これの続き。


武装探偵社に勤めるようになって以来、多少平和惚けしてしまっているかもしれない。
其れも此れも今居るこの場所が、昔居たあの場所よりもずっと生き易いからに他ならない。
この場所は、死を切望したくなる程生き易くて、とても温かい。

ふと、向かいに座って紅茶を飲むなまえに目を遣る。
彼女の長い睫毛がふるふると震えている。
彼女はティーカップの端を人差し指でぐるりとなぞり、そっと口を開いた。
そんな有り触れた所作でさえ、彼女が行う其れは美しい。



「国木田くんに反対されてしまっては、もうお仕舞いよね」
「え、」
「国木田くんに云われたの。太宰だけは辞めておけって」
「国木田君ってば非道いなぁ」



如何にも国木田君が云いそうな事だ。
彼は、なまえの事をとても大切にしている。
其れは、恋慕の情から来るものではなく、ただ純粋に彼女という人間を気に入っているからだろう。
彼がなまえを見る目はまるで、



「国木田くんは、お母さんだもの。お母さんを味方に出来ない男なんて駄目よね」



国木田君は、まるで我が子を案ずるかのように、いつもなまえを気に掛けている。
当の本人は、仲間だからだとか思っていそうだが、周りには口煩い父親にすら見えているのだ。
…まぁ、なまえには彼が母親に見えているようだが。
因みに、この場合のお父さんは、社長辺りが妥当だろう。



「それで、なまえはなんて答えたんだい?」
「国木田くんがそう云うなら仕方無い。太宰の事は、きっぱり諦めますって」
「え!?」



彼女と恋人という間柄になって数日。
数年来 密かに想い続けてきた女性から、こんなにも早く別れを告げられようなんて誰が思った事だろう。
それも、かなりあっさりと。
否、未だ別れ話と決まった訳じゃない。
この話には続きがあって、でもやっぱり太宰の事が好きだから二人で駆け落ちしましょう。と続くのかもしれない。
そうだ。きっとそうに違いない。
…まぁ、始まりが突然だっただけに、終わりも又 突然である事を否定しきれないのだけれど。
嗚呼、私は如何したら好いのだろう。

一人悶々とする私の様子を見て、ふふふ。と笑むなまえ。
そしてゆっくりと口を開き、彼女は云うのだ。
ぞっとするほど美しい笑顔で、ぞっとするほど恐ろしい言葉を。



「なら、私と入水してくれる?」



一瞬、呼吸の仕方を忘れたようだった。

彼女は何と言った?
彼女と入水?
私が?
嗚呼、何時から。
何時から彼女は、死を求めるようになってしまったのか。
嘗ての彼女なら、そんな事は云わなかっただろうに。



「うーん……なまえが本気で望むなら、私は構わないけど」
「……それでも、気は進まないようね」
「そんな事は、無いよ?……多分」



嘘だ。
本当は、彼女と心中なんてしたくない。
私は、彼女を殺したくはないのだ。
其れでも彼女が望むと云うなら、私は其れを叶えてやりたい。
そうせねばならぬと思うのだ。



「綺麗な女性と心中するのが、私の夢だからね」
「私よりも綺麗な人は沢山居るものね。与謝野先生とか紅葉の姐さんとか」
「……綺麗だとは思うけど、彼女達と心中する勇気は無いよ」



何も女性は綺麗であれば好いという訳ではない。
第一 与謝野女医なんかは、あくまで女医な訳だし、自殺には中々好意的ではないだろう。
そう思うと矢張り、云い方は悪いが、身近な女性の中ではなまえが一番適しているように思う。
否、私にとって彼女以上に美しい女性などそう居ない。
そうだ。
私が添い遂げるのは、唯一人 彼女でなくては。



「やっぱり、私はなまえが好いかな」
「……其れは、どういう意味で?」
「お母さんに反対されても、君と一緒に居たいって意味で」



ずっと一緒に居たい。

この言葉に嘘はない。
私は確かに、そう思っている。
けれど、矢張り彼女と心中する気はない。
彼女がどうしてもと請うなら、話は別だが、彼女はきっと其れをしない。
だから私は、なまえ以外の女性と心中するのだ。



「嘘吐き」



どきりとした。
自分の心の声が漏れ出してしまったのかと思った。
たった一言で、ここまで心臓が大きく跳ねるのを感じたのは久しぶりだ。

なまえは私から目を逸らす事なく、きっぱりとした口調で続ける。



「いいえ。正確には、嘘ではないのでしょう。貴方は確かにそう思ってくれている。けれど、」



けれど、何?

言葉を一度区切ったなまえは、同時に私から目を逸らし、小さな溜め息を一つ吐いた。
対して私の手は、汗でびしょびしょだ。
まるで修羅場のような雰囲気に、私の全身は暫く前から興奮状態に陥っている。



「貴方はきっと、私ではない他の女と心中するのでしょう?」



彼女の其の言葉に、頭を殴られたような衝撃さえ奔る。
思考が今にも停止してしまいそうな程、弱々しいものになる。

違う。
これでは駄目だ。
私が思っている事は、何一つ彼女に伝わってはいない。
彼女は、私の言葉を信じていないし、そんな事は分かっていた。
其れでも良いとすら思っていた。
彼女は、私の行動だけは信じてくれていたから。
けれどこれだけは。
この気持ちだけは、伝える事を違ってはいけない。

すっかり下を向いて消沈してしまったなまえを一瞥し、私自身手元のティーカップを数秒見つめる。
そして再び彼女へと視線を戻し、口を開く。



「若し私が、君以外の女性と心中したとして、」



私が他の女性と心中するという事は、私が最後に見るその人はなまえではないという事。
私の世界の最後が、なまえではないという事だ。
彼女はとても賢いから、きっと其の事に気が付いている。
そして同時に、其の事を憂えているんだ。
ただただ大きな勘違いをして。
私が彼女以外の女性と心中するのは、



「其れは、君の事が嫌いになったからではないよ」



私が死ぬ理由だって、断じて違う。
君を嫌うから、死ぬのではない。
君を嫌うから、他の女性とゆくのではない。
私は、君を連れてゆくのが嫌なのだ。
何度も失敗した私だから。
臆病な私だから。
君との心中に限って、私だけが生き残ってしまったらと思うと、恐ろしくて仕方が無い。
君に置いて行かれた私が、どうして此岸で生きられようか。

私に君は殺せない。
殺せる筈がないのだ。
だって私は、



「私は、誰よりも君を愛しているのだから」



私が最期に思い出すのはきっと、吾が人生で最期まで私が持てる最大の愛を注いだ人だろう。
どうか其れが、君であって欲しいから。
君は、私より先に死なないで。

君が生きている限り、私は君を愛し続けよう。



である君へ



孰れ来る最期のその時までも、君は私の最愛の人だ。