高嶺の花にチェックメイト 3



先程手首に走った時と同じ痛み。それと纏め上げらた際に握られる手の強さにぐっ、と柴崎の眉が顰められる。これは随分強く殴ってくれたもんだと、目の前の男を開けた視界の先で彼は認めた。



「思っていた以上に大人しくない。まるで君は猫のようだ」

「…さっきまで猫被りをしていた誰かさんに言われたくないね」


此処は路地裏。表の道より少し遠ざかってしまった。携帯も、今柴崎がいるところより離れた位置に落ちている。烏間には防衛省近くの病院とだけ伝えたが、もっと明確な場所を伝えるべきだったと悔やまれる。



「人の通りから逸れた此処で両腕を捉えられても強気だね。…そういう面もあるのか。いいなぁ…」


近付けられる顔が気持ち悪い。柴崎は明からさまに顔を歪め、近付くなと言わんばかりに目の前の男の腹に向かって足で蹴った。すると丁度その位置が鳩尾だったのか、男は顔を歪めて俯く。力加減などせず打った。だから本来なら蹲るくらいには苦しいはず。なのにこの纏めてくる手の力は抜けないのだから、やはりこの男は油断ならないと柴崎は察する。



「…っ…痛いなぁ、なにするんだよ」


しかし全く効いていない、というわけでもなさそうだ。ということはやはり少しばかり体に巡るあの笑気ガスが原因と見える。力半分、出せたか出せていないか微妙なところ。あのガスさえなければ今の一発で確実に落とせた。柴崎は調子の出ない自身の体に内心舌打ちを打つ。刹那、男の手が伸ばされそれは柴崎の頬に当てられた。そのままツゥ──…と首筋を通り、元へ辿られる。



「はぁ…白いなぁ…綺麗な肌だなぁ…。此処に痕がついたらさぞ生えて綺麗なんだろうなぁ…」

「っ、触るな…!」


ネクタイに指を引っ掛けられ、下へ引かれるとそれは絡まることなくシュルリと解かれていく。首から流れるようにそれは滑っていき、誰に拾われることもなく静かに地面へ落ちていった。柴崎は間を詰めてくる男に抵抗するよう自由な足で距離を取るべく膝でその体を押す。ぐっ、と。先程と同じように鳩尾へ皿を食い込ませれば男は苦しそうな声を上げた。




「…っ、ほんと、猫みたいで、君は可愛いよ…」

「っ、」


伝えられる言葉全てに虫唾が走る。触れて来る手や指が気持ち悪い。鳩尾へ食い込むその苦しさや痛ささえも享受しているように表情をうっとりさせ、上体を項垂らせることをついでにその顔を首筋に埋めてくる。嫌悪感、フラストレーション。それが早い速度で着々と溜まっていくのがよく分かった。

もういっそ叫んでやろう。そう思い口を開き息を吸えば、それを待っていましたと言わんばかりに先程のあの笑気ガスを滲ませた白の布を充てごうてくる。柴崎はそれだけは吸わまいと息を詰め、呼吸を止める。



「っ、つ…ッ」

「吸っていいよ。その方が楽になれる。息なんて詰めていたら苦しいだろう…?ほら、一思いに吸ってしまえ」


ニヤニヤするな。近付くな。顔を埋めて触れて来るな。そんな否定の言葉ばかりが柴崎の脳内を占めていく。息は苦しい。確かに吸ってしまえば一時は楽になれるのかもしれない。けれど吸えば、それは一生の後悔に繋がると思えた。

こんな状況でも彼の脳裏には烏間の姿が浮かぶ。名前を呼んでくれる時の優しさと、手を取ってくれる温かさと、抱き締めてくれるあの腕の中のぬくもりと…。




「っ…、っつ、」



こんなところで、こんな男の良いようにされる?冗談じゃない。舐めてくれるのも大概にしろ。被害妄想ばかりを押し付けてきて、最後は強行手段で陥れようなんて随分甘く見られているもんだ。

両腕の自由は効かない。だからなんだ。腕が駄目なら足がある。二本もあるならそれを使わない手はない。今この時、歩く為だけにあるのならそれは大層お粗末だ。撃退出来得る術を持っているのだから、こんなところで持ち腐れていては本当に腐れて落ちてしまう。


