夢か現か幻か | ナノ
Rosa banksiae
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魔剣の切っ先がすみれの額に向けられる。斬られる。すみれは大きく飛び退き、俺はとっさに足を踏み出すが、きっと間に合わないだろう。それでも俺はもしかしたらの可能性にかけて止まらない。

すべてが遅い。砂時計の砂を瀝青に入れ替えたかのようだ。二歩目を踏み出す。全速力のはずだが、もどかしいほどに遅い。焦る心。見知った女の危機に洪水のようにとりとめもない事が頭を過る。思い出。風景。くだらない会話……。

なあ、俺はどうすればよかった――?

懐かしい故郷の景色。その中で笑う女。景色も女も随分と褪せている。それは俺が遠ざかったからだ。武州と江戸という距離の話でもあるが、過去の俺と今の俺という時間や立場の隔たりの話でもある。

4年前、侍になるべく武州を離れ江戸に向かう時、俺は一つの選択をした。産まれて初めて手放したくないと思った女を江戸に連れて行くか行かないかだ。悩んだ時間は短かった。俺はアイツを故郷に置き去りにした。俺が野垂れ死んでアイツを独りにするよりもいいと信じて。

その一件が決定打で総悟との関係は現在に至るわけだが、自分が下した決断を後悔した事はねェ。今度はアイツが俺を置いていった今でも、だ。

そうだ。こんな風にどこぞの悪漢の凶刃にかかるくらいなら、最初っからコイツをどこかに必ずいる善人にでも――。

結論が頭の中で弾き出されるその寸前、顔面に湿ったなにかが叩きつけられた。

「オイ、相手間違ってねーか」

その物体が何かは目を開けずとも鼻につく臭いでわかった。暗い視野の中、周りの連中が戦いている。

「オメーさんの相手は俺だろうよ」
「相手間違ってんのはテメーだろォォォォ」

胃の腑からこみ上げる吐き気をこらえず地面に向けてぶちまけつつ、人の顔面にとんでもないモンをぶつけてくれたクソッタレにがなる。しかし奴はそんな俺の苦情なんざどこ吹く風だ。

「殺す!!アイツ絶対殺す!!」

川の水で顔面を鼻の穴に至るまで死ぬほど洗って、鉄に渡されたタオルで顔面を拭って、ようやく少しはマシな気分になった。服を拭うのも忘れない。クソが。

顔面ウンコのおかげですっかり頭から抜け落ちてたが、すみれは無事なのか。慌てて視線を巡らせると、眠たげに目を擦りフラフラと今にも倒れそうな足で立っている小娘がいた。この河川敷には総悟と腐れ天パとチャイナ娘がぶちまけたウンコが山ほどあるわけだが、今のあの女ならその上でも眠りそうだ。潔癖の気があるあの女がそんな状態で寝ていたと後から知ったら大騒ぎになるだろうな。

仕方がねェ。倒れるすみれを腕の中に抱え込んだ。……脈はある。呼吸もちゃんとしている。本当に寝ているだけだ。ただ、化粧で多少カバーされてはいるが少しばかり顔色が悪い。よくよく見ると目の下の化粧が他より厚く見えるのは、その下にあるクマを隠すためのはずだ。

思えば、ここ数日この女の根城である医務室から明かりが消えた事がなかった。呼び出しやらなんやらで仕事が片付かなかったんだろう。

――こんなになるまで働きやがって。

すうすうと気持ちよさそうな寝息を立てるすみれに安堵し、内心で悪態をついた。

すみれを適当な隊士に預けて屯所に帰らせ、総悟を乗っとった魔剣マガナギと万事屋の野郎の決闘に目を向ける。

マガナギの猛攻。剣を食う性質上受ける事は難しい。正直俺なら斬られているだろう。だが万事屋の野郎は魔剣の前に未だ立っている。それも一切の武器を使わずに。さっき魔剣とやり合い今頃はパトカーの中で寝腐ってるであろう小娘でも、武器なしであの太刀筋を躱すのは難しいはずだ。……もっとも、あの女に関しちゃ力量や小細工なんかを超えた『何か』が噛み合っていたからこそアレに肉薄できたように見えたが。

「真剣勝負なんざ、白刃の下、手ブラで散歩するようなイカれた奴じゃなきゃできやしねーんだよ。なァ、沖田くん」

すみれがブラフを撒いて小細工に小細工を重ねてやっとこ詰めた距離を、万事屋の野郎はまさに散歩でもするかのような足取りで詰めていく。

「――いや、違ったか。沖田アイツの太刀筋じゃこんなに見えるワケねーし、ましてやすみれちゃんに一発かまされるわけねーもんな」

すみれのアレでもたいしたもんだと思ったんだが、上には上がいたな。まァ、ちょっと腕っぷしに覚えがあるだけの小娘とまがりなりにも攘夷戦争の生き残りを比較する方が酷な話だ。

