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誰よりそばにいたかった

彼女の笑顔はいつも輝いている。
黒いヒール。歩くたびにコツコツと鳴らして、その背筋はピンと真っ直ぐだ。けれど彼女はいつだってあの背中を見付けると、あの横顔を知ると、あの姿を目に止めると、輝く笑顔は幸せ一色に染まり行く。



「兄さん!」


規則正しく鳴らしていたヒールの音。それが今では華やかな音色を纏っている。
彼女が向かう先はただ一つ。こうして嬉しいと、表さずにはいられない表情を浮かべて走って行く理由も、昔から何も変わらない。



「こら、危ないから走って来ないっていつも言ってるでしょ」

「ふふ、ごめんなさい」


自然と隣に立って、周りの目を気にもせずに空いている腕に自分の腕を絡める。それが周りへの牽制なら嫌味もあった。けれど彼女、柴崎志保のその行為には一切の嫌味がなかった。
ただ兄が好き。妹として、家族として。彼は自分にとって掛け替えのない存在。
それが見て分かるから誰も嫌な顔をしない。寧ろ誰もが彼ら、柴崎兄妹を目に入れると微笑ましく頬を緩ませた。



「あ、これね。今度の防衛任務の資料よ」

「あぁ、この間話してたやつか…」


手渡される一枚の紙を貰い受けた柴崎は歩きながらそれに目を落とす。
遠征となれば期間に違いはあるものの、特殊部隊、精鋭部隊と呼ばれてもすることは他の隊と変わらない。
定期的に回ってくる防衛任務。それには勿論夜間の防衛も存在する。だが未成年に夜間帯を任せるのは悪いと考えた烏間隊面々はなるべく夜間を担当し、偶に日中の任務にも当たるという形を取っている。



「深夜一時から、明け方の五時まで…。志保眠くない?」

「私は大丈夫。それに何度かこの時間帯は経験してるし、問題ないわ」

「そう。逞しくなったね」

「ふふ。私は柴崎志貴の妹だよ?これくらいへっちゃらなんだから」



そう言って笑う志保は得意げだ。まるで自身が彼の妹であることを誇りに思っているような、自慢であると言っているような。だがどれを取ってもそれは彼女が柴崎に対して、兄妹としての好意を持っていることは明らかだった。



「任務後はちゃんと睡眠を摂るんだよ」

「兄さんは?」

「俺はこの任務の後狙撃の合同訓練場に行かなきゃいけないから、直接向かうよ」

「えぇ?じゃあ私も…」

「駄目」


じゃあ私も。その後に続く言葉を柴崎は知っていたのだろう。足を止めて彼は志保の方へ顔を向けた。



「ちゃんと寝なさい」

「兄さん…」

「此処、少し隈になってる。また夜なべして頑張っていた証拠だ」


す─…、と。柴崎の親指が志保の目元に触れる。少し色の濃いそこは彼女の疲れを表していた。そのことを柴崎は分かっていたから彼女の思いを汲まなかった。
汲んでしまえば喜ぶかもしれない。しかしその反面に、疲れた身体で無理をさせてしまう。二つが天秤に掛かったとき、そのどちらを取るかなどは柴崎にとって、多く考える必要もなかった。



「こんな…ただの、」

「志保」

「……はぁい」


しゅん。そんな文字が見えなくもない。見るからに肩を落とした志保に柴崎が少し小さく笑うと、彼は彼女の頭に手を置いた。



「良い子」


ぽんぽんと。ゆっくり頭を叩かれる。離れて行く手の感覚に志保は自身の頭の上に触れた。
昔から変わらない。何かあればこうして頭を撫でてくれる。眠れない夜も。泣いた夜も。不安になった日も。一人で隠れて膝を抱えた時も。彼はいつだって見付けてくれた。そうして笑みを向けて、いつも、いつも、

──「大丈夫」

それが魔法のようだと思い始めたのは随分幼い頃からの話。
嘘を吐かない。出来ない約束は立てない。けれどもしもそれが破れたら、相手の目を見て真っ直ぐと謝る。当たり前のことだけれど、当たり前ではない。誰かの目を見ることすら戸惑いを感じる人はいる。
それでも彼は、決して誰かから目を逸らすことはなかった。


少し歩いた先で追って来ないことに不思議さを感じたのだろう。彼は足を止めて志保の方を振り返った。


「志保?」


こうして呼ばれることが大好きだ。こうして待っていてくれるところが大好きだ。側に居させてくれる。頑張れば褒めてくれる。不安になったら、抱き締めてくれる。そんな兄が、志保は大好きで大好きで堪らなかった。



「っ、と。なに?どうしたの」

「ううん、なんでもない」


ほんの少しだけ此処に来る前のことを思い出した。きっとあれが二人の間で起きた、最初で最後の喧嘩。けれどあれがあったから今があって、今後に繋がっていくのだと思うと、志保はあの時のあの喧嘩が決して無駄ではなかったと思える。




