変わらなくてはならないから






なあ、君のその意思を改めて欲しいと思う僕は、ワトソン失格なんだろうな。

華奢な体に纏った淑やかな洋服を見て、ニコラスは顰めた表情を元に戻すことが出来ないで居た。気を紛らわすように、帳が降りようとしている窓の向こうへと視線を向けた。暗い。点々と並ぶ街頭の光が霞み、おどろおどろしい雰囲気を醸し出している。しかし、非常に残念なことにこんな中でも少女は事件の現場へと向かうと決めた。アーティのような少女がこんな気味の悪い夕暮れの中外に出るだなんて、とんでもなく恐ろしいことだ。
デロニカでは警戒して然るべきなのだ。闇が深まれば深まるほど、何が起こるかわからないから。

それでも彼女は向かうのだと言う。それは、彼女がただの平凡な少女じゃないからだ。彼女が紛れもない"探偵"であるからなのだ。
事件があり、自身が探偵として求められている。一般人には紐解くことの出来ない謎が、そこに鎮座している。ただそれだけで彼女は夜に足を進める。そんなのおかしい。そんなの信じられる筈がない。何故ならニコラスの知っているアーティと言う少女は、探偵らしさが微塵もないただの少女だったからだ。ただ朗らかに微笑み、事件や不穏なものからは無縁のひとであった筈なのだ。
とてもじゃないけれど現状を受け入れることが出来ない。彼女が探偵になってしまうなんて。彼女は、アーティはこのままでいいのに。

「ニコラスさん」
「、なに」
「やはり無理なお願いでしたか」
ニコラスの硬い表情を見上げて、尋ねる。
「突然の依頼でしたので、急な予定になってしまいましたし」
不安と期待が入り交じったような瞳がニコラスを見ている。今から始まる出来事に少し腰を引いているような、しかし、期待に胸を膨らませて前のめりになってしまうような複雑な感情が見て取れた。
きっと少女は、ニコラスが今回の依頼ついて抵抗があるのを察している。自身の態度のせいだ。依頼を受けてそれ以降、上手く取り繕えずぶっきらぼうな態度になってしまったことをニコラスは後悔している。その態度を見れば、ニコラスが依頼に何かしらの不満を抱いている事なんて一目瞭然だ。アーティに要らぬ心配を掛けてしまっただろう。

確かに依頼に対して不満はある。けれど、そんなことを言っている場合じゃないことも理解している。どんなに嘆こうと自身はワトソンである。探偵、アーティ・ルイスのワトソンだ。
「一緒に来て頂かなくても、私は大丈夫です」
「…こんな暗い中、一人で少女を出歩かせるような人間に僕が見えるか?」
「!、いえ!ごめんなさい」
だから、ニコラスは少女について行かなければならない。勿論建前の通り、こんな外を女性一人で歩かせるようなことはしない。けれど、それよりも自身がアーティのワトソンであるからついて行かねばならないのだ。
流石に君の助手だから着いて行くに決まっている、だなんて言えない。それがワトソンとして当然の役目だったとしても、どうしても自分が受け入れられないから。ワトソンだと言うこと。探偵の助手として事件の捜査へ向かうこと。理解していても受け止められないから伏せておいた。口にしたくなかった。

セドリックはしばらくぎこちないニコラスとアーティを遠巻きに見ていたが、腕時計を確認した後に口を開いた。
「お二人共、そろそろ宜しいですかな」
そう声を掛けられてどちらともなくセドリックを見る。そうして顔を見合わせたあと、ニコラスが頷けばアーティはしっかりとセドリックの顔を見た。もう後戻りは出来ない。君も、僕も。事件を解決するしかない。
「はい。…行きましょう」
「ああ」


*



アーチを潜り、所々欠けてしまって不格好な石段を登る。中庭を先に進めば、古い学寮がそこにあった。色褪せた壁に、大きな扉と窓がひとつある。
「私の部屋は一階で、その上に三人の学生が一人ずつ別の階に住んでおります」
セドリックの言葉を聞き、建物の上の方を見た。確かに四角い明かりが三つ見える。学生達はきっと、部屋に居るのだろう。
アーティの方へと視線を戻せば、彼女は窓を見つめていた。格子の入った窓だ。窓は、彼女からすればとても高い位置にある。
「それでは学寮の中へ向かいましょう」
それを聞くなり、アーティは窓を見るのをやめてすぐにセドリックを見た。「お願いします」とひとつ告げて、扉へと近付いた。どことなく、アーティの行動が機敏な気がする。探偵としての推理への意欲からだろうか。