「お前、なんのために身体乗っとったの?」
「貴様ァァァァ!!」

激昂した魔剣の地面を割る一撃を躱し、万事屋はマガナギの背中に迫る。振りかぶった右手にはエクスカリバー星人の脇差がある。本体を振り抜いている奴の迎撃は間に合わない。これで勝負が決まるのか。俺も近藤さんも、周りの隊士も固唾を飲んで見守っていた。

しかし俺達の予想とは正反対に、脇差はあまりにも情けない音を立てて総悟の額に当たった。真剣が鳴らす音じゃねーな。ふやけた見た目といい、ありゃ幼児のおもちゃだ。流体金属の身体ってのがイメージ付かなかったが、ああいうことなのか。

万事屋の野郎と中折れカリバー星人が問答しているが、決闘でそんなもんやってる場合じゃねえ。

調子を取り戻したマガナギが再び攻撃に打って出た。悪い事にすみれとやり合った時よりも野郎がリーチをかけた時よりも、ずっと剣戟が研ぎ澄まされている。オイオイ、これよりまだ強くなるのかよ!

剣にも触れられず、しかも肝心要のエクスカリバー星人は中折れしている始末。流石の万事屋も劣勢だ。野郎、表情こそいつも通りのつかみどころのなさだが、内心じゃ焦ってる事だろう。

状況を変えたのは万事屋と魔剣の間に割って入った鞘だ。決闘の景品である、もう一人のエクスカリバー星人。確かサーヤとかいったか。

「ねェ、総くん、お願いだからもうやめ……」

鞘が総悟を案じる言葉に対する魔剣の返答は、本体で鞘を弾き飛ばす事だった。

己が妻への暴挙に怒りの声を上げるクサナギ。しかし魔剣はそれはクサナギの妻ではないという。

驚いた事にあの鞘は鞘子とクサナギの娘らしい。どうやって産んでんだと口を出せる空気じゃねーな。

そしてマガナギが総悟に取り入って決闘に姿を現した理由とは、生き残った父と子を食らうためだ。奴は約束を護るためなんざほざいちゃいるが、『一目でいいから父親に娘の元気な姿を見せてやってほしい』という母親の願いを曲解して自分の願いを優先してやがる。とんだ下衆野郎だ。

マガナギの身勝手な言い分に激昂したのはクサナギだ。ストーブの上に置きっぱなしにしたプラスチックのように軟弱だった鋼の身体を、怒りで無理矢理戦闘態勢に持っていっている。しかし無理を通した結果眠りこけているであろうあの小娘が証明しているように、自分の限界を超えた戦いってのは長くは続けられねェ。案の定、マガナギの一撃を見舞われていた刀身にひびが入った。

塵と化すクサナギに目もくれずサーヤを掴む腕。

「言っただろうクサナギ。俺を謀った時から、お前の運命は決まっていたと」

「俺からアイツを奪った時から、お前はすべてを奪われる事が決まっていたのさ」

「呪うなら、己の切れぬ刃を呪え。このマガナギにたてついた愚かな己を」

滅び行く身で娘の助命を懇願する父親の声。しかしマガナギは本体を鞘に収める手を休めない。まるで見せつけるかのように殊更にゆっくりと納刀する手。

止めねェと。誰もがそう思っていたが、誰も動けない。このまま万事休すか――?

「待てよ」

しかしマガナギの手が止まった。何かが拮抗しているかのように震える総悟の腕。

俺は総悟の感覚が想像できる。味わった事があるからだ。偉そーに腐れ説教かましてきた万事屋に一発くれてやった時、伊東と車上でやり合った時。本来であれば動かせない身体を無理に動かしたあの感覚。きっと総悟も同じ感覚を得ているんだろう。

「気が早ェ」

馴染みのある声が魔剣に待ったをかけていた。

「――鞘におさまんなァ、まだ早ェ」

……すみれの言った通りだ。あの負けず嫌いで頑固な野郎が魔剣なんぞの支配に負けたままで居られるタマなわきゃねェ。そうだ。あの男は魔剣に勝負を預けるような奴じゃねェ。俺はかつて妖刀の支配をねじ伏せた。同じ事が総悟に出来ないはずがねェ。

「抜けよ。――さっさと抜きやがれ」

総悟は不敵に笑んで鞘を引き戻す。

「勝負はまだ、終わっちゃいねェ。アイツらはまだ、終わっちゃいねェ」

奴の剣は朽ちた。しかし万事屋は未だに勝負を諦めていねェ。

狼狽えたのは肉体を総悟に取り返されたものの未だ優位に立っているはずのマガナギだ。奴からすりゃ殴る蹴る斬るまでやって傷まみれ血まみれにした男がそれでも殴りかかってきそうな目をしてるようなもんだからな。そりゃあ怖ェだろう。

