夢か現か幻か | ナノ
Twilight
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「必要ならば、大江戸病院に運び入れますが、ここでどうにかなりそうですか」
「幸いここで処置できる範囲です」
「分かりました。なにか手伝える事は」

首を振られたので、静かに退室する。これ以上はいても邪魔だ。ふすまを開けると暢気に煎餅を食べている万事屋の旦那と、気が気でない様子の山崎さん、縁側で泰然と煙草をふかす土方さんの姿を確認した。

「……どうなの」
「彼女と主治医次第ですね」
「いや、持つべきものは医者の知り合いだね」
「そんな大層なもんじゃありませんよ」

結局は先人が確立した医学を利用している身の上に過ぎない。医学で手も足も出ない者の前では、自分も祈祷師に戻る事しかできない。所詮は神ならぬ身が為す業だ。そして、神の手や奇跡なんてものはそうそうない。

緊迫した空気が流れる部屋で気まずさを抱きながら待つ事しばらく。いかんせん時間感覚も狂うような嫌な空気だ。2時間か、3時間、あるいは30分にも満たない時間だったかもしれない。

「ようやく落ち着いたみたいですよ」

ふすまの隙間から隣室のお姉さんの様子をうかがっていた山崎さんから報告が入って、やっと少し空気がマシになった。病状が思わしくないのは、顔にうっすら死相が出ていたから、なんとなく分かっていた。こういうのは坂を転がり落ちるように悪くなる。嫌な予感が拭えなかった。

「それより旦那と先生、アンタらなんでミツバさんと?」

沈黙の末に、旦那は成り行きと答えた。あたしも同じだ。成り行きだ。山崎さんの頭がアフロなのも成り行きだろう。沖田さんに爆殺されかかった勲章だ。出歯亀なんてするから。

「……そちらさんは、なりゆきってカンジじゃなさそーだな。ツラ見ただけで倒れちまうたァ、よっぽどの事あったんじゃねーのおたくら?」

旦那に水を向けられた土方さんは「関係ねェ」と一刀両断した。それで収まるはずがないのが旦那で、ニヤニヤ笑いながら土方さんを揶揄っている。山崎さんもここぞとばかりに絡んでいるけど、その人下手に絡むと面倒くさいぞ。

それにしても、なぜ自分は彼と彼女の話になった途端にかすかな苛立ちを覚えているのか。いや、分かってる。知らないふりをするのはカマトトもいいところだ。自分は横入り以外の何物でもないのだから、苛立つ資格なんてない。自分が悋気を起こす道理はない。

「関係ねーっつってんだろーがァァ!!大体なんで、てめェここにいるんだ!!」

抜刀して今にも斬りかからんとしている土方さんを、山崎さんが必死に食い止めている。刃が振り下ろされれば脳天をかち割られる位置で、旦那は悠然と煎餅をかじっている。「すみれ先生助けてください!」と山崎さんは叫んでいるけれど、二人がやった事だ。当人らに解決してもらう他ないでしょう。

第三者がふすまを開けた。病人の隣とは思えないほど賑やかな部屋が静かになる。手をついて頭を下げる男は、転海屋の経営者、蔵場当馬というらしい。そして、この屋敷の主で、お姉さんの旦那さんになる人だという。土方さんはいつも通り鋭い視線で蔵場氏を見据えている。その視線に、微かに敵意を感じ取れた。

商人。幕府。敵意。攘夷浪士。この人からは戦人の匂いはしない。ただ、澄んでいるように見える目に何が宿っているのか、そんなの誰にも分かりっこない。……そういえば今日は不審船監視じゃなかったっけか。最近、伝習隊の連中さえ装備していない最新鋭の高性能兵器を装備した浪士が多い事を思い出した。いつぞやの偽結婚式でも、ストーカー女が持っていたな。

軍隊監視ネットワークの連中の噂によると、どうやら鉄砲方かそのへんの連中が新式の装備を手に入れているらしいという話であったが。それが横流しされているのか?幕府の敵たる攘夷浪士に?彼らが直で繋がる事は万が一にもありえない。間に誰かが挟まっているはずだ。……死の商人。

……まさか。そんなはずがない。ミツバ殿の旦那さんが、こちらの敵だなんて、そんな……。でも、なんだろう。この既視感と嫌悪感。土方さんが警戒しているだけじゃない気がする。自分は、この男の目の奥に宿るものをよく知っている。どこで見たんだったか……。