セドリックは外側の扉の鍵を開けて、アーティらを招き入れる。入ってすぐのカーペットを見るなりアーティはそれを調べることにしたようだったので、ニコラスとセドリックは入口のすぐ側で待機していた。
「カーペットには何も見当たりませんね」
「そうですか…」

先に現場を確認しましょう。そう言って、アーティは入口のすぐ側で立ち止まっていたニコラスたちを見た。ニコラスはアーティの側へ寄って、ついでにセドリックも数歩進んだ。
「そういえば、試験用紙が届いてから誰かセドリックさんの元を訪ねた人はいますか?」
「ああ!インド人学生のリヤと言う青年がやって来ました。試験の詳細を尋ねるため...でしたかね」
「机の上の試験用紙は、その時どうしていましたか?」
「私の知る限りでは、巻いて置いてあったかと思われます」
「なるほど…それではその学生が、それが校正刷りだと分かった可能性があるかもしれませんね」
「ええ…、無いとは言えません」

セドリックは難しそうな表情をする。ニコラスは管理不足なのではないかと思って厳しい目を向けたが、アーティは特に気にしていない様子で小首を傾げた。
「他に部屋に入った方は」
「いません」
「校正刷りがそこにあると知っていた方は?」
「印刷工以外、だれも。ザカリーですら知りませんでした」
「ザカリーさん…使用人の方はどちらへ?」
「ああ、私が探偵様の事務所へ向かう時にはそこの…窓際の椅子に座っていたんですがね。座っていたと言うより…とても調子が悪くなってしまい、倒れたような形でしたが。きっと呼んだら直ぐに来ます、他の作業をしているのでしょう。呼びましょうか」
「いいえ!大丈夫です。色々と教えてくださってありがとうございました」
そこまで話して、アーティは次に窓辺の小さな机を見た。

「調べても良いですか?」
「ええ、勿論です。他のものも遠慮なく調べて下さいませ」
丁寧に断りを入れてから、アーティは机に軽く触れた。
「犯人は部屋に入って、一枚ずつ中央の机から紙を取ったのでしょう。それをこの机に持ってきて、ここで写した」
「成程」
「ここで写せば、セドリックさん。貴方が中庭を通って部屋に戻って来れば、ここで姿が見えるので逃げ出しやすいからでしょうね」
と言っても私の身長では窓の外は見えませんが、とアーティが肩を竦めて苦笑いすれば、ニコラスは少しアーティの傍に寄って窓を見た。確かに高い位置にあるが、近寄れば中庭が見える。アーティの言う通り、中庭からセドリックが見えると踏んでこの机で写していたに違いない。

「なるほど、なるほど。そうに違いないでしょう。しかし、私は正門でなく通用門から帰ってきたのでそうはいかなかったでしょう」
「そうでしたか…」
アーティは、悩むように首横に手を置いて斜め上を見た。しかしすぐに表情を和らげる。
「紙を見せて頂いても良いですか?」
「ええ。こちらです」
「ありがとうございます。…これが一枚目、これが二、三。犯人はこの一枚目を最初に写しました。きっと、どれだけ急いでも15分程はかかると思われます。どうでしょうか」
アーティはちらりとニコラスを見上げた。ニコラスも紙を覗き込めば、確かに馴染みのない言語がびっしりと並んでいる。セドリックが言っていた"長い訳文の一節"というものだろう。ニコラスはアーティに同意するように頷く。

「これを写したあと、犯人は紙を投げ捨てて二枚目を写す。けれど、そうしているうちにセドリックさんが帰ってきましたので、犯人は慌てて出ていったのでしょう。セドリックさんは通用門から帰ってきたので本当に慌てて、用紙を元に戻すことも出来ずに」
「そうでしょうね」
「はい。セドリックさんが外の扉から入ってくる時に階段を走る足音や、慌ただしい物音が聞こえることはありませんでしたか?」
「いえ、それはありませんでした」