「鞘ならあるさ、ここに。――てめーにゃ見えねーのかい。離れ離れになろうとも刀を護り続けた鞘が、父と娘を最後まで守り抜いたこの立派な鞘が」

万事屋は刀を掲げてみせる。俺はそこに、あるはずのない長い刀身を見た。それは夕陽に輝く立派な刃だった。

「刃なんざ何枚こぼれようが、コイツの魂は何一つ傷ついちゃいねェよ。本物の業物ってのはいくら刃が欠けようが、芯が折れなきゃ何度だって叩きあげられる。暑い火にくべれば何度だって蘇る」

「火はまだ消えちゃいねーよ、クサナギ」

「ここに!!この俺の生命の火が!!」そう叫び、万事屋は折れた刀身を自分のケツめがけて突き立てた。

すみれが起きてたら経口補水液なり点滴なりの用意を始めそうな量の血が万事屋のケツから噴き出している。相変わらずとんでもねェ野郎だ。剣を護るために自分の命を削るたァ、まっとうな侍にゃ思いつきもしねェだろう。端的に言えば、ふざけてやがる。

だが総悟はそれを面白いと感じたらしい。

万事屋の野郎に対抗するかのように心臓に魔剣を突き立てた。アレがただの刀じゃないと知っててもどきりとする光景だ。つくづくすみれが帰ってくれてよかったと思う。こんなん見た日にはうるさいぞあの女。

「勝負はフェアじゃねーとつとまらねェ。食いたきゃテメーも食いな。――この俺を、食い尽くせんならな」

雄叫びを上げる鞘達。互いの血を食らったエクスカリバー星人が鞘から解き放たれ、ぶつかり合う。

夕陽すら眩む光が放たれ、ギャラリーの目を焼く。光と煙が収まった後に立っていたのは、総悟と万事屋。しかし、総悟の手にあった魔剣はボロボロと崩れ落ちた。魔剣の言葉を信じるならば、総悟が魔剣を食ったのだ。俺にも近い経験があるから分かる。共存するならまだしも食うなんざやりたくても無理だ。……常々思うが、末恐ろしいガキだぜ。

戻ってきた総悟は鞘を拾い上げ、手にする。その向こう側で、一度は朽ち、万事屋の血を受けて蘇ったクサナギが再び塵に帰ろうとしていた。マガナギが朽ちて出来た鋼の山の上。そこでクサナギもまた朽ちた。

かつてクサナギの身体だったものが煙のように宙を漂う。鉄混じりの煙が、無数のエクスカリバー星人へ手向けられた線香の煙に見えた。

*

決闘から屯所に戻る。医務室のベッドに寝かされたすみれの頬は総悟に弄ばれていた。よっぽど深い眠りについているのか、すみれは少し不快そうに眉をひそめるだけで起きる様子はない。

「それにしてもすみれさんよく寝てるなァ」
「おい総悟。あんまりいじるなよ。コイツ寝起きの機嫌悪いんだから」
「だからでさァ。人の顔面ぶん殴っといて自分はグースカ寝てるなんざ、土方さんは許しても俺の腕は許しませんぜ」

「うーん」とすみれが小さく唸る。

「ごーもんだー……じんけんしんがいだー……べんごしをよべぇーぃ……」
「何の夢見てんの!?」

岩尾のジジイが言うには、女中を呼んで服を着替えさせ化粧を落とさせ、としている間すみれは起きる素振りを見せなかったという。

「こんな働かせ方してたらそのうちぶっ壊れるぞ」
「すまねェ。俺の監督不行き届きだ」
「まァ時期が時期だからしゃあねェ部分もあるんだろうが、せめて仮眠でも取らせるよう言っておいてくれよ」
「おいジーさん、アンタも分かってるだろ。この女が俺の言う事なんざ聞きやしねえって」
「かと言って自分で歯止めきく性格の子じゃねーんだからお前さんにどうにかしてもらうしかないだろ」
「……どうにか、ねェ」

万事屋の野郎にウンコを叩きつけられる前に考えていた事を思い出す。すみれをいっそどっかの誰かの元にやっちまう話だ。……いや、この女が家に入るようなタマなもんか。

いっそ俺が――。

目を閉じて、一つの光景を想像する。俺とすみれが左の薬指に同じ意匠の指輪をはめ、死ぬまで苦楽をともにする、そんなありふれた夫婦になる未来を。……悪くはねェな。だが、それきしで止まる女なのかね、アイツは。

「腹括るのは結構だが、一時の感情とは区別しろよ」

去り際のジーさんが残した言葉を噛みしめる。医務室外の縁側から見上げる空には星が瞬いていた。

「分かってんだよ、んな事ァ」

虚空に届かぬ反駁を投げた。
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