2

誰よりそばにいたかった

もう遠くに聞こえる。いや、正確にはもうあの音は聞こえなくなってしまった。
泣かせてしまった。多分初めてだ。転けて涙を流すことはあっても…そもそも喧嘩なんてものをしてこなかった。する必要もないくらいに仲は良好だったから。



「…追ってやらないのか」

「……追ったって、今の状態じゃ碌な話も出来ないよ」

「…それも、そうかもしれないな」


人は迷う。迷って、答えを探していく生き物だ。だがどんなに迷ったところで、たった一人で自分が正しいと思える答えに出会えることはそう多くない。誰かの力を借りて、誰かの言葉を聞いて、それに心を動かされる。そうして人は、漸く答えを見つけられる。
一人では生きていけない。それはきっと衣食住の話だけではない。頭や心臓と同じくらいに大事な心を支えるために、人は一人では生きていくことが出来ないのだ。

まことしやかに囁かれるものに本当に欲しい答えはない。自分が欲しいと思うものは、きっと本当の最後に自分の手で選び取った唯一無二のものなのだろう。






夜の此処は静かだ。誰も居ないわけじゃない。しかし多くの人がいるわけでもない。それでも何か物思いに耽るのなら、一番の場所だった。

置かれているベンチに腰掛けて、柴崎は昼間のことを思い出す。あれから志保とは顔を合わせていない。けれど合わせたところで何が最も正しいのかを分かっていないままでは、どの道意味が無いと思った。

その時、目の前に差し出される紙コップ。仄かに香るそこからは芳醇な、眠気を覚まさせるようなコーヒーの香りがした。
柴崎は顔を持ち上げる。見えた先にはもう片方にも同じようにカップを持った烏間が立っていた。



「…ありがとう」


受け取って、口は付けずに膝の上へ持って行く。その様子を烏間は見届けてから、彼は柴崎の隣に腰掛けた。軽く傾け、中身を喉へと通す。少し熱いくらいのそれが喉の奥を焼く。



「お前は正しい」

「……」

「この先のことを考えて、最も安全な道を選んでいる。あの戦争以来、こちら側の住む世界の安定も揺らぎ始めた。その上忍田さん達の話によれば、現状で危険視されているのは三門市だ。お前の実家はその市からまだ離れている。確実とはいえないが、安全といえば安全だ」


力を持たない者は対抗する術もなく死んで行く。或いは能力の高いトリオンを所持しているなら、その力を利用される可能性も出てくる。
どちらにしろ危険は危険。安全と判を押せるだけの証拠はない。この世界は平和ではなくなった。ある時から突然、あちらとこちらの世界の天秤はぐらつき始めたのだ。



「もう今までのようにはいかない。この先、命を落としてしまう未来だってないとは言い切れない」


柴崎の瞼が閉ざされる。
そう、これを恐れていた。生き残れる未来と、生き残ることの出来ない未来と。大雑把に分ければ二つの分かれ目が存在する。柴崎はその後者に、志保が巻き込まれてしまうかもしれない未来を恐れていた。
だからあんな言葉を発した。冷たくても、突き放してでも、彼女がこの先も安全に暮らせるならそれ以上に望むことはなかったから。



「…だがそうと分かっていて、お前は悩んでいる」

「……言ったことに後悔はない。あそこで素直に志保の要求を受け入れることは、正しくなかった」


昔からあまり無理を言うような子ではなかった。我儘は言うけれど、こちらが本当に困ってしまうような…理由を察せられないようなことは決して。
だからこそ悩んでいる。あの子があぁも言うほどに、今回のことは志保にとって大きなことなんだと、知ってしまったから。
泣くほどだ。あんなにも大粒の涙を零してまで、彼女は必死だった。連れて行って欲しい。置いていかないでと。酷く、酷く、懇願していた。



「…難しいね。一番だと思える選択肢が今は見えない」

「……」

「あの子を守りたいだけだったのに、逆に傷付けて…泣かせてしまった」


本当に欲しい答えはなんだろう。一番に求めている答えは、何処に、なんと綴られているんだろう。
誰かの心?それとも瞳?…確かなものは目に見えるところに軽々とは転がっていない。だから難しい。だから悩む。だから、納得出来る答えを出すために人は模索をする。

