら忙しくとも、結婚するかもしれない相手に一瞬の挨拶さえもできないなんてこと、あるのだろうか。何度「会いたい」とお願いしても、返事はいつも「忙しい」。
今ではもう、それが単なる言い訳だということが分かっている。

「しかし優様がいらっしゃってからもう半年になります。斎藤もどうしたものかと頭を悩ませているようでした」

斎藤というのは50代半ばの女性で、桜さんの上司に当たり私や桜さんと跡部の間を取り次いでくれる使用人さんだ。

「もう潮時、かな」

この結婚は政略結婚だ。父の会社と跡部景吾の父親の会社の間で何か取り決めがあって、それに付随して私たちの結婚も決められてしまった。
いくら政略結婚といってもこの世は現代、私たちが嫌だと拒めば結婚は破談になる。にもかかわらず私が素直に父の言いつけに従っているのは、私には恋人も好きな人もおらず、結婚を考えねばならない年になっているからという理由がある。最初こそ跡部との結婚話に驚いたが、調べてみれば跡部景吾はとても魅力的な人間だった。だからまずは会ってみて、どうしても性格が合わなかったときにだけ結婚を断ればいい。そう考えたのだ。
だが跡部はどうだろう。あれだけハンサムなのだ、恋人がいるに違いない。そこへ降って沸いた政略結婚。彼も会社の幹部だったから、私と結婚した方がお互いの会社にとって良いと分かっているはずだ。拒めば跡部が父の会社と上手くやっていくのが難しくなる、ということも。でもそう簡単に愛する人を捨てられるだろうか。桜さんによれば、彼は派手な身なりをしているものの女性に対しては誠実だそうだから、なおさらである。

桜さんは落ち着かないようにせかせかと近づいてきて身を乗り出した。

「潮時って!優様はどうなさるおつもりですか」
「どうしようかなあ。時間はあるのだからじっくり考えるよ。結婚しないのにずっとこちらでお世話になっていても仕方ないしね」
「そんな……」

桜さんはこの家へやってきた私のことをずっと気遣ってくれた。敷地を案内してくれたり、跡部家のしきたりを教えてくれたり、他の使用人たちを紹介してくれたり、お菓子をくれたり。私がひとりぼっちで寂しい思いをしないようにずっと気にかけてくれた。だからこそだろう、彼女はショックを受けたような顔をしていた。

「はい、もうおしまい。考えても仕方ないわ。さて今日は何をしようかな」
「本日は、語学のお勉強はなさいますか?」
「そうねえ」

跡部家に来た私は暇だった。前にしていた仕事は「跡部景吾の妻が他の会社で仕事を続けるわけにもいかないだろう」と父に説得されて辞めてしまっている。だから、私は学ぶことにした。世界中を飛び回り語学にも堪能だという跡部に近づけるように、英語とドイツ語、ギリシャ語を少しでも身につけたくなったのだ。幸い跡部家にはたくさんの蔵書があったし、ときどき博識な使用人さんが先生になってくれたから環境には恵まれている。

「せっかく天気がいいんだもの、午前中は散歩してくる。もう一人で大丈夫だよ、迷わないから」
「かしこまりました。ではそのように」

優は窓から秋の空を見上げた。ちぎれた柔らかそうな雲が高いところをゆっくりと流れていく。
もう、終わりにした方がいい。
彼から断るのが難しいなら、私から。


***


私は池のほとりにしゃがみ込んで透明な水の中をのぞき込んだ。そこに見えるものはこの半年間ほとんど変わらない。沈んだ枯れ草からぷくりぷくりと小さな気泡が浮いて、その周りを微生物がくるくると回っている。錦鯉はもとより、メダカなどの小さな魚ですらいない。夏には緑の水草が青々としていたけれど、今は茶色っぽく透明になってしまって、私が初めてここを訪れた春に見たのと同じような姿になっていた。季節の移ろいはこんなにも早い。
この池は跡部邸の敷地の端っこにあって、池と呼んでみたもののへこんだ土地に水が貯まったという程度のもので手入れもされていない。枯れたブタクサやカヤが折り重なるようにそこらここらに生えていて、つつけば蛇でも出てきそうだ。初めて一人で散歩に出たときに迷いに迷って見つけた場所だった。私はこの場所を気に入って、それから散歩にくるたびに毎回ここへ来てしまう。完璧なイングリッシュガーデンに囲まれた跡部邸らしからぬ荒れた場所。その自然さに緊張しきった自分の気持ちが自然とほどけていく。