次にアーティは、机の上に手を伸ばした。机の上に転がる黒い粒と、鉛筆の削り滓。小さな手がその黒い粒を手に取って、照明の方に向けてそれを見た。白皙の指先に、黒い跡がつく。
「犯人の使っている鉛筆は珍しい鉛筆ですね」
「と言うと?」
「この芯は普通の鉛筆よりも柔らかくて大きいんです。鉛筆も普通のものよりも大きいものだと思います。それに、…鉛筆の残りの長さは3、4センチ程度かな」
「な、何故鉛筆の残りの長さが分かるのですか?」
「こちらです」
鉛筆の芯を机に戻せば、次にアーティは削り滓を手に取った。小さな滓には、銀色の文字が二つ並んでいる。それから手のひらに何も印刷されていない削り滓も並べて、セドリックの方へと近づけた。セドリックは薄い手のひらに並ぶ削り滓を腰を折り曲げてまでじっくりと見たが、そのうち腰を戻して困ったような顔をした。

「申し訳ありませんが、アーティさん。私はこれでは分かりません…この削り滓の、NNが何かのヒントになりますか?」
「その通りです。ご説明しますね」
アーティは極めて落ち着いた様子で、普段ニコラスと会話をする時と変わらぬように続けた。
「このNNという文字は、鉛筆のメーカー名の1部です。私が知っている中では、Johann Faberという鉛筆のメーカーが一番有名だと思っています。それに、これ以外にNNの付くメーカーを知りません」
「ええ、私もそう思います」
「良かったです。そう考えるとJohannの部分は削りきってしまい、Faberとそのあとの部分しか残っていないのでは無いかという事です」
「ははあ!成程…」
Johann Faberの鉛筆は、確かに有名なメーカーであるだろう。ニコラスが思い返す限りでは、自身の周りで使用されている鉛筆はそのメーカーのものばかりである。そしてアーティの言う通り、鉛筆の側面にはメーカー名が印刷されている。全て大文字でJOHANN FABERと。確かに深く考えれば思いつくことであるかもしれないが、そのNNを見ただけですぐに辿り着く回答ではない。アーティはやはり、探偵だ。

アーティは、中央の机の方へと足を向けた。
「次にセドリックさんの机の方を調べますね」
セドリックの机は、立派で重量感のある見た目の机だ。大層値の張るものなのだろうな、とアーティは思う。隣にまだ、自分よりも幼い少女がいた頃の話だ。あの頃に良く見たつめたくて硬い机に似ていた。

「こちらが、私がお話した小さな黒いかたまりです。そしてこちらが切り口です」
「三角形…ピラミッドのような形ですね。それに、くり抜かれて出来たような形をしている」
「ええ、それに中におが屑のようなものが混ざっているでしょう」
アーティは頷く。机の上には確かに黒くて小さいピラミッド型のかたまりが落ちており、机の綺麗な表面には切り傷があった。切り傷はかすり傷から始まっているが、最後はギザギザとした穴になっている。はっきりとした引っかき傷だ。一体どうしてこんな傷があるのか、こんな黒いかたまりが落ちているのか。ニコラスには検討も付かなかった。
黒いかたまりは消しゴムの滓だろうか。いや、写す時に消しゴムなんて使っている暇はないだろう。それに、それでは何故おが屑のようなものが混ざっているかがわからない。じゃあ切り傷は?鉛筆を削ったナイフでつけたものだろうか。…そんな訳ないだろう、何故急いでいる中ナイフでこんなに複雑なギザギザの傷を付ける必要があるのか。
そこまで考えてニコラスは推理の真似事をやめた。自分には到底理解できない事だと感じたからだった。それに自身はあくまで付き添いのつもりでいればいい。探偵の助手ではない。

それからアーティが机から目を離した時、ふと壁にある扉を見つめた。入ってきた扉でなく、質素な焦げ茶色の扉だ。
「あちらの扉は?」
「私の寝室です」
「失礼かと思いますが、調べさせて頂いても良いでしょうか」
「ええ。ただ、事件が起きてからは特に入っておりませんので、関係はないかと思われますが…」
そう言いつつもセドリックは扉を開けて電気を付ける。アーティは中をそっと覗き込んだが、足を進めるのを躊躇っている様子もあった。まあ、確かに。彼女のような年齢の少女が年配の男性の部屋を1人で調べるなんて、少々躊躇する気持ちも理解出来る。だからニコラスが先に部屋の中へと足を進めることにした。
「君は床を調べなよ、僕は他を調べる」
ニコラスがそう伝えれば、アーティはやや安堵の表情を浮かべて感謝を述べた。