さらなる追加人物のかすかな気配、いや殺気で思考を中断する。タイミング的に、連絡を受けた沖田さんが戻ってきたのだろうか。

蔵場氏が、土方さん達をミツバ殿の弟の友人つまりは沖田さんのお友達と推定したところで、沖田さんが言葉を遮った。普段よりもずっと冷たく、突き放すような声音だ。

沖田さんはお姉さんの病状を伝えようとする蔵場氏を無視して、土方さんに迫っていく。

「土方さんじゃありやせんか。こんな所でお会いするたァ、奇遇だなァ」

今日一日で奇遇という言葉を何度聞いただろうか。いや、どれもこれもわざとらしいものでしかなかったけれど。今度のは特に敵意に満ちている。諌められそうな空気じゃない。下手な事を口走ろうもんなら斬られるかも。そう思わずにはいられない嫌な状況だった。

「どの面下げて姉上に会いにこれたんでィ」

胃が縮こまりそうな沈黙が二人の間を支配している。暢気に観客気分で煎餅貪っている旦那が心底羨ましい。この空気に真っ先に耐えられなくなった山崎さんは、わざわざこの屋敷の前にやってきた理由を話そうとしたが、土方さんの脚によって妨害された。鼻血が出ていたように見えるけれど、つねったら反応するし、大丈夫だろう。

「邪魔したな」

短く言って、山崎さん片手に土方さんは去っていく。彼の姿は障子の向こう側に消えた。

ひとまず、自分も退散しよう。あまり関係が深くない人の家に長時間滞在するのは失礼に当たる。

「旦那ァ、退散しますよ。沖田さん、あたしは先に帰りますが、お気をつけて」

沖田さんの応えはなかった。だが、話が聞こえていなかったわけではないだろうから、こちらも無言で立ち去る事にする。

*

屯所で待機していたら、深夜に救急科で急な呼び出しがあって、そのまま病院の仮眠室で眠っていた。そしたら朝になっていた。屯所に戻って、また呼び出されて。そうしているうちにミツバ殿が江戸に来てから数日が経っていた。

ミツバ殿がここに入院したと聞いたので、丁度病院にいるからお見舞いに行こうと思い立って、売店で売ってるものの中で一番辛いお菓子を手土産に、彼女の病室を訪ねた。途中の廊下で、蔵場氏とすれ違ったので、会釈をすると、向こうも同じように返した。

……自分の推論による色眼鏡かもしれないけれど、腹の底が読めないお人だ。嫌な予感がする。どうにも、嫌な匂いがする。あくまで直感に過ぎないけれど、自分が一番嫌いなタイプだ。そう、養父母と同じ匂いがする。でも、まさかね。楽観的な思い込みで嫌な思い込みに蓋をして、病室をノックすると、鈴が転がるような声で入室の許可が下りた。

「あら、桜ノ宮さん。来てくれたのね。……あら、その格好は」
「真選組で、衛生隊長をやっているものでして」
「まあ、そうだったの」

詳細な身分は告げていなかったな。つい忘れていたというか。というか、制服のままで来てしまっていた。……それ以前に、なんでベッド下に山崎さんがいるんだろうか。まさかね。今だけは、嫌な予感を封じて、ミツバ殿に集中する。

「若いのに、すごいのね」
「いえ、全然です。医者としても、隊士としても。ここだけの話、まだ処方にアンチョコが欠かせなくって」
「アンチョコ?」
「安直が変化したもので、薬の投与量や検査の事を書いた、いわゆるカンペみたいなものです」
「まあ、ここのお医者様もそういうものを見ながらやっていたりするのかしら」
「一部には。本当は全て頭に叩き込むべきなんですけどね……」

可能な限り覚えていこうとしてはいるけれど、薬の数っていうのは病気の数だけある。同じ症例でも個人の体質によって別の薬が適用されることなんて珍しくない。主要なものは叩き込めても、それ以上はつらい。

「努力しているのね。貴方みたいな素敵なお医者様がついててくれるなら、みんなも安心だわ」
「期待に答えられるように、全力を尽くしたいと思っています」

ふふ、とミツバ殿が笑った。あの父親は、自分の娘の事は何度も言って聞かせたくせに、亡き妻の事は殆ど話さない人だった。だから、母親の事は殆ど記憶にない。けれど、もし母親がいたのなら、きっとこのような人だったのではないかと思わせる暖かさがあった。沖田さんはそれに癒やされ、土方さんはそれに惹かれたのだろうな。自分なんかは絶対にかなわない人だ。育ちからして違うもんな。分かりきっていた事だったけれど、改めて事実を突きつけられると死にたくなってくる。