虫が泳ぎ水面が揺らぐのを無心に眺めていると、背後からガサッと音がした。振り向くと見慣れた顔がそこにある。

「樺地さん、こんにちは!今日はお仕事はないんですか」
「ウス」
「お散歩ですか?」

彼は返事をせずに近づいてきて、私と同じように池をのぞき込むようにして隣にしゃがんだ。
樺地とはときどき敷地の中で遭遇する。樺地は跡部の側近だと聞いていたから、初めて樺地に会ったときは跡部と同じように私を避けるだろうと思っていた。しかしこの無口な彼は優しくて、こうして側にいてくれたり話を聞いてくれたりする。樺地さんもここへ来るのだな、私と同じ気持ちなんだろうか、と想像するとほほえましい気分になる。

また一つ浮かんでは消える泡沫を見ているうちに、口が自然と動いた。

「樺地さん。私、結婚、やめようと思うんです」

自分から進んで口にしたというのに、自分の言葉が耳に入ったとたん目頭が熱くなった。跡部に恋していたわけではない。跡部とどうしても結婚したかったわけではない。それなのに悲しかった。苦しかった。みじめだった。私がこの家へわざわざ引っ越してきたのは跡部家の頼みもあってのことだったのにいざ来てみたらこの扱いだ。使用人たちは桜さんを始め、みな優しかった。気を配ってくれたし迷子になったときには心配して探してくれた。それでも、満たされない。
直に会ってほしかった。会う時間がないなら電話でもいい。それでもいいから、嫌なら嫌とはっきり言ってほしかった。
宙ぶらりんなまま半年をすごして、まだかまだかと待ちわびて。最初は政略結婚のことを前向きに考えようと過ごしていたのに、一目見ることも叶わない相手を待つことにはもう疲れてしまった。

一言、せめて一言で良かったのに。

私の言葉を聞いた樺地は大きな体をゆらしてこちらを見た。視線をあげると、樺地の優しげな瞳に自分の情けない顔が映っているのが見えた。自分のみじめな姿が見たくなくて、私はまた視線を反らした。

「情けないですね、私」

たまたま夜中にベッドを抜け出して水をもらおうとキッチンに向かっているときに跡部の声を聞いたことがある。遠くからかすかに聞こえてきた音に立ち止まって耳を澄ませると、彼が斎藤さんと雑談する声が聞こえてきた。今日は暑かったからスーツに汗の跡がつきそうだの、美味しいビーフが手に入ったから明日ローストするだの。景吾おぼっちゃまと呼ばれていたから間違いない。廊下に沿って密かに声のする方へ近づくと、彼が機嫌が良さそうに笑うのも分かった。
胃の奥が冷えた。使用人と楽しく会話する時間はあっても、私に挨拶する時間は一秒たりともないのだと。そういうことだと。
それでも私は待った。疲れていて初対面である私には会う気になれなかったのかもしれない。そう思い直して待った。でも結果は同じだ。無意味だった。

「ダメだったんです、やっぱり。私がここに居続ける意味ももうないとわかりました」

樺地は何も言わない。それでも聞いてくれていることは分かる。
私は樺地に笑って見せた。胸の奥がふるえる。

それでも、この屋敷で得たものはある。

「樺地さん、ヨークシャープディングの作り方教えて下さってありがとうございました。このお屋敷で優しくしていただいたことは忘れません」

ぽろりと涙がこぼれてしまう。
私は慌てて立ち上がると、きびすを返して一目散に屋敷へ向かって走った。走って走って、息が上がるころにたどり着いた跡部家の物置小屋のそばで私はばったり斎藤さんに遭遇した。テラコッタの植木鉢に水をやっていた彼女は驚いたように振り返ると、首を傾げた。