落ち着きのある色で統一された部屋は、やや古風な雰囲気の家具が多い。まだ若い二人には程遠い、大人らしい部屋だった。
ニコラスは宣言通り家具を見て回ったし、衣装棚まで確認した。入念に確認して回ったが、そもそもニコラスは事件の推理なんて全く出来ていないし何を探せばいいのかも分からない。怪しいものも分からなかった。
そうして目的のない調べ物に飽きてきた頃、後ろを振り返ってみればアーティがしゃがみこんでいる事に気づいた。ニコラスはそれを見てアーティに何かあったのかと慌てて歩みよったが、アーティはただ床の一点を眺めているだけだった。
「…アーティ?」
ニコラスが声をかけると、アーティは何でもなさそうにニコラスと目を合わせる。
「…ニコラスさん?どうかしましたか」
「や、何かあったのかと…見つかったのかと思って」
「ええ。実は、一応ありました!この黒いものって、セドリックさんの机にあった黒いピラミッド型のものに似ていませんか?」

一瞬慌てたニコラスの心情など梅雨知らず、アーティは朗らかな笑顔で尋ねる。ニコラスは一瞬眉をひそめたが、それだけで何も言わなかった。何も言わずに察して欲しがるほど馬鹿じゃない。
「うん、似てる。…と言うより同じものじゃないか」
「ですよね。私もそう思います」
アーティはそれを手に取って手のひらの上に乗せる。そうしてその場に立てば、光の下に翳してよく観察した。
「柔らかい物質みたいです。パテ状の、なにか…」
「何かありましたか」
「セドリックさん。犯人は、机と同じ痕跡をあなたの寝室にも残しているようですね」
「はあ…なぜ寝室に?」
「私の推測では、セドリックさんは通用門から帰ってきたので、犯人はセドリックさんが居間の扉から入ってくる寸前まで気が付かなかったのだと思います。だから犯人は、あなたの寝室に身を隠したのでしょう。自分を特定できる証拠を持ってね」
「ハハ!まさか!それでは私がザカリーと居間で話している間、犯人はこの部屋にいたという事ですよね」
「そうなります。おかしな話かも知れませんが、セドリックさんが帰ってきた時、階段を走るような物音も何も聞いていないんですよね?」
「ああ、マア…。確かにそうですね。しかし、そうとも限らないでしょう。探偵さんは、そちらの窓は見られましたかな?」

セドリックが壁の方を手で示す。それに合わせてアーティらもそちらを見れば、そこにはまたアーティよりもいくらか高い位置に窓があった。格子が入った、複雑な形の窓だ。しかしよく観察すれば、蝶番で開く場所がある。
「あそこを開けば、男一人は通る事ができるでしょう」
「そうですね、その場合もあると思います」
「窓は中庭の奥に続いております。外から見ても非常に見えにくい位置ですので、犯人はそこから侵入して寝室を抜ける時に痕跡を残し、そして最後に扉が開くのを見てそちらの方向に逃げたという方が自然ではないでしょうか?」
セドリックは少しばかりこちらを見下すように、片眉を下げて目を細める。ニコラスは少し腹が立ったが、小さなピラミッドを持って動かないままのアーティの肩を押した。
「寝室を出て考えよう、まだ使用人の話も聞いてないだろ」
「そうですね…」

居間に戻れば、セドリックが口を開く。
「それでは、ザカリーをお呼びしましょうかな?」
「ああ、その前にひとつ良いでしょうか」
「はい、なんでしょう」
「この学寮の生徒は三人。そして、三人とも試験を受けるのですよね」
「ええ、その予定でございます」
「あまり聞きたい話ではありませんし、セドリックさんにとっても良い話ではありませんが、捜査のために聞かせて下さい。何らかの理由で、怪しい生徒はいらっしゃいますか?」
セドリックは躊躇うように視線をうろつかせた。
「おっしゃる通り、良い話ではありませんね。証拠もないのに疑いを掛けるのは良くないでしょうし」
「そうですね、ごめんなさい。しかし、証拠は私が見つけ出すとお約束します」
アーティが凛とした瞳をセドリックに向ければ、セドリックは悩むようにその場で右往左往して、アーティの瞳は見ずに続けた。
「…それでは、一人ずつご説明致します」

