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狂介が去ってから一睡もできず、凹凸の激しい敷石の地面に横たわったままぼんやりとしていた。四角く切り取られた窓の向こうは、夜明けは本当に来るのだろうかと不安になるほど暗い。

(…春水さんは大丈夫かな)

思い浮かべる京楽の姿は、背中ばかりを向けている。
狂介の言葉を正すなら京楽の中になまえがいないというより優先されないという方が正しいかもしれない。
肩書きの多い男だし、それらを全うできる有能さもある。
本当だったら背中を押すべきなのに、愛してほしいと縋り願うようになっていた。
大切だと言ってほしい、二番目でもいい、三番目でもいい、いい子で待っているから、大切にしてほしい………。


「…春水さん………」
「ここの連中は女の扱いを知らんのう」
「…だ、だれ……?」


ぐったり横たわる肩を誰かが撫でた。ずいぶん細い指の感触だ。重たい瞼をやっと持ち上げると目に痛い鮮やかな山吹色を着た夜一と視線が合う。彼女はわざとらしく牢屋のものと思しき鍵束を指でクルクルと回した。
夜一がなぜここに?
いつのまに?
どうやって?
ぱちぱちと繰り返す瞬きの弾みで、大粒の涙が地面を濡らした。


「なんじゃ、泣いとるのか?情けない」
「よ、…夜一?え……?な、なんでここに…」
「遅くなってすまんの。文句はお主の亭主に………その顔、殴られたのか」
「これは…だ、大丈夫だよ」
「あとで軟膏を塗ってやろう」
「あ、ありがとう…ていうか、……鍵、どうやって」
「話は後じゃ。行くぞ」
「ちょ、ちょっと待って、」
「はあ?」
「すごく複雑なの、四楓院の家に迷惑がかかる」
「そんなもの夕四郎がどうにかする」


夜一は平然と言った。
というのも、この一件を取り巻く複雑な事情など彼女はとっくに承知していたしなまえよりも詳細を把握しきっていたので、彼女がおどおどする必要もなかった。
よく見ると、入口では牢番の男が白目を剥いて伸びている。「何度言っても扉を開けなかったせい」らしい。


「ねえ春水さんは?春水さんは大丈夫?」
「案ずるな。今のところお主以外は何もされておらん。あの妙な疑惑もとっくに晴れたわ」
「そうなの?」
「奴らの頭を叩くのに三日かかっての」
「み、三日?…もっと長くいた気がした……」


夜一が言うには、なまえの解放は朽木家を始めとした貴族たちによる口添えがあったという。

正当な手続きを踏まず強制的になまえを連行したこと。
京楽を反逆の徒と決めつけるだけの根拠が薄いこと。
それに伴い護廷隊の業務を妨害したこと。

これらの事実は、死神だけではなく瀞霊廷貴族たちの反感を大いに買ったという。
それもそのはずで、神器の存在は狂介の言葉以外に証拠がないのだ。なまえからの自供もなく、目的の物も探し出せず、死神たちの業務を妨げるばかりで、これでは一体何のための司法機関かと貴族たちが非難の建白書を奏上し、そのおかげでなまえの身柄が解放されたというわけだった。


「白哉さまが……」
「京楽の斬魄刀も調べられたそうじゃが何も出てこんかった。これだけ騒がせて確証がないままでは上の沽券に関わる。奴の容疑などとっくに引き下げられたらしい」
「よかった…」
「戦後処理の混乱を利用して京楽の失脚を狙ったんじゃろうが、勝手に女を攫うなど大問題じゃぞ。幸い、護廷にはそこまで広まっておらん。噂に尾鰭がつく前に片が付いた。あれこれ言われるのは好かんじゃろう。京楽も心配しておった」
「迷惑かけちゃったね」
「迷惑だと?奴自身の事情が引き落こしたことじゃ。まあ嫁い時点で無関係とは言えんが、しかしなまえのせいではない。京楽の奴、顔色を変えておったぞ。お主、なかなかやりおるのう」


いくらか細くなった指を握りしめて、夜一が歯を見せて笑った。
夜一のおかげで迷路のような構造を抜け、あっけなく外へ出ることができた。事前に地図を頭に叩き込んだのか、こういうとき、この旧友はとても頼りになる。夜風を受け止めきれずよろめいた体を慌てて受け止めた夜一は、まるでおとぎ話に出てくる王子のようだ。


「大丈夫か」
「う、うん……ねえ、勝手に抜け出して大丈夫なの?」
「構わん。そもそもお主の解放は一時間前に認められておる。これはただの嫌がらせじゃ、腹立たしい」
「……来てくれてありがとう」


夜一は力強い声で「もう大丈夫じゃ」と励ました。仮に彼女が女としての尊厳を凌辱されていた場合に行くのは自分が適任だろうと進言したまでだったが、やはり、他の者に任せなくてよかったと改めて思う。

彼女を慰める役は誰にも渡したくなかった。京楽にも、白哉にも、誰にも。つまらない独占欲かもしれないが、今夜はなまえを慈しんでやりたかったのだ。精一杯に。

夜の冷めた匂いを胸いっぱいに嗅いで内臓へ空気を送り込むと、風船が膨れるのと同じ感覚でなまえの背筋が伸びた。沈んだ気持ちが不思議と前を向く。なまえははっきりと、春水さんに会いたいと口にした。




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