柴崎は烏間から受け取った温かいコーヒーを喉へ通す。蓋の被っているその中身は熱くて、ほんの少しだけ舌を火傷した。



「悩んだら良い」

「、」

「時間の限り悩んで、その結果出た答えが、本当にお前が選び取った答えだ。誰にも左右されない、柴崎の心が確かに指し示した唯一のものになる」


大事だから悩む。大事だから守りたいと思う。けれど守りたいと思い過ぎて、それがいつしか逃げに変わってしまっている時もある。
自分の気持ちと、相手の気持ちと。時に片方だけを見がちになるのは良くあること。しかし良くあるからこそ、何かを決める時、悩む時。片方を置き去りにしないでちゃんと両方を視野に入れなければならない。
でなければ誰も納得しない。頷いて、足は止まったままになる。



「時間はまだある。だからお前もあの子も、後悔しない道を選べ。この件に関して俺たちは一切の口をこれ以上は挟まない。…挟むべきでもないと思っている」


これは柴崎と志保の問題。家族の、兄妹の問題だ。他が手出しをすることではない。それを烏間も、そして柴崎も。お互いに分かっていたから異論はなかった。

柴崎が手に持つカップが再びと握り直される。最善の決断。最善の答え。未来は分からないことだらけだ。














あれから何日が経っただろう。柴崎と志保の間に会話はない。忍田や林藤、小南はそんな彼等の様子に不思議そうな顔色を見せた。迅に至ってはどうやらこの未来は見えていた一つらしく、彼はいつもと変わらない様子だ。
その迅以外の面々が近くに居る烏間や赤井、花岡へと視線をやる。しかし緩く首を振られるだけ。理由は聞けなかった。けれど口を挟むべきではないということは誰の心にも理解が出来た。


夜。まだ寝静まるには早い時間帯に柴崎はある場所を訪ねた。それは部屋でもなく、キッチンでもない。ただ静かに存在する小さなベンチだった。
手には温かな缶が二つ。一つはコーヒー。もう一つは、ミルクティーだ。
柴崎はそれを手に少し靴音を響かせて見えた小さな影に近付いた。側まで来て立ち止まる。そこでようやく、その小さな影はゆっくりと顔を持ち上げた。

目が合ってから、柴崎はミルクティーの方を差し出した。迷うように瞳が揺らぐ。それからか細い声でありがとうと、告げてからその影は差し出されるそれを受け取る。
緩く、繊細に睫毛が揺れた。手元のミルクティーへと落とされる視線に、柴崎は何も言わずその隣に腰掛けた。



「…俺はね、志保が思うほどに格好良いお兄ちゃんじゃないんだよ」

「え…?」


一度は下がった頭が持ち上がり、再びその目は柴崎を映す。けれど互いに瞳が合うことはなく、彼の目は依然として少し向こうの、なんてことない白い床を見ていた。



「危険だと分かって居る場所に連れて行きたくないのは、志保が傷付いてしまうかもしれない未来を怖がっていたから。実家に居ればそんなことにならずに済むって、自分が安心するためだったんだ」

「兄さん…」


誰だってそうだと思う。家族、恋人、親友…。大切だと思う人を守りたいと思えば思うほど、視野は段々狭くなる。後からあぁすれば良かった、こうすれば良かったと。縋るように結果論で語りたくないから、そんな醜い自分から逃げるように楽な道を選びたがる。
それはつまり、自分の思うように進めば衝突も軋轢もない。不安も消えて、脳裏に浮かぶ「もし」なんていう仮定の未来に怯えなくて良い。



「志保があんな風に、泣いてまで乞うならよっぽどなんだなって…ここ数日考えて思った。昔からお前は、俺に似て周りを困らせるようなことをする子じゃなかったから」


けれどそれでは駄目なんだと、そう思えるまでには考える時間が必要になる。自分と向き合って、相手と向き合って、心を整理しなければならない。
単純ではないのだ。一人ではなく、誰かと一緒にとなると。それが家族であってもなんであっても同じだ。繋がりを持つ難しさと、相手を忘れない気持ちは変わらない。



「泣かせてしまったことに後悔した。志保のことを、傷付けてしまったことにも」

「それは…私が、…私も、我儘を言ったせいで…。兄さんが全て悪い訳じゃ、」

「良いんだ、言ってくれて」

「ぇ…?」


柴崎の目がゆっくりと、志保に向く。こうして互いの目がちゃんと合うのはいつぶりだろうか。ひと月と経っていない筈なのに、もう随分長くこうしていなかったような気がする。



「良いんだよ。我儘を言っても」

「兄さん…」

「沢山我儘を言って、もっと周りを困らせたって構わない。そんなことで俺も、烏間も赤井も花岡も、誰も志保を嫌いになることはない」

「っ、」


目尻に浮かんでいた涙がポタリ、と。頬を伝って膝の上に置いていた志保の手を濡らす。
柴崎は持っていたコーヒーの缶をベンチに置くと、そのぬくもりで少し温かくなっている手でやんわりと。濡れた志保の頬を包み、親指の腹で拭った。