セドリックは一本指を立てた。人差し指をぴんと天井に向けて、語り始める。
「三人の学生の内一番下の階、この階の上に住む学生はノルベルトという青年です。素晴らしく模範的な学生であり、スポーツマンです。陸上競技では大学の正選手になるほど運動神経が良いです。それに、彼は頑張り屋で勤勉ですので、いい成績をとるでしょうね。しかし、家庭にやや事情があるようですが」

二本目の指を立てて続ける。
「次の階にはインド人のリヤ・スィングが住んでいます。彼は物静かで謎めいた青年です。彼は成績が良く几帳面で着実な男ですが、ギリシャ語が苦手です」
そうして最後。
「一番上に住んでいるのはエルモ・ヴェサです。勉強すると決めた時は本当に素晴らしい生徒で、この大学では最も知性あふれる生徒であると言っても過言ではないでしょう。しかし、彼は気まぐれで無節操な男です。過去には不祥事で退学寸前になったこともあり、今学期はやる気が出なかった様子でずっと怠けていました。彼を疑う理由としては不十分ですが、この三人の中ではもっとも可能性が高いのではないかと思っています…」

「なるほど、わかりました。丁寧にありがとうございます」
「いえ。しかし、まあ。私はこの三人のうち誰かが写したとはとても思えません…信じられません」
「…信じられない気持ちは理解できます。しかし、三人以外が写したということは考えにくいと理解して頂けますか?」
「ええ、ええ…。その通りでしょうね」
「はい。それでは、ザカリーさんにお話をお伺いしたいのですが、お願いできますか」
「わかりました。呼んできましょう」


*



男は想定していたよりも背が低く、所々に白が混じった髪の毛をしていた。50歳くらいだろうか。ほんのりとシワの滲む顔は緊張しているかのように痙攣しており、情けなく指は震えていた。顔は血の気が引いて真っ青だ。目の前にいるのはうら若き少女であるのに、恐ろしいものを見るかのようにしている。今彼を揺さぶれば、きっと口から魂がこぼれ出してしまうだろうと思うくらいには。
「貴方がザカリーさんですね、初めまして。私はアーティです」
「はい、初めまして…。探偵様」
「ご存知かとは思われますが、現在今回の出来事について調査をしています。ですので、是非ザカリーさんからもお話をお聞かせ願いたいと思っています」
「はい…」

アーティはやりにくそうに言葉を詰まらせた。ザカリーはアーティよりいくらか背が高いくせに、弱々しい人間だったからだ。アーティという少女を前にしても遜る、アーティらが普段接しない系統の人物だ。だからアーティは戸惑った。捜査の一環として尋ねねばならないことは沢山あるのに、そのどれもを砕いて極めて穏やかに尋ねることしかアーティには出来なかった。
「ええと…。聞いた話によると、ザカリーさんは鍵をさしたままにしていたのですよね」
「はい」
「何時頃セドリックさんの部屋へ入りましたか?」
「四時半頃でした。セドリックさんのお茶の時間です」
「どのくらいの間、部屋の中にいましたか?」
「セドリックさんが居ないのを見て直ぐに下がりました」
「机の上の紙は見ましたか?」
「いいえ…」

ザカリーは質問される度に俯いていった。そうされる度にアーティも戸惑う仕草を見せるので、次第にニコラスは苛立ちを募らせ始めた。情けない男だ。自分がした行動が原因でこうなってしまったのは、もうどうしようもない事だ。悔いても元には戻らない。だからこそ、事件に誠実に向き合って反省すべきだ。いつまでも落ち込んでいるザカリーが腹立たしい。そうすることによってアーティに迷惑をかけていることにも腹が立つ。
だからニコラスは叩きつけるように尋ねた。
「こういう重要な書類が置いてある日に限って鍵を刺したままにするなんて、非常に不思議ですね」
「はい…おっしゃる通りです。ですが、私は以前にも何度か鍵を刺したままにした事があります」
「何度か?何度も同じ事をしているんですか?」
「申し訳ありません…」