柴崎は視線を僅かに通りの方へ向ける。きっと彼は探してくれている。自分の姿を必死になって、あらゆる所を見て回っては汗を掻いているに違いない。烏間はそういう人だ。自分のために、必死になってくれる。何を置いたって掛け替えのない、大切な人だ。




「(…だからこそ絶対に、負けられない)」



己の心にも、今の状況にも、この男にも。

柴崎は瞼をゆっくりと落とす。肩の力もそれに習うようにし、抵抗するために相手の腹へ食い込ませていた足からも、纏め上げては掴んで来る平を押し上げていた腕からも。全身、全ての力を彼はゆっくり、ゆっくりと無くしていった。そのうち体は少し前に傾いて、男は掛かる体重の重さにいやらしいまでの笑みを浮かべた。

これで彼は自分のものだ。これであの男から奪える。二度と離さないように閉じ込めてしまおう。零れ落ちるは堪えきれなかった笑い声。男は柴崎の口元から押し当てていた布をゆっくりと離す。纏め上げている手はまだ離さない。もう少し後ろに下がってから離せば、重力に逆らって真っ直ぐとこの腕の中へ落ちてくる。これで良い、これを待っていた、もうずっと、ずっと前から。愉快な笑みが消えない。愉悦な笑い声がはしたなく落ちていく。

ほんの少しだけ男は手の力を緩めた。しかしそれが最大の落ち度であり、耳の鼓膜を揺らした " 声 " が脳内に深く響き渡るよう余韻を残した。




「元自衛隊員を舐めるなよ」



え、と思ったが束の間。そして通りに繋がる路地裏の入り口に人影が見えたその瞬間。男は脳が揺れるほどの衝撃を顎下から食らった。ぐわんと視界が大きく揺れて、平衡感覚が掴めない。手足からは呆気なく力が抜けていく。そして気付けば見事KO。男の意識はブラックアウトした。

ドサリ。大きな音が路地裏に響く。柴崎は詰まっていた息をするよう大きく酸素を吸った。瞬間酷く聞き覚えのある声で名前を呼ばれる。



「ッ柴崎!!」


振り返る間も無く抱き締められて、その肩の向こう側に見えた幾つもの顔は驚きの色に満ちている。しかし皆が一斉に我に返ったような反応を示すと、そのうちの一人の男性が周りに響き回るような声で叫んだ。



「現行犯逮捕!!」



途端路地裏には幾人ものの警察官が突入してきて、あれよあれよという間にあの例の男は警官達に連行されていった。柴崎は突然のことに頭が付いて行かず、ただ離されない、強い抱擁を感じながらその光景を見送っていた。

辺りは静かになる。人気を感じない。あれだけ溢れていた人の数も、今や烏間と柴崎だけになった。少し冷たい風が路地裏に舞い込んできて、頬を撫でるように去っていく。柴崎はぼんやりとそれを感じていると、とても苦しそうな、感情を押さえ込んだような声が耳元近くから聞こえてきた。




「……すまない」


一体、何がだろう。じんわりやってくる疲労感に身を任せながら柴崎はそんなことを思う。



「…側にいて、お前を守ってやると言ったのに…」


結局最後は守ってやれなかった。悔やまれるような、苦しくて、不甲斐なくて堪らないと言うかのようなその声、その言葉に、柴崎はあぁ…と。やっとその意味を理解した。すると長く焦がれていた温もりを近くに感じて、触れたい、触れて欲しいと思っていた存在に抱き締められて、心は堪らなくなった。ずっと持ち上げず体の横にあった腕を動かして、それをそ、と。柴崎は烏間の体に回した。


恋しかった。求めていた。彼の温もりを、体温を。全てを守ってもらおうなんて思っていない。出来得る限り自分の身は自分で守る。それは烏間にもきっと分かっていたはずだ。柴崎がただひたすらに守られるだけの存在ではないことを。もしも囚われたならば、その時は自力で体勢を立て直すくらいの度胸はあると。

しかしそれでも、ヒヤリとしたのだ。電話の向こうから聞こえてくる会話に、荒々しいような男の声に。もしも彼が乱暴をされていたら…。そう思うと、いつもは柴崎から温かいねと言われる烏間の手も、冷たく冷え切っていった。早く見付けなければ。早く側に駆け付けてやらなければ。そう思いながら知り合いに連絡をし、救助願いも出した。