柴崎に抱き付いたまま全く離れる様子を見せない志保の図を偶々見かけてしまった者達がいた。それは残る烏間隊面々と他の防衛隊員達。彼等は歩きにくそうにしながらも特に咎めることもせずに歩いていく柴崎と、そんな彼に嬉しさ満点を表す顔で側を歩く志保の姿を無言のままに見送った。



「あそこって、仲良いですよね」

「兄が兄で、妹が妹だからな〜」


ズゴーっと音を立ててミックスジュースを飲みながら話すのは赤井。彼は椅子の背凭れに体を預けたままで残りを勢い良く吸った。その際若干気管に入ったのか彼は数回咳き込み前屈みになる。
そんな彼に変わって、まるで後を引き継ぐように今度は花岡が口を開いた。



「周知かも知んねぇけど、柴崎って滅多なことで怒んないだろ?訓練とかでは叱る面もあるけど、基本的にあいつって褒めて伸ばすタイプ。だから声荒げるとかそういうの全然しねぇの」

「確かに…」


思い返せば彼が声を荒げてあぁだこうだと言っているところは見たことがない。基本的に指導は穏やか。あの東と隣り合って話している時はというと、なんというか…もうそこはマイナスイオンの源のようだった。



「じゃあ柴崎さんのところの兄妹関係で喧嘩ってないんじゃ」

「いや、一度だけある」


荒船の言葉にそう返すのは烏間。彼は紙コップの中のコーヒーを軽く揺らすと、それを一口喉へと通した。



「だが柴崎とあの子が喧嘩をしたのは、後にも先にもあの時だけだろうな」

「あの時って…」


気になるような顔を見せるのは荒船だけではない。その場に居た穂刈、影浦、村上も同様の顔色を見せている。

あの時。それはもう随分と昔の話だ。まだボーダーが正式に設立していない頃。今のようにA級、B級、C級のランクもなく、数もぐっと少ない…辿るならばあの大規模侵攻以前のことだ。



───


大規模侵攻が起こる数ヶ月前。今の上層部の面々と忍田、林藤、そして後の烏間隊の戦闘員達が一つの部屋で今後の行く末を話していた。


「では今後の対応として隊員の増加の為に募集を掛け、徐々に戦力を上げていく。それまでは今居るメンバーで近界民に対応していこう」


大まかな流れを話し合い出た結果。それに対する異論は誰にもなく、納得の意を示して会議は終わりへと向かっていく。しかし一つ、柴崎には気掛かりなことがあった。それについての話はまだこの会議では出ていない。
こうして多忙を極める面子が顔を揃える機会も次第に少なくなっていくだろう。そう思うと彼は一ついいですか、と。会議の進行を務めていた忍田に声を掛けた。



「どうした?」

「予定しているボーダー本拠地の建設地は今後どちらになるんでしょうか」

「あぁ、そういえばそこには触れていなかったな。三門市を予定、予想地としている」

「三門市…」

「此処からは少し離れることになるが、今までの近界民に関する情報と、ここ最近の動きを分析したところ、私達はあの市が最も出現区域として怪しいと踏んでいる。まだ定かではないがな。…しかしとなると本拠地を構えるなら、現段階でその市が一番だと私や林藤を含め城戸さん達も考えた結果だ」


何か不都合でもあったか?そう問いかけてくれる忍田に柴崎は少し間を置いてからいいえ、と軽く首を横に振るう。



「お尋ねしたかっただけです。ありがとうございます」


柴崎の言葉を最後に会議は終わりを迎える。席を立つ面々を前に彼の隣に座っていた烏間はふ、と。その横顔を一瞥した。
誰かから見れば澄ました顔。そして誰かから見ればいつも通り。しかし烏間から見えたその横顔は、彼が何かを考えているように見えた。

その時、扉の向こう側から声が聞こえる。呼ばれている名前は柴崎にとっても、烏間にとっても聞き覚えのあるもの。二人は顔を見合わせ立ち上がるとそちらへ足を向けた。
彼等が、いや。特に柴崎がやって来たことに周りも気付いたのだろう。まるで後は任せたと言うようにそれまでそこにいた者達はその場を後にして行った。
柴崎はそれを見送ってから、いつから居たのか分からない、恐らくずっと立っていたのであろう一人の少女に視線を遣る。



「どうしたの?志保」


志保。そう呼ばれた少女は前に持って来ていた両手をきゅっと僅かに握り締め、形の良い唇を硬く一文字に結ぶ。その様子は柴崎にも、そして近くにいた烏間と、まだ残っていた赤井と花岡の目にもきちんと捉えられた。



「……兄さん」

「ん?」


彼女、志保と呼ばれる少女の名字は柴崎。兄さんと呼ばれ、少し小首を傾げた柴崎の実の妹だ。

話すか、話さまいか。悩むようにして志保は唇を閉ざしたままで口籠る。けれど一度深く息を吸うと、彼女はその顔を上げて真っ直ぐと自身の兄、柴崎を見上げた。



「私も、ボーダーに入る」


刹那、空気が止まった。それは言葉を向けられた柴崎だけではない。烏間も、赤井も、花岡も。一瞬言葉を失ったのだ。と同時に彼等の意識は志保から柴崎へと移り行く。
彼はなんと答えるのか。彼女の望む答えをやるのか、それとも。そんな問いかけを自分達の心の中で行うも、彼等はなんとなく分かっていた。柴崎が告げる言葉の行方を。