本当にどうしようもない男だ。ニコラスは呆れて口を閉ざした。
「…先程、四時半頃はセドリックさんのお茶の時間だと仰いましたが、その時手にティーセットを持って部屋まで行ったのですね」
「ええ、ティートレイを持っていました…。ですので鍵を取ることが出来ず、ティートレイを戻してから鍵を取りに来ようと思っていました。その後、忘れましたが…」
「それではその後は扉がずっと開いていて、部屋の中に誰かがいれば出て来れたという訳ですね」
「はい」
「わかりました。…セドリックさんが部屋に戻ってザカリーさんを呼んだ時、非常に動揺していたと聞きました」
「はい。私がここに来てから非常に長い年月が経ちますが、こんなことは一度も起きたことがありませんでした。ですので、倒れそうな程には」
「もう具合は大丈夫ですか?」
「…は、大丈夫です。心配して頂くほどでは」

ザカリーはアーティに気を遣われて、やっと顔を上げた。青白いままだが、心優しい探偵に落ち着いた様子だった。
「良かったです。気分が悪くなった時には何処にいらしたのですか?」
「私はその、扉の近くの椅子に座りました。今にも倒れそうで」
「それは可笑しくないですか?」
ニコラスが口を挟む。
「その隅にある椅子に座ったんですよね。なぜこちらの椅子を通り過ぎたんですか?倒れそうになってわざわざその椅子に座るなんて不自然ではないでしょうか」
「分かりません、私はどこに座っても構わなかったので…」
「助手さん、本当に彼はそのことについてあまり覚えていないと思いますよ。彼は非常に具合が悪そうでしたし」
「…私から質問を続けますね、ザカリーさん。その後セドリックさんが出ていった時、ザカリーさんはここに居たのですよね」
「はい。しかし、一分程だけです。それからは鍵を閉めて自室に戻ったので」
「ザカリーさんは犯人に目処が着きますか?」

ザカリーは困った顔をした。
「いいえ、全く。この大学にこんな手段で利益を上げようとする生徒がいるとは信じられません…」
「そうですよね。わかりました、ありがとうございます。最後にひとつ教えてください。三人の生徒に、この事件の事を伝えましたか?」
「いいえ」
「誰にも会っていませんか?」
「はい、誰にも」
「わかりました。もう大丈夫です」

アーティがそう切り上げれば、ザカリーはやっと開放されたかのように項垂れた。ほっと小さく息を吐いて、手と手を握っている。本当に緊張していたのだろう。
しばらく部屋が静寂に包まれ、誰もがアーティを見つめた。アーティはただ悶々と考え事をしている様子だったが、やがてそっと顔を上げる。セドリックを見ていた。
「少し事件について考えたいので、そのついでに中庭を見に行っても大丈夫ですか?」
「ああ、ええ、勿論。外は暗いのでお気をつけ下さい」
「ありがとうございます、ニコラスさんも」
一緒に来て貰っていいですか、と見上げられてニコラスは肩を竦めた。まさか。こんな暗い中少女を一人にする訳が無いと何度言えばわかるのか、一瞬そう思った。しかし、よく考えてみれば他の人間が着いてこないようにするためにわざわざ自分に声をかけたのだろう。「ああ」とだけ返事をすれば、彼女が着いてきやすいように先に扉へと足を進めた。


扉を開けた先に続く景色は、何もかも飲み込んでしまうような暗黒だ。寮の壁沿いには窓から溢れ出す暖色の明るさがあるけれど、そこから離れてしまえばあとは真っ暗だ。不親切なことに、中庭には目立った明かりがない。木々で囲まれていることもあり、敷地外の街灯の光すら届かない。
アンガス学寮は、デロニカではそこそこ有名である。極端にデロニカの隅に住んでいるなんてことがなければ、大体の人間は名前くらいは知っているだろう。そんな学寮だが、中心街からは少しばかり離れた位置にあるのだ。知っての通り、デロニカは端に寄れば寄るほど恐ろしい都市なので、中心から離れているという事実には肝が冷える気分だ。夜なのだから、尚更。

頬を撫でる夜風がやけに冷たく感じて、後ろにいる筈の少女を何度も振り返って確認した。その度に不思議そうにこちらを見てくるので、その表情が訝しげな顰め面に変わる前にニコラスは隣を歩くことにした。
「随分と遅くなってしまいましたね」
ニコラスは頷く。
「お家の方は大丈夫ですか?」
「多分平気だから気にしなくていい」
「良かった。こんな遅くまでありがとうございます」
「…別に」

