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※ 獄頤鳴鳴編に触れる内容です
※本編と矛盾する点があるので雰囲気で読んでください




「なんだ、わざわざ軸変えて来たってのに留守かよ」


朝から胸騒ぎがしていた。
夜明けと共に家を出た夫が「今日は早く帰るよ」と告げたとき、とても沈んだ顔をしていたのがずっと胸に引っ掛かって、なにか悪いものを予感させていたのだ。
雲ひとつない晴天の空に亀裂が入って空間に歪みが生じた瞬間、嫌な予感が悪い方に当たったのだと思い知った。庭先から見知らぬ男の声が聞こえる。空から視線をずらすと、切長の鋭い瞳と視線が絡み、あまりの気迫に全身から冷や汗が噴き出て、私は窒息したように声ひとつ発することができなかった。
特徴的な眼帯で左眼を覆った男は、当然のように縁側を越えてやってきた。歩くたびにがちゃがちゃと鳴る2丁の銃が、私をひどく混乱させ、体中から血の気が引いていく。
あの門は、この霊圧は、この貌は…。
かつて私が死神だった時に対峙していたものに限りなく近かった。


「意外だな。弱味を作るような男には見えなかったんだが」


男は座り込む私に合わせて屈み、「あんた名前は?」と優しく尋ねた。


「…………あなた…虚……?」
「ああ、まあな」


開いた胸元にある孔から目が離せない。虚であることは間違いないが、霊術院の教本でも見たことのない、貌は人間とそっくり同じなのに、荒っぽい霊圧は人間とも滅却師とも違う。もちろん死神のものでもない。迫り上がる吐き気を飲み込み、手のひらに霊力を込める。すると彼は心底面倒臭そうに大きく息をついた。


「めんどくせえことすんなよ、奥さん」
「あっ!」
「あんたと戦いに来たわけじゃねえんだ。大人しくしててくれ」


細い瞳から目が離せない。近づいただけで頭の中が真っ白になるほど、圧倒的な霊圧───…。
男は簡単に私を捩じ伏せた。畳に押さえつけた私に、彼は尋ねる。


「旦那は?」
「い、うわけ…ないでしょっ」
「威勢がいいな。嫌いじゃないぜ」
「ッ離して…!」
「スターク、意地悪しすぎ。別にその人に用があるわけじゃないでしょ。やめなよ」


場に似合わない明るい女の子の声が聞こえると、彼はふっと力を抜いて降参するように手を上げた。少女の声は、腰元の銃から聞こえたような気がするが、果たして。


「せっかく来たってのにいねえし。もう帰って寝るか」
「…どこに……」
「あんた、何も知らねえんだな」
「なにを…」
「本当にあの隊長さんの女か?てっきり副官とできてるもんだと思っていたんだがな」
「っ…」
「面倒くせえが、また来るぜ」


彼が空を仰いだ瞬間、もう二度と見ることはないと思っていた景色が目の前に姿を現した。髑髏が頭を垂れる、仰々しいほど巨大な“門”───地獄の門だ。そして彼は、まるで自由に行き来できるみたいに言った。
彼をこのままにしていたらきっと春水さんに危害を加えようとするだろうが、だからといって私が敵う相手でもない。斬魄刀があってもなくても、この事実は変わらないと思うと、歯痒くてたまらなくなった。
男は何を思ったのか、倒れたまま起き上がれない私の襟を掴んで引き寄せた。苦しくてたまらない。怖くて震えが止まってくれない。それなのに彼の寂しげな瞳が、気になって仕方がなかった。


「…あ、あなた……いったい…」
「旦那に伝えといてくれ。次は無いってよ。あんたも精々、殺されねえようにな」
「やッ……!」
「…愛されてんだな」
「いやっ、触らないでっ……!」
「俺とお揃いになるか?」
「い…ッた……いたいッ…!」
「スターク、早く行こうってば」
「分かった分かった」


着崩れた襟元には、春水さんによって残された生々しい赤や青の痕が散らばっている。少女に急かされて早くいなくなってしまえばいいのに、彼は白手袋を外し、鎖骨の下にねっとり触れた。
爪を立てて、ぐるりと円を描く。
ぶつぶつっと裂かれた肌に血が滲み、心臓に手が届いたと錯覚させるだけの苦しみと痛みが全身を巡る。
やがて爪に滴る血液を舐め、男は薄笑いを浮かべて言った。


「またな、奥さん。旦那によろしく」


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