しばらくしてから、ひょこりと万事屋の旦那が姿を表した。手には激カラとトゲトゲした字体で書かれた煎餅の袋がある。お姉さんは微笑んだ。

「スゴイ。ホントに依頼すればなんでもやってくれるのね」
「万事屋だからな」
「万年金欠ですもんね」
「やかましいわ。それより、食い過ぎんなよ。痔に障るぞ」
「あなた、私が痔で昏倒したと思ってるんですか」

そんな、大江戸病院の肛門科常連の、職業:自称忍者の服部さんじゃないんだから。そういえば、あの人、手術どうしたんだろうか。

患者さんに思いを馳せているうちに、旦那にあぶり出された山崎さんは屋上に連行されてしまったようだ。二人っきりとなると、話す事に少し悩んでしまう。夕暮れの病室に赤い光が差し込んでいる。真っ赤な空。……嫌な色だ。赤い空から目をそらした。

「変なことを、言ってもいいかしら」
「どうぞ」
「ありがとう。……私ね、少しあなたが羨ましいみたい。あなたは若くて、しっかりしてて、それでいて強い。その強さが、私には眩しい」
「そんな。ミツバ殿だって若いし、賢くて、綺麗で、素敵な女性ですよ。それに、私は、強くなんて……」
「いいえ。強いわ。だって、あの十四郎さんが折れるくらいだもの。それってすごいことなのよ」
「もし、そうだとしても、沢山の人の助力あっての事です。彼らに助けられなければ、今この制服を着ることはなかったと思います」

そもそも土方さんに拾われなければ、自分はどこにも行けなかっただろう。彼らがいなければ、あの時の自分は土方さんに絶対に勝てなかったはずだ。……そういえば、あの時参加した人も少しずつ減ってきている。もう1年も前だからか。殉職、病死、あるいは粛清。取りこぼした人の中には、親しかった人も決して少なくなかった。

物思いにふける自分の手に暖かな感触。彼女の手に包まれていた。柔らかいそれは、女性らしさを感じる。彼女は手のひらを撫でて、誰かを思い浮かべているような顔をしていた。

「マメが何度も潰れて、ちょっとだけ硬いこの手。十四郎さんもそーちゃんも同じ手をしていたわ。きっと、この手を見て、みんなが認めてくれたのね。些細な進歩しか得られなかったとしても、それをずっと積み重ねられるのが、あなたのいいところ」
「……やっぱり、あなたは素敵な人だ。沖田さんが言う通り、誰よりも素敵な人です」

やんわりと手を外す。冷え性の自分の手よりも更に冷たい手。数日前よりも濃くなる死の色。なぜこの人なのか。自分の心の中に芽生える恨み節を気取られないように、窓際に立つ。弟や父親、そして彼女の事といい、いつも世の中は不条理だ。

「私、あたしは、ミツバ殿が羨ましいです。弟さんを、沖田さんを最後まで守り抜いて、あそこまで立派に育て上げた。……あたしには、自分しか守れなかったので、あなたが、羨ましい」

冷たくなったしわくちゃの手、そして、血の中に落ちていた手を思い出す。自分の弱さのせいでなにもかもなくしてしまった。あの子が元気でいてくれさえすれば、他には何も要らなかったのに。

「弟さんが、いたのね」
「生きていれば沖田さんと同い年になります」

彼女は、はっと息を呑んだ。

「……そう。あの子と似ていたの?」
「いえ、全然。あたしがちゃらんぽらんだったおかげでしっかりしてくれたみたいで」
「ふふ、そうなのね。うちのそーちゃんとは真逆」
「はい。……本当は、あたしがお母さんの代わりをしなくちゃいけなかったのですが」
「そう……ごめんなさい。辛い事を思い出させてしまったわね」
「いいえ、いいんです。自分のせいだから」

本当に、些細な事が原因で、弟と喧嘩をして、家を飛び出した。それから、父と一緒にあたしを探していた和田が、家に招かれて、父親と弟を殺害した。自分があんな事で喧嘩しなければ、誰も不幸にはならなかったのに。ずっと、それが引っかかっていた。当の弟に、いまさら気にするなと言われても、それは残り続けていた。おそらく、これは一生残り続けるだろう。自分はこれを一生背負う。そうでなければならない。

「弟さんを亡くしたのが自分のせいだと思った。だから、あなたは強くなったのね」
「はい。もう、なにも失わないように。恩人の、あの人の、背中に追いつけるように。――もっとも、永遠に追いつける気がしませんが」
「そうかしら。意外と追いついていたりするものよ」
「あの背中は逃げ水のように見えてなりません」