「優様、そんなに慌てていかがなさいました」
「いいえ、何でも。……ねえ、斎藤さん」
「はい」
「私、景吾さんと結婚するの、やめるわね」

一度弾みがつくと言葉は簡単に喉から滑り出た。
彼女は驚いたように目を見開いて、そして、すこし目尻を和ませた。


***


俺は苛立っていた。曖昧を嫌う自分がこんなに中途半端な状況におかれたのは始めてのことかもしれない。仕事も人間関係も、だいたいのことは上手くいっている。ただ一つーーあの女のことだけが自分を苛立たせた。

親父から政略結婚の話を持ち出されたのは桜も散りきった春のことで、まさに青天の霹靂だった。好きでもない女と一緒になるのはごめんだった。だが黙って親父の言い分を聞いてみれば存外悪い話でもない。写真で見たところ、その夏目社長の娘だという女は意志の強さを秘めた目をしていた。仕事の能力も父親譲りでなかなかのものらしい。
何より俺様の性格をよく知る親父が結婚を勧める相手だ、相性は悪くないかもしれねえ。
そう考えた俺はまずその女と会ってみることにした。あいにく決まった女も好きな相手もいない。そろそろ身を固めることも考えねばならない年でもあるから、好都合だった。

そう考えてから約半年。青々としていた広葉樹は葉を落とし始め、季節は秋になった。だが俺はまだ一度も、うちへ引っ越してきているはずの夏目優に会ったことがない。

「景吾お坊ちゃま、申し訳ございません。優様は」
「わかった、もういい」

俺は斎藤の台詞を遮った。不愉快だった。
仕事をしているわけでもない、体が弱いわけでもないはずなのに夏目はいつも俺との面会を断ってきた。何度「今日は会えるか」と尋ねても、気分が優れないだの用事があるだのと理由を付けて、返事は常にノーだった。
最初はさして気にしていなかった。むしろそのきっぱりと拒絶する気の強さを好ましく思っていた。夏目優もいきなり結婚しろと父親に迫られたに違いない。いくら俺様のような素晴らしい男が相手とはいえ、知らぬ相手と結婚せよと命じられて簡単にはいそうですかと言えるはずがない。そもそも金持ちの美形御曹司だからといって安易に結婚したがるような女は俺様好みじゃねえ。そう思った。

だが拒絶が一ヶ月、二ヶ月と続くうちに段々俺は苛立ってきた。
結婚や夜伽を求めているわけでもない、ただ会うだけだというのにノー、ノー、ノー。朝から夜まで、平日も休日も、いつ尋ねても拒絶しか返ってこない。引っ越しまでしてきておいてこの態度だ。

「チッ、めんどくせえ」
「申し訳ありません。あの方の態度には私も桜も頭を悩ませているのですが」
「あいつは何だと?」
「それが、気分が優れない、としかおっしゃられません」

俺は再び舌打ちをした。夏目が何を考えているのかさっぱり分からない。気分が優れないとは言うが常駐する跡部の医者にかかっている様子もない。政略結婚の重圧に耐えかねて鬱々としているのかと思えばそんなことはなく、毎日やれ言語の勉強だやれ散歩だと充実した生活を送っているらしい。そこまで俺と会うのが嫌ならば今すぐにでも跡部家から出て行けばいい。だがそんな様子は全くない。俺と会いたくないと言ったその日に夏目優らしき人間がピアノを弾くのも聞いたことがある。

跡部は苛々と手を振って斎藤を追い払うと、眉間に皺を寄せたままソファに沈み込んだ。窓を見上げればそこに広がるのは見事な秋晴れ。スポーツをするにはもってこいの日和だ。だがテニスをしようという気にもなれなかった。