暫くして、一人の男性が誰かの腕を引いてあの路地へ入って行くのが見えたという証言を受け、烏間はそちらへ足を走らせた。そうしたら見えた光景に、一瞬は唖然。しかし流石だと思った。的確に顎下、脳が揺れると言うその場所をひと蹴りで当てた柴崎に。男が倒れて、彼が息をした瞬間、止まっていた頭も足も動き出した。気付けば柴崎の名前を呼んでいて、振り返る彼の顔をちゃんと見れもしないままにその体を抱き締めた。


守ってやりたかった。最後まで側に居て。そうすれば彼がこんな思いをせずに済んだ。烏間の中には後悔の念が渦巻く。そんな中背中に腕を回され、彼は抱き締め返される。肩に顔を埋めてくる柴崎に烏間はもう一度すまないと謝った。聞こえてくるそれに、柴崎は瞼を落としながら小さく笑みを浮かべる。




「どうして謝るの?烏間は沢山してくれたよ」

「…俺は何もしていない。ただ出来る限りお前の側を離れなかったくらいだ」

「…それだけで十分」


本当に、十分だ。初めは一人で悩んで、解決しようとしていた。烏間には何も知らせず、終わらせようとしていた。けれどこうして知ってもらい、側に居てもらえるだけで気持ちというのは大分楽になった。いつ何処で見られているか分からないという不安感と不快感。それも烏間が側にいてくれたことで薄れていたのも事実。柴崎はちゃんと救われていた。烏間という存在に。



「ありがとう、烏間。ずっと側にいてくれて。こうやって見付けてくれて」



本当にありがとう。そう心からの思いを伝えると、柴崎は一層強く烏間から抱き締められた。それにくすくすと笑みを落とせば、彼もまた負けないくらい強くその体を抱き締め返した。

やはりこの温もりが何よりも落ち着く。この香りが一番好き。彼の声が、存在が、今一番の薬だ。柴崎はその鼻先を擦り寄せるよう烏間の首元に顔を埋める。すると優しく髪を撫でられるから、心はずっと穏やかになった。











しかし帰宅をしてからというものあの肌に残る嫌な感覚が抜け切らず、無意識に首元や筋に触れていると烏間に理由を聞かれた。その際は隠さずありのままの事を話せば、まるで消毒だと言わんばかりに上乗せのキスをされる。いつもなら擽ったいやら恥ずかしいやらと顔を逸らすのだが、その時ばかりは柴崎もそうはしなかった。



「後はどこだ」

「ふふ、もう全部上乗せしてくれたよ」


だから大丈夫と言うけれど、依然として烏間からは不機嫌な色が消えない。それにくすくすと柴崎が笑いを零せば、彼は目の前にいる愛しい人へキスをした。勿論それは頬や額などではなく、ちゃんと烏間の唇へ。離して真っ直ぐ彼の瞳を見つめると、募っていた苛立ちは多少薄らいだのだろう。仕方ないなと言うかのように少し口元に笑みを浮かべ、今度は烏間から、柴崎の唇へキスを送った。その甘やかさに瞼を落とし、それからそ、と柴崎は烏間の肩に手を添えた。
















あれから一日が経った。昨日は烏間、柴崎の気持ちを汲んでか、警察側も探偵事務所側も野暮なことはせずにあの場を立ち去った。状況の説明や事情聴取などは急がずとも大丈夫だ。それよりも今はそっとしておいてやろうという周りからの気遣い。それに一日甘えた二人は翌日、昨日のことを話すために警視庁へ赴いていた。そこには初めに相談をした毛利探偵事務所面々(小五郎、蘭、コナン)も来ていて、しかし二重説明にならずに済むと思えば有り難いものだった。

警察側から話を聞けば、あの後男は容疑を認め、自宅からは柴崎へ送り付けられていた写真以外にもまだ数十枚の写真が発見されたと言う。それを聞くや否や烏間の眉間には皺は寄るし、柴崎の顔色は悪くなるしで散々だ。まだあるのか…心境とすればそんなところ。早急の処分を願い出れば勿論ですと力強く頷かれた。



「あと、強制猥褻罪で…」

「強制猥褻罪!?」

「え、柴崎さん…猥褻行為されましたよね?」


あれ、話を聞けばあれもこれもしたと供述されたのですが…という佐藤の話にとんでもないと柴崎は否定をする。



「た、確かに触られましたがそんなあっちこっちとされたわけじゃ…っ」

「?高木くん、容疑者の彼は柴崎さんに性的行為を行ったって言ってたわよね?」

「は、はい。それも結構誇らしげに…」

「されていませんっ!誤解です!」


どうしてそんなにも話が飛躍しているのか。疑問は絶えず浮かび上がるが、大方あの男が捕まっても尚そんな妄想をしているのだろう。なんて脳内花畑野郎だ。今にも柴崎の隣に座る烏間が一発殴りに行きそうな雰囲気を醸し出している。



