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古都鎌倉。
神社仏閣で有名な観光地だが、紫陽花の名所でもある。
特に梅雨に入りたてのこの時期は、ヒマワリが真夏の陽光の下で見るのが一番であるように、薄曇りの日に見る紫陽花が一番美しく見える時期だ。
今日はあいにくの雨模様。

その人は、霧雨の中、傘も差さずに立っていた。
日焼けなどとは無縁であるように見える白磁の肌。
酷薄な笑みこそ似合いそうな唇。
整った容貌はそれだけでも十分非現実的で、黒い帽子も黒いコートも濡れるに任せて群れ咲く紫陽花の前に佇むその姿は、不吉だけれど寒気がするほど美しい。
闇が人の姿をとったような男だった。
ただ通り過ぎて終わるはずだった。
しかし、運命とは気まぐれなものであるらしい。
聖羅の前を歩いていた老夫婦らしき二人組の老女のほうが、聖羅の目の前で突然胸を押さえてうずくまったのだ。

「大丈夫ですか!?」

聖羅は咄嗟に駆け寄り、胸を押さえて苦しんでいる老女に声をかけた。
まだ意識はあるようだ。
しかし、状態を尋ねようにも、ううー、うう、と呻くばかりで、まともな返事がかえってこない。
夫である男性もすっかり狼狽えてしまっている。

「とりあえず、救急車を呼んで──」

「病人ですか」

決して大きくはない、いっそ場違いなほど低く落ち着いた声が背後からかかった。

「診ましょうか?こう見えて医者ですから」

あの男だ。
引っかかる言い方だが今は突っ込んでいる暇はない。

「お願いします」

目線だけで承諾の意を示して、男が老婆の傍らに片膝をつく。
そうして、てきぱきと質問をしたり脈をとったりし始めた。
見るからに怪しげな人物ではあるが、どうやら腕は確かだったらしい。
救急車が到着する前に老女は落ち着きを取り戻していた。
軽い発作だったようで、持病の薬を持っていた事を聞き出した男がそれを飲ませた上で応急処置を施したのである。
やってきた救急隊員に処置の内容と病状を簡単に伝えると、男は用は済んだとばかりにすたすたと歩き出してしまったので、聖羅は慌ててその後を追いかけた。

「あのっ」

男が歩みを止めて振り返る。
切れ長の美しい瞳に射抜かれた瞬間ゾクリとしたが、聖羅はきちんと頭を下げた。

「どうも有難うございました」

「何故貴女が礼を言うのです?貴女はただ巻き込まれただけでしょう」

「そうですけど…でも、私一人じゃきっと焦ってちゃんと対応しきれなかったと思います。だから、有難うございました」

男は不思議に優美な仕草で微かに首を傾げてみせ、それから、クス…と微笑をこぼした。

「おかしな方ですね、貴女は」

嫌味でも馬鹿にするのでもない、柔らかな声音。
冷たい氷像と思っていたものが、触れてみれば意外に温かかったようなもので、もっと冷えた声を想像していた聖羅は、その声を聞いて何だか少し安心した。



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