***


結局苛々したまま貴重な休日の昼間を過ごしてしまった。せめて夕方からはあの女のことなど忘れてドイツ語の小説でも読もうと、カンテラを掲げて薄暗い書庫に入る。電気をつければいいのだが目当ての本がある場所は分かっているから小さな明かりで十分だ。俺は迷いなくドイツ語の書籍が置いてある棚にたどり着き、背表紙をカンテラで照らして本を物色し始めた。
詩か小説か。いや、思想書も悪くねえ。
そんなことを考えながら歩き回っているうちに、俺は本棚の側に置いてある丸いエンドテーブルに本が一冊放置されているのに気が付いた。埃がかぶっていないのを見るに、最近ここへ置かれた本だ。それを手に取って表紙の文字を追うと『源氏物語 現代語訳解説付 一巻』と書かれている。

「源氏物語?」

自分が読んだ覚えはない。両親は最近この屋敷を訪れていないし、使用人が書庫を使うことはない。ここのところ書庫を利用するような客人が訪れたような記憶もない。ということは、あの女が読んだのだろう。
俺は顔をしかめて何気なく表紙をめくった。

いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに……

久しぶりの日本古典に触れたとたん、俺はかつて高校の授業で源氏物語を学んだことを思い出した。光源氏の正妻・葵の上はプライドが高く、結婚した後も光源氏につれない態度をとり続けていた、と古文の教師が語っていたはずだ。天皇の妃になるはずだった私がなぜ源氏などと、と。

「チッ、お高く止まりやがって。葵の姫君にでもなったつもりか?アーン」

そう一人ごちたとき、廊下から慌ただしげな足音がして書庫に樺地が入ってきた。いつもの捕らえ所のない樺地の歩みが乱れていることに気が付いて、俺は嫌な予感がした。

「何があった」
「桜さん、が……夏目さん、は」

桜か。たしか桜は半年前から夏目専属のメイドになったはずだ。いつも夏目にくっついているのであろう桜とはここ最近はまともに顔を合わせていない。
樺地の次の言葉を聞いたとたん、自分の顔色が変わるのが分かった。本を適当に戸棚に押し込んでカンテラを放り出すようにして早足で書庫を出る。ぼんやり証明に照らされた薄暗い廊下のど真ん中で、俺が後ろに付いてきた樺地に叫ぶように尋ねた。

「樺地、あいつはどこだ!」
「ピアノ室……です」

ほぼ走るようにしてグランドピアノが置いてある部屋まで来ると、中からはピアノの音がぽろん、ぽろんと聞こえてきた。部屋の前には斎藤がいる。彼女は俺に気が付くと困ったように眉を下げた。

「景吾お坊ちゃま」
「斎藤。夏目優はここにいるな」
「はい」
「中へ入れろ」
「それが、優様は誰にも会いたくないと」
「アーン?そんな戯れ言に構っていられるか。どけ」

俺は斎藤を押しのけてノブに手をかけた。だがそれを下げようとしてもピクリとも動かない。白い扉を押したが微動だにしない。防音を施したその扉の奥からはまだくぐもったピアノの音が聞こえてくる。

「チッ、中から鍵を掛けていやがる」
「景吾お坊ちゃま、実は今日、優様にこう告げられました。『私、景吾さんと結婚するの、やめるわね』と」

斎藤は困ったような顔のまま俺の隣に立って、言う。
自分の唇が苦々しげに歪むのが分かった。斎藤はためらいながらもきっぱりと言った。

「僭越ながら申し上げます。景吾お坊ちゃまはお優しくおられて、優様のことを気になさっているのだと存じます。しかしいくらなんでも景吾お坊ちゃまに全く会いたがらないというのは無礼です。そのような相手にまで礼儀をつくす必要がございましょうか」

俺はドアノブから手を話した。無言の肯定と受け取ってか、斎藤は控えめに続けた。

「優様は出て行かれるおつもりです。であれば、無理して会わずともこのまま帰せば良いではありませんか。景吾お坊ちゃまには優様などふさわしくありません。貴方様にはもっとーー」
「斎藤」

俺は開かない扉を見つめたままゆっくりと斎藤の名を呼んだ。深呼吸をして、体に力を込める。

「黙れ」

俺は体を屈めるとバネのように一気に体を伸ばして、扉ついたゆるんだ蝶番めがけて渾身の蹴りを放った。


***


今日は精神的に疲弊しきっているみたいだ。言語を学ぼうにもどうも集中できない。書庫をさまよううちに見つけた源氏物語を手にとってみたはいいものの、帝に愛された桐壷の話を読み進めるうちにつらくなってきてやめてしまった。
仕方なく書庫にこもるのは諦めた。桜さんを探して久しぶりにピアノを弾いてもいいかと尋ねると、彼女は快く斎藤さんからピアノ室の鍵を借りてきてくれた。