「第一俺には烏間がいるのにそんな…っ、…ぁ、」

「え、」

「へ?」

「えっ」

「は、」

「ん、?」



一部屋の、視線全てが、注がれる。

実際そんな一句を読んでいる場合ではない。柴崎はつい零れてしまった自分の発言に固まる。また同じく周りの人間も固まっており、烏間に至っては……別にそんなに大きな反応を示していなかった。言うならば少し驚いているくらいで、責める色などは全く見えない。しん…とした空気が部屋の中に広がる。短いはずのその時間が物凄く彼等には長く感じた。




「…柴崎」

「あ、の…」


ごめんなさいとか、申し訳ないとか、今のは言葉の綾ですとか、勢いで出ちゃっただけなんですとか。そんな言葉を出せたなら良かったのだろう。しかしそれが今何一つとして出てこない為に、柴崎は烏間からポン、と優しく背中を叩かれ、更にはよしよしとそこを撫でられている。次第にかぁ…と赤くなる彼はもう弁難の余地もない為に顔を下に俯ける。そのとき小さく、誰に向けてか分からないごめんなさいの声が聞こえた気がした。



「…まぁ、そういうことです。あとこいつはそう簡単に黙ってやられる質でもありませんので、その供述はただの被害妄想かと思われます」


うぅ…っと小さくなる柴崎に未だよしよしの背中を摩る烏間は彼の代わりに弁論を述べる。周りは長らくの沈黙を置いて、その後ドッと湧くようにして大きな反応を見せた。



「な、なんと…!」

「えぇ!?そ、そうだったんですか!?」

「烏間さんと柴崎さんが恋仲…!?」

「きゃー!そうだったんですね!?」

「(あちゃー…柴崎さんぽろっと言っちゃったなぁ。てか烏間さん、全く怒らねぇ辺り流石としか言えねぇ…)」

「それならば尚更にあの男の発言はもう一度一から洗い直します!!烏間さん柴崎さんっ、この案件は我々にお任せくださいっ!」


警部っ、そういうことなのでお先に失礼します!さぁ行くわよっ高木くん!そう佐藤が言えば彼女は高木の腕を引っ掴んでこの会議室を出て行った。表情的にやる気は満々。洗いざらい正確な情報、供述を吐かせる気なのだろう。一方会議室に残された面々といえば、まず蘭がコナンの手を取ってきゃあきゃあきゃあきゃあと騒いでいる。なんだかそんな気がしたのよ!やっぱり当たってた!と、大変こちらは嬉しそうだ。それにそうだね蘭ねぇちゃん。よかったね、当たったね。とコナンは子どもらしく笑っているが、こちらは知人の灰原より明かされていた為に然程驚いてはいない。小五郎と目暮といえばついて行けずにポカーーーンと。目が点な状態を継続中だ。そして烏間と柴崎はといえば…。



「大丈夫だ柴崎。俺は気にしていないし、人間ポロっと出てしまう時もある」

「そ、そんな、ポロっとなんて…っ、簡単に出たりしないよ…っ」


あぁもう〜…っ、本当にごめん烏間〜…っと顔を伏せて机に落ちている柴崎を烏間が慰めていた。余程己のうっかり行為に反省の念と後悔の念が強いのだろう。彼は頻りに烏間へ謝罪の言葉を述べている。それに一つ一つちゃんと烏間は返事をしていて、怒っていないだの気にしていないだのを繰り返しては柴崎の頭をポンポンとする。その浮かべられる表情といえば、今この場の人間がそう見たことないほどに優しい顔をしていた。

そんな彼を見ていた蘭とコナン、特に前者の方が非常に物珍しいような面持ちを浮かべては彼等の様子を見遣っている。



「…烏間さん、柴崎さんにゾッコンなんだね」

「あー、うん、そうだね。でもあそこはどっちも同じくらいゾッコンだと思うよ」


何せふとした時に柴崎を見る烏間の目も、烏間を見る柴崎の目も、同じような色を灯しているのだから。


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