「一緒においで、志保」

「っ、…ッ良い、の…っ?」

「ん?」


嗚咽の隙間で聞こえる小さな声。拾え切れないほどのそれは微かに柴崎の耳に届いた。けれど確かにと聞き取ることが出来なかった声を、彼はもう一度聞き返すように言葉を掛ける。
その声を耳にしながら、志保は頬にある兄の手に触れた。温かい。大好きな手だ。幼い頃からずっと、誰よりも頼りになって、離したくないと思える手だ。



「私…っ、兄さんの言う通り、お荷物になるかもしれない…っ」

「……」

「戦えないから…っ、迷惑だって、たくさん…っ、掛けてしまうかもしれない…っ」


ずっと、あの言葉を告げて、頭が冷静になってから思っていたこと。
間違いではない。兄の言い分は正しかった。これから危険になると言われている三門市へ連れて行ってくれなんて、我儘も度が過ぎた。
困らせてしまった。喧嘩を、してしまった。どうしよう、どうしよう。そう思うのに目を合わせられなくて、話し掛けられなくて…今日までずっとこうしていた。

離れたくないことは本音。置いて行って欲しくないことも、本音だ。けれどそれは言ってはいけないことだった。我慢をして、この地で兄を見送ることが正しかった。
そう、時間が経ってやっと分かったというのに…心はいつまでも、いつまでも…本当の思いを根強く持ち続けた。



「兄さんの邪魔を…してしまうかもしれない…ッ」


離れていかないで。
大丈夫、見送れる。
いや、置いて行かないで。
見送らないと。いつまでも甘えちゃ駄目。
連れて行って。一緒に、手を離さないで。
行ってらっしゃいって、ちゃんと言わなきゃ。

二つの思いが交錯して嘘が本音を覆い被していく。胸がズキズキと痛む。じくじくと、息が苦しくなるほどに。




「邪魔かどうか、迷惑かどうかは俺が決める」

「っ、!」

「…でもね、志保」


ぐずぐずと、まるで小さな子どものよう。抱き寄せられる腕の中に収まって、その衣服を涙で濡らしていく。



「そんな心配しなくて良いんだよ」

「っふ、ぅ…っ」

「おいで、志保。一緒に行こう」


ぎゅっと。強く強く、柴崎の服が握られる。腕の中で泣く志保の肩は震えていて、だから彼はその髪を優しく撫でた。



「大丈夫。俺が志保のことを守るから。怪我なんて一つだってさせないよ」

「っ、うん、うん…っ!」

「今度の休み、一緒に母さんと雄貴のところへ行こう。ちゃんと話さなくちゃね」

「うん…っ!」


兄妹でも話さなければ分かり合えないこともある。家族だからと省くのではなく、家族だから隠してしまいがちな本心をきちんと話し合わなければならない。
まぁいいかと妥協出来るのは関係の薄い他人だから。対して心にも留めなくていい相手だから。そうすることがその場では最善だと思うから。
けれど家族は、そのどれにも当てはまらない枠にいる。だから話し合うことを諦めてはいけない。諦めてしまえば、見えるはずの未来も、手の届くはずの未来も、なかったことになってしまうから。



「兄さん…っ」

「うん?」


毎日は選択に溢れている。そのどれを選ぶかは個人の自由。そこに開放を感じるのか。焦燥を感じるのか。捉え方は人それぞれだ。けれど誰もがみんな毎日毎日、悩んで、模索して生きている。そう見えない人でも、同じことだ。



「大好き…っ」


最高に基準はないけれど、それでも心が喜べばそれがその人にとっての最高になる。幸せも嬉しさも同様だ。それなのに不幸は似通っているのだから、この世界は不思議の連続でもあると思えた。



「俺も。志保が大好きだよ」


ほらほら、そんなに泣かないの。目が腫れるよ?
うぅ〜…っ、止まらないの〜…っ。

夜の通路。更けた真夜中。少し遠くから聞こえてくるこそこそ声に、柴崎は小さく笑う。心配を掛けてしまったことを後で謝って、それから…そう。ありがとうと伝えよう。



───



「それ以来あの二人の間に喧嘩はない。これから先もないだろうと、俺は思っている」

「…なんか、地上波で流れてるドラマより感動する話っすね」

「烏間さんの背中押しっていうか、言葉が柴崎に響いたって感じなんですか?」

「どうだろうな。結局答えを出したのはあいつだ。俺があいつに声を掛けたのは、随分似合わない顔をして思い悩んでいたからだ」


即決が癖ではない。だが柴崎がうじうじと悩むような質ではないことを烏間は知っていた。そこを突くわけではないし、突こうとも思わないが…言うならただ単純に彼の力になってやりたかった。
理由は大袈裟ではない。しかし悩みに悩んで、彼女以上に思い悩む柴崎の顔は本当に、彼には全く似合わないと思えてしまった。それだけだ。