「どうぞ、こちらが鍵になります。自由に使ってくださって構いませんが、使用している間は内側から部屋の施錠をお願いいたします」
「え、なんで?」
「斎藤曰く、なにぶん応接室やホールに近い部屋ですので、間違えて他のお客様が入ってしまうかもしれません。なのでこの部屋を利用される方にはみな施錠をお願いしております、とのことです」
「なるほど」

入られたところで私は気にしないが、跡部家としては大切なお客様と変に接触してほしくないのかもしれない。同じ跡部家の客といえど客同士で利益が対立していることもあるかもしれないし、私なんかはもはや単なる居候だ。結婚が決まっているならば婚約者として堂々としていればいいし結婚しないならばただの客として澄ましていればいいが、今の自分のなんと中途半端なことか。
桜さんは首をひねった。

「以前の斎藤は施錠せよなどとは言わなかったと思うのですが何があったんでしょう。……ともかく桜さま、ごゆっくりなさってください。扉横の呼び鈴を押してくだされば私はいつでも参ります。あまり、思い詰めないでくださいませ」

心配そうな彼女が頭を下げて退出した後で言われた通りに鍵をかける。錠の下りる金属の音を聞いたとたん、私は泣き笑いになった。ほら、心配してくれている。彼女は単に専属メイドという枠を越えて世話を焼いてくれている、樺地さんだって斎藤さんだって優しい。
ピアノの前の椅子に座って、左手を楽譜台にかけて、手の甲の上に額をのせる。伏せた状態で右手を鍵盤に乗せると弱々しい音が部屋に響いた。
この防音室でなら、たとえ私が泣き叫んでも外にはさして聞こえやしない。そう思ったとたん、また涙がぼろぼろとこぼれてきた。

私はあの王族のような男に、愛されるどころか顔を合わせることさえ拒否されている。
あんまりじゃないか。そこまで一体、私が何をしたというのだ。私がダメだと思うならダメだと、そう言ってくれればいい。それなのに私を呼び寄せておきながら放置だ。前向きにとらえてきたつもりだった。環境がいいのだから教養を身につけられると。
でも、もう疲れた。

嗚咽を隠すために右手で強めに鍵盤を押して、ぽろんぽろんとピアノを鳴らす。私は目をこすった。泣いていても仕方がない。どうしようもないのだから。桜さんにはゆっくり考えると言ったもの、何度考えたって結論は同じだった。私にあとできることはさっさとこの屋敷から出て行くことだけだ。ほとんど荷物を持たずにこの屋敷へ来たものの、半年生活するうちに身の回りの物は少しずつ増えてしまった。それでも荷造りは一晩あればできるだろう。桜さんには引き留められるかもしれないが、今晩のうちに荷造りをしてさっさと出て行こう。もう終わりにしなければ。




突然、轟音が響きわたった。
文字通り椅子から飛び上がって音のする方へ振り向く。施錠したはずの分厚い扉が外れてこちら側に倒れている。その奥にはこの上なく不機嫌そうな男。私は自分でも分かるくらい体がびくりと震えるのを感じた。ずっと会いたいと願っていた相手。でもその氷のような冷たい視線と眉間に寄った皺、苛立った空気に心が萎縮してしまう。

跡部景吾は倒れた真っ白いドアを踏みつけて、まっすぐこちらへ歩いてきた。あぜんとしてそれを見ているうちに目尻に貯まっていた涙が一つこぼれる。跡部は近くまで来て立ち止まり、私と目が会ったとたん舌打ちをしてこちらへ手を伸ばしてきた。
とっさに身を引こうと後ろへ下がると、膝の裏が不安定なピアノの椅子に当たって椅子ごと後ろへひっくり返りそうになった。