冗談交じりに言うとくすくすと笑ってくれた。目を閉じて、悔恨を振り払う。窓の外の嫌な色を真っ直ぐに見据えて、煎餅をかじった。エグいくらいに辛い。けれど癖になる辛さだ。ミツバ殿も同じように窓辺に立って、煎餅をかじっている。

「人生、ままならないものですね。本当に望むものはいつも手に入らない」
「そうね。でも、自分だけではままならないから、できる事もあるわ。……願いを託して、その人の背中を全力で押すの」

赤く照らされた横顔を見た。彼女は夕日に燃える赤い街並みを、じっと見つめている。沖田さんと同じ目が、あたしの目を捉えた。赤い唇がゆっくりと開く。

「あの人の事、好き?」

あの人、が誰か。彼女の視線が雄弁に語っていた。ここで嘘や誤魔化しを言葉にするのは不誠実だろう。本気で土方十四郎個人を慕った人の前だからこそ、はっきりと事実を告げるべきだ。

路地裏の寒さが蘇る。昏い場所から明るいにぎやかな場所を見て、戦いていた過去の自分を思い出す。蹲って動けない自分に、手を伸ばしたのが、あの人だった。その人に何を思うのか。

「正直な話、正確なところは自分でもわかりません。自分は全く寄る辺のない状況で、土方さんに拾われました。彼についていくか、野垂れ死ぬか、本当に選択肢がない状況でした。だから、彼に好意を抱いていなければ見捨てられて死んでしまう、そんな強迫観念に根ざした好意の可能性は十分にあります」
「――面白い子。色々な事をとても難しく考えてしまうのね」

否定はできない。考えた事を口にすると何言っているんだこいつはという視線にさらされるのは今に始まった話じゃない。要は、考えすぎなのだ、自分は。でもこれは性分なのでどうしようもない。

「選択肢がなかったとして、その気持ちは嘘になるの?」
「それは」
「それに、昔は選択肢がなかったかもしれないけれど、今は違うでしょう?」

ふむ、と唸ってしまう。本音を言えば、分かっている。選択肢が強迫観念がとは半分方便だと、分かっている。正直な話をすれば、沖田さんの記憶を通じて経緯を知っているから、身を引くべきだと感じて元からあった理屈を補強している、それだけの話なのだ。虚飾を引っ剥がされてから出てくる結論は、昔から変わっていない。

「どんな出会い方をしていても、大恩人である事を抜きにしても、嫌いになれる人ではないですよね」
「でしょう」
「味覚には困ったものですけれど」
「あらそうかしら」

なるほど、と頷いた。彼女と自分は感性が違うらしい。そこだけは分かりあえそうもないようだ。あたしは、調味料は程々がベストだと思っているので。苦笑していると、何かが面白かったのか、彼女はくすくすと笑っていた。しかし、唐突に、笑顔を少し真面目なものに変えて、あたしの目の底を見透かすように、じっと見ている。それが沖田さんにあまりに良く似ていたものだからドキッとした。

「あの人を、お願いね」

なぜ。

ただただ、それだけが頭に浮かんだ言葉だった。

「きっと、あなたなら、最後まで十四郎さんについていけるはずだから、お願い」

最後まで、が真選組の終わり、一つの生命としての土方さんの終わりだけを指しているものではないように思えた。常日頃土方さんが言っていることが蘇る。

――俺達は、どう死のうが行く先は同じだ。

人殺しは等しく地獄に落ちる。原本がいた場所でシスターが言っていた。幕府のためという大義名分を備えている自分達も本質は人殺しと変わらない。一方で、善良な彼女が地獄行きになることは、まず無いだろう。死してなお、歩む道は違うのだ。

黄泉路の先までついていってほしい、か。

「こんな時代だもの。わき見もせず、真っ直ぐに走れるように、一緒に戦ってあげて」
「あなたは、それでいいんですか」
「いいの。私は、私で、うんと幸せになるわ……ならなくちゃ、いけないの」

いい人はいないのか、そう言った弟の声を思い出す。そうか、彼女は沖田さんのために。

旦那が言っていたけれど、顔を見て倒れるくらいだ。未練がないはずがないのに。どうして、自分に。

過る事はそれこそ無数に。だけど、決然とした目で、外に目を向けている彼女を見て、それ以上問いかけを重ねる事ができなくなってしまった。

「私で、彼についていけるかは分かりません。ですが、全力は尽くします」

必ずついていくとは言えない。自分も土方さんもいつ死ぬかわからない身の上だ。そして、この時代はあまりにも不安定だ。何が起きるか本当にわからない。

でも、この人の願いを可能な限り全力で、叶えたい。その心には偽りはない。

ありがとう。彼女が柔らかく笑った。
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