実を言うと、ニコラスはアーティを事件現場に放っておけなかった。勿論こんな暗い中に少女を一人置いておくことが出来ない、という気持ちもあっただろう。しかし、ワトソンの性質故だろうか。事件を前にして、気が乗らずやや項垂れていた感情がしっかりと背を伸ばした。アーティの推理は鼓膜を滑って正確に脳に届くし、いつのまにか自分も事件の推理をしていた。事件が解決に導かれるように、疑問には声を出して抗議してしまった。意欲的だった。自分の行動をふりかえって、それが本当に自分であったか疑念を抱く程には。
「ニコラスさん、その窓の傍に立って頂いて良いですか」
「?、いいけど」
「そこから部屋の中は見えますか?」

ニコラスはアーティに言われてから部屋の方を見たが、こぼれるあかりが眩しくて何度か瞬きをした。目を細めて、背伸びをする。そうすればやっと部屋の内部が見えた。ザカリーとセドリックが、先程と変わらぬ位置にいる。
「まあ、見える。背伸びは必要だけれどね」
「なるほど、ニコラスさんの身長はおいくつかお聞きしても?」
「五.五フィート程…この情報になんの意味が?」
「すこし、窓のある程度の高さを知りたくて。ありがとうございました」
そう言って小首を傾げて微笑んだアーティに、ニコラスも窓から離れて傍へと戻った。
「…推理は順調?」
「…まだ、完全には出来てません。難しいです」
「僕はこの事件のことがさっぱり分からないよ、傍で推理を聞いていてもね」
「複雑な問題ですから、細かい謎が点在していますし私もよく分からない部分が多いです」
「そう」
「はい」
「寒くないの、外にいて」
「大丈夫です」

ニコラスは、空の方を見上げながら言葉を綴るアーティの横顔を眺めた。この人間が探偵。そして自分がその探偵の助手。信じられないことに、僕らはdetectiveとwatsonという関係で結ばれてしまった。それも固く、玉結びをするように。
最初は驚いたし、絶望しただろう。探偵が嫌いなんだ、僕は。でもこの結び付きは思ったよりも厳しいものじゃなくて、この少女の傍にいることは案外難しい事じゃなかった。だって探偵らしくなかったから。それが良かった、それで良かったのに、彼女はこうして探偵となってしまった。
間違いなくこのままいけば自分は正しくワトソンとなるだろう。若い少女探偵の、助手になる。免れられない出来事だ。
アーティと結ばれた以上それは問答無用でこの先続いていくだろうし、ニコラスの感情なんてどうしようもない。
しかし、何を考えていても揺るがない意思が一つだけある。それはアーティの傍に居なければならないということだった。
外が暗かろうが、自分がワトソンだろうが、関係ない。確かに最初はDWの引力で離れられないと思っていたが、隣にいるうちにふと思った。彼女放っておけないと。
庇護欲なのかもしれないし、はたまた、やはりワトソンだからなのかもしれない。どんな感情から成り立っていようとどうでも良いが、ニコラスはアーティから離れられないのだ。


この事件が収束すれば、私たちには何かしらの変化が訪れるだろう。予感めいたものをアーティは感じていた。この事件が無事解決するかはアーティ次第だ。
もとより、妹を探すために家を出て、その資金のために探偵をした。今までのたわいない依頼を考えれば、この依頼はビックチャンスだ。解決すれば間違いなく何かが変わる。些細なことかもしれない、大きな出来事かもしれない。マイナスかもしれないし、プラスかもしれない。分からないけど、それでも大きな一歩になる。
だからアーティのしなければならないことはただ1つ。事件を解決させることだ。
「ニコラスさん、三人の学生さんに会ってみましょう」
「いいけど、怪しまれないか」
「大丈夫の筈です、その場しのぎでなにか口裏を合わせましょう。協力して貰えますか」
「まあ…。君なら探偵と言わなければ探偵には見えないだろうね」

そうと決まれば、とアーティは頷く。煌めく双眸の先に並ぶ、三つの四角い光。一つの窓だけ、ブラインドの向こうで何者かが部屋の中を行ったり来たりしている。
星一つ見えない雲天の下、年季の入った苔だらけの中庭をそっと歩く。内緒で潜入しているかのようにこっそり歩いて、正面の扉まで戻る。ドアノブに手をかければ、ふたりは目を見合わせた。少女の瞳が決心したように艶めいて、青年は諦めたようにそっと目を細めた。
私たちには進む道しか残されていない。事件を解決しよう、それが大きな一歩になる筈だから。

「行きましょう、ニコラスさん」



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第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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