「チッ、何やってんだ」

跡部に腕を強く引かれて危うく倒れずにすんだ。彼は痛いくらい強く腕を握ってくる。抱え込まれるような状態になっているせいで彼の服から漂う慣れぬ香りに包まれる。ようやく会えたというのに冷たい雰囲気に気圧されて何も言えない。私は跡部に何を言われるかとびくびくしていたが、次に聞こえてきたのは意外な言葉だった。

「悪かったな」
「え?」

とっさに顔をあげたが跡部はこちらを向いていなかった。跡部の彫像のように整っていて、それでいて怒りに燃えた横顔は真っ直ぐ扉の方を見ていた。視線の先には斎藤さんがいた。彼女は蹴り倒された扉の奥で青ざめて立ちすくんでいる。
跡部は静かな、しかしはっきりと憤りのこもったよく通る声で言った。

「斎藤。てめえ、嘘をついたな。どういうつもりだ」
「景吾お坊ちゃま」
「黙れ。てめえが仕組んだことだろう」
「私はただ、景吾お坊ちゃまのためを思って」
「うるせえ。樺地、連れて行け」
「ウス」

血の気を失った斎藤さんは樺地さんに引きずられるようにして消えていった。何がなんだか分からない。唖然としてそれを見つめていると、私は顎をつかまれて無理矢理跡部の方を向かされた。
跡部と目が会う。彼は、怒っていなかった。怒りや苛立ちはすっかり消え去り、それどころかやや沈んだ目の色をしている。彼はそっと私の頬に触れた。涙の跡をなぞるように指を滑らせる。

「今まですまなかった。……会いたかったぜ」

その言葉を聞いたとたん私は真っ白になった。

何が会いたかった、だ。ずっと拒絶してくせに、こっちは半年間どんな気でいたと思ってんだこの野郎。
勢いよく繰り出した平手打ちが跡部の左頬にきまった。


***


跡部景吾の父親は樺地崇弘からの電話を切ると、おちょこでちびりちびりと酒を飲んでいた夏目優の父親の隣に腰を下ろして上機嫌に話し掛けた。

「夏目、うまく行ったぞ。息子が不穏分子を見つけたそうだ」
「おお、それはよかった。誰だったんだ?」
「使用人の斎藤だった。おおかたどこぞの会社から金でももらってこの結婚話を潰そうとでもしていたのだろう。詳細はこれから調べるがね」
「そうか。それで、肝心の景吾くんと優の様子はどうだね」
「崇弘によれば仲むつまじく喧嘩をしていたそうだよ」

跡部と夏目は目を会わせて、白ワインの入ったグラスを掲げ乾杯した。そして二人でにやにやと談笑しながら飲み直す。

「はっはっは、それはいい。本音でぶつかり合えている証拠だ。私たちの娘息子となると言いたいことを言える相手も限られてくるからな」
「ああ。あの景吾にはっきりものを言える子が嫁いできてくれそうで私はうれしいよ。景吾と喧嘩ができる子は貴重だ」
「ええ、その通りですわ。貴方たちと喧嘩ができる女性も、ね」

男二人だったはずの部屋に突然、女性の声が響いた。見れば困った顔をした使用人の桜が扉を静かにあけている。そこから女性が二人、入ってきた。二人ともにこにこと笑っていて、しかし笑っていない目で男達をにらみつけた。

「お、お前たち……」
「母さん……」

陽気に笑っていた男達は怒り心頭の妻たちを見て、蛇に睨まれた蛙みたいに硬直した。妻二人は男達を包囲するようにじわじわと距離を詰めてくる。

「あなた、聞きましたよ。不穏な動きをしている使用人をあぶり出すために景吾を利用したんですって?」
「ご、誤解だ」
「何が誤解ですか?誤解があるなら教えていただけますか?」
「お父さん?わたくしも跡部夫人から聞いて飛んで来ましたの。それを知っていて、計画的に優を跡部家へ引っ越しさせたんですって?」
「そ、そ、それは……その……つまりだな」

様子を伺っていた桜は苦笑した。景吾お坊ちゃまといい、ご主人様方といい。
今夜は長くなりそうだった。


(20140115)

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