開いた空虚な時間は一体何秒間のものだったのかは分からない。それでも志保は柴崎から目を逸らさなかった。逸らせば負けてしまうと、心の何処かで彼女は感じていたからだ。



「駄目だ」


瞳が揺らぐ。握っていた手は更に強くなり、若干呼吸が浅くなった。それでも志保は逸らさない。逸らしてはいけないと、ずっとずっと自分自身に訴えその心を律していた。



「…っ、どうして…?」

「危険だからだ。これから先、どうなるか分からない。設立予定地とされている三門市も、現状では危険視がされている。そんなところに志保は連れて行けない」


やっぱり。そう思ったのは一体誰なのか。恐らくその場にいた殆どが同じことを思った。
柴崎は、自ら望んでそのような危険な地に大切な妹を連れては行かない。今後はいつ近界民が押し寄せ、どんな戦いになるかも予想が付かない現状だ。それなのにそんなところへなんの対抗力も持たない志保を連れて行くというのは、あまりに無謀で、危険を顧みない行いだ。

とうとう志保の顔が俯かれる。見えなくなったその瞳に何が浮かび、その表情がどんな色に染まっているかなど、長く思い悩む必要はない。
希望を受け入れてもらえなかった。願いを叶えてもらえなかった。募る悲しさと、何処か分かっていた未来と、そんな未来を打ち消したい気持ちと。交錯する思いが志保の胸の中をぐるぐると渦巻く。



「…いや」


だがそれでも志保は諦めなかった。
こんなところで引きたくない。こんなところに置いて行かれたくない。無力なのは分かっている。戦える術がないことも、近界民と対面してしまえば為す術無く死んでしまうかもしれない危険性も、重々分かっている。
しかしそれでも、胸に抱くその思いだけは捨てたくなかった。捨ててしまえばきっとずっと後悔する。だからこんなところでうん、と。首を縦には振りたくなかった。例え自身の兄が思う心に背くことになろうとも。

志保の顔が再びと持ち上がる。瞳は僅かに揺らめいる。だが灯る芯の強さだけは揺れてなどいなかった。




「私も行く」

「志保」

「嫌よ。絶対に、これだけは譲らない」


呆れたのか。それとも普段では見られないその姿に一瞬でも圧倒されたのか。柴崎は彼女から少し目を離して深く息を吐いた。
彼等の近くに立つ烏間、赤井、花岡の面々はこの件に関して一切の口出しはしないつもりなのだろう。
これは兄妹の問題。他かが横槍を入れるような話ではない。だから彼等は事の成り行きを見守るよう、各々が壁に凭れたり、腕組んだりしては無言を貫いた。



「危険だと言っているのが分からないのか」

「分かってるわ。それでも私は、此処に一人残されるのは嫌なのっ」

「だったら実家に帰るんだ。あそこには母さんも雄貴も居る。志保が一人になることもない」

「そうじゃない!私は…っ、…っそれなら兄さんも来てよ!」

「俺は行けない。実家にも帰らない。これからのことを考えても、今抜けるわけにはいかない」


外の世界は以前に増して危険度が高くなった。あの近界民の国と国同士の戦争以来、こちらの世界の安全も揺らいでいる。
いつ戦争が起こるか分からない。いつ事態が急変するか分からない。多くの人が死に、逆に多くの人がなんの被害も受けない可能性もある。

だが、未来は分からない。誰にも読むことは出来ない。だから人は対策を練って、その時に備えるための万全を期そうと努力する。



「…確かに、兄さんは強いわ」

「……」

「兄さんが抜ければ穴は大きい、分かってる」

「だったら、」

「でも私は、兄さんの居ない場所に帰りたくない…っ」


いつだって前を歩いてくれていた。転けそうになって、躓いて、膝を怪我して泣いて…。それでも一人先を行くことはなかった。必ず走って帰ってきてくれて、時にはおんぶをして家まで一緒に帰った。
幸せだった。ずっと続くと思っていた。この先の未来で兄である彼が誰かと結婚したとしても、変わらず続くと思っていた。

手を離されることはないと、信じていた。



「っ私のことを思うなら、私も一緒に連れて行ってよ!」

「志保…、」

「っ、」


顔を上げた瞬間に流れ落ちる涙。それを拭うこともせずに志保は俯き、そして走って行く。横切って足音を響かせて、流れる涙を荒く拭って、歪む視界もそのままに。
我儘だと分かっている。彼の気持ちも十二分に志保にも伝わっている。それでも、一緒に居たいと思う心は止められなかった。

離れたくない。離さないで。遠くに行かないで。遠くに行って欲しくない。もう会えなくなるかもしれない。それが怖い。あの優しさに触れられなくなったら…そう考えるだけも足元が暗い。
もう名前で呼んでもえなかったら、どうしたらいいんだろう。志保、と。あの優しい声で、待っていて欲しいと思う人が居なくなってしまったら…どうしたらいいんだろう。


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