「それにあいつさ、本っ当かっこいいんだよ!」

「え?」

「いや、そんなの知ってますけど」

「やめろやめろ!出鼻を挫くな!話させろ!」


今から話すって言うのになんだお前らは!そんな声を上げるのは赤井で、彼は前に座る穂刈と荒船に向かってペイッ!としっぺをした。



「で、何なんすか」

「影浦おま…まぁいいや。それでな、柴崎ってば本当に言葉通り、今まで一度だって志保ちゃんに怪我負わせたことねぇんだぜ」

「え、」

「マジですか?」

「まじまじ大マジだよ」


な?烏間。そう赤井が尋ねた先に居る烏間は温くなってしまった残りのコーヒーを飲み干すようカップを傾けていた。


「事実だ。柴崎は一度もあの子に傷を負わせていない」

「…うそぉ…」

「本当だ。あの初の大規模侵攻の時ですら、柴崎は『隊の動きに影響は与えない。いつも通りに動く。でも本拠地に被害が行くようなことがあれば、その時はそっちを優先させて欲しい』と言ってきた。それだけあいつにとって、あの時の約束を破る気はさらさらないんだろう」


そうして実際、彼はその約束を今も尚継続し続けている。
出来ない約束は立てない。昔から彼が心に留めているものだ。破られることなく長く長く、貫かれ続けている志だ。




「隊室に居ないと思ったら此処に居たんだ」

「柴崎」

「お、なに?俺らに用事?」

「今度の防衛任務について話そうと思って」

「あ〜〜はいはい!もうすぐ俺らの番か!」

「深夜帯ね」

「 深 夜 帯 」

「学生に任せるには悪いからな。その分長期の任務では防衛任務を回してくれているんだ。五分五分だろ」

「そーだけどねー!」


んじゃ早速会議でもしますかねと席を立ち始める烏間隊の面々。それを目で追う荒船、穂刈、影浦、村上。
なんとも豪華な面子だ。烏間隊がこうしてラウンジに揃っているなど、あるにはあってもまみえることがない。

その時トンっと柴崎の体が若干前のめりになる。



「見付けた?兄さん」

「うん、ラウンジにいたよ」


柴崎の後ろから抱き付いて来たのだろう志保の腕が彼の胴に回る。目の前で行われるその仲睦まじい様子に烏間から話されたあの話が本当であることを目の当たりにした。
喧嘩のけの字も見えない。聞かされたあれも喧嘩といえば喧嘩ではあるが、辿り着いた先は酷く胸にジーーン…と来るものがあった。

しかしだ。



「…志保さん、流石は柴崎さんの妹だけあって綺麗だな」

「穂刈、お前死にたいのか」

「でも志保さんは綺麗だと思う。柴崎さんも綺麗だし、美形家系なのかもしれないな」

「良いこと言うじゃねぇか鋼。その通りだ」

「お前のそれどうにかなんねぇのかよ」

「お前柴崎さん馬鹿にすんなよ」

「してねぇよ!!」


あぁだこうだと話しているB級軍団。その会話がこの場に同じくして居る烏間隊のメンバーに聞こえていないとは、思っていないだろうが忘れている勢いで話していることは事実。誰の耳にも筒抜けだ。



「ふふ。兄さん綺麗だって」

「志保もでしょ。…っていうか毎回のことだけど男の俺に言われてもね…」

「まぁでもお前の顔は整ってるよ」

「中身はイケメンだけど外見は美形だもんな、志貴くんは」

「?柴崎の中身はそれだけではないだろ。こいつのメインは殆ど温厚で出来ている」

「……そだね」

「……うん、そうだわ」

「流石惟臣さんっ。兄さんの良さを一番分かってくれてる!」

「(…烏間と志保は混ぜるな危険なんだよねぇ…)」


しかし柴崎関連では実戦以上に混ざってしまうので、そうなると聞き手かツッコミかに回るしかない。赤井は遠い目、花岡は菩薩顔。柴崎は…少し遠くの光景に目をやっていた。
いやはや、平和な光景である。

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