▽あなたのいない場所(没版)、怜真


 渚くんが誰かと話している。相手の姿は、ちょうど建物に遮られていて、僕から目にすることはできない。
 少し大人びた渚くんの顔。僕のよく知る、無邪気で、底抜けに明るい彼とはどこか違う。何かが、違う。混ざっている、感情が。渚くんの表情は、穏やかなのになぜか痛い。
 彼に、そんな顔をさせる、話し相手のことが気になった。遙先輩だろうか、それとも、江さん、笹部コーチ、天方先生?僕の知らない人ならば、紹介してもらえばいい。嫌がったりはしないだろう、渚くんはそういう人だ。
 含みも、屈託もない僕の友人。付き合い自体、そう長いわけではないけれど。彼についてその程度は分かる。疑問なんて持つはずがない。
 僕は足を踏み出した。足音を立てて、渚くんに近づく。彼が僕を振り向く前に、声をかけた。
「渚くん」
「あ、怜ちゃん」
 こくり、と首を可愛らしく傾げて。瞳で、どうしたの、と問いかけられる。
 答える前に視線をずらした。渚くんの話し相手を、確かめるために目を動かした。でも。
「……誰も、いない」
「なに、探してるの?」
「今、誰かと話していたのでは」
「誰かって、誰?」
「いえ、それは、壁で見えなかったので……」
「そっかあ、見えなかったんだね」
 言えなかった言葉を飲み込むように、唇を引き結んで渚くんが笑う。見えなかった、とはどういう意味だろう。やはりここには誰かがいたのか。渚くんの話し相手は、僕が近づいてしまう前に、立ち去ったのか。
 でも、渚くんは僕が呼びかける直前まで、誰かと話をしていた。立ち去る暇なんてほとんどない。建物の裏を通ったとしても、よほど急ぎでもしない限り、去っていく姿のひとつくらいは目にすることができるはずだ。
 渚くんの言いぶりもまるで、僕の目に映らなかった誰かが、ついさっきまでここにいたような。
「誰と話していたんですか」
「んー? 怜ちゃんの知らないひと」
 彼らしくない物言いだった。これ以上聞くなと言われているみたいだ。
 僕は仕方なく口を噤んで、背中のリュックを背負いなおして、渚くんに「帰りましょう」と言った。彼はうん、と頷いて、僕のよく知る顔になった。痛みなど知らないような顔。

 空は青くて、水面も青い。岩鳶高校の屋外プールは、天気のいい日に真価を発揮する。例えば今日のような、雲一つない真夏の晴天。透き通ったプールの水は、さざ波にきらきらと陽光を反射して、ただひたすらに美しかった。
 心地よい冷たさに包まれて、泳ぐことだけに没頭する。昨日の僕より速くなるために、両腕を伸ばし、水面を裂く。そうしているとまるで、いつの間にか、自分と水との境目が分からなくなるような感覚に陥る。空気なんて吸わなくても、このままずっと、水の中で。
 出来るはずもないことを思う。ゴーグル越しの翳った視界。自分の吐いた空気の泡が頬を撫で、足先に向かって流れた。




2015/08/24 00:26


▽祈り、怜真
あなたが好きだった白い花であなたのことを覆いつくす。せめてもの手向けになりますようにと。


2015/07/15 21:24


▽三月兎と帽子屋、未来同棲怜真


扉を開けると、視界を埋め尽くすたくさんの花。色の奔流の向こう側から、ただいま戻りました、と声がする。
「おかえり。これ、花束?」
「ええ。どうぞ」
差し出されたそれを両手で受け取る。抱えるほど大きな花束は、ガーベラと、ユリと、小さなバラ、名前の分からない綺麗な花で作られていて、鼻腔をくすぐる甘い匂いがした。
見つめて、しばらく、考える。
「……ごめん、怜」
「なぜ謝るんです?もしかして、気に入りませんでしたか」
「ううん。あのさ、今日って何か、記念日だったっけ」
不安を込めて尋ねると、なんだそういうことか、とでも言いたげに怜は微笑んだ。
「いいえ。今日はなんでもない日です。強いて言うならば、なんでもない日おめでとう、といったところでしょうか」
「アリスの帽子屋みたいだね」
「では、真琴先輩がアリスですね」
「どうかな。俺は三月兎かも」
安堵から笑みを浮かべて、漂う空気を深く吸い込む。まるみを帯びた色とりどりの香りが、肺の中まで満たしていった。
「いいにおい。ありがとう、怜」
「喜んでもらえたのならよかったです」
「大きいから、分けてリビングと寝室に飾ろう」
そうしたら、寝ても覚めてもこのしあわせな香りに包まれることができる。
「ご飯できてるよ。一緒に食べよう?」
「はい、ぜひ」
俺の背後から怜が抱きつく。まるで花束を持つような手つきで。
くすぐったいよ、と声を出して笑うと、彼は手の力をすこし強めて、俺のすがたを確かめていた。


2015/07/15 21:16


▽嘘、怜→←真


好きな人を欺いた。
だからきっと、これは報いだ。
「恋人が出来たんです」
「……え?」
「好きだと、言われて。僕には忘れられない人がいましたが、それでもいいと言ってくれたから」
「そう、なんだ」
「真琴先輩も、上手くいくといいですね」
「……うん」
俺の好きな人はおまえだよ、怜。今更、そんなこと言えないけれど。
もう、随分前。怜から好きだと告白された。俺も怜が好きだった。けれど、俺は好きなひとがいると、嘘をついた。怜ではない誰かだと。どうしようもない、ただひとつの嘘を。
そうですか、わかりました。今でも、鮮明に思い出せる。怜の震えた声と、肩。俺は怜を傷つけた。彼の心を、身勝手に砕いた。
だから今、こんなにも、苦しい思いに苛まれて。
おめでとう、と言おうとした。喉につかえて声にならない。黙ったままの俺を見て、怜は寂しそうに笑いながら「あなたのことが好きでした」と言った。


2015/07/14 21:53


▽地上で産まれた人魚


初めて水に潜ったとき。
息ができないことに驚いた。
それ以外、俺にとって水の中は、地上と何も変わらない。否、むしろ地上よりもずっと自由で、過ごしやすい場所だったから。
周囲の同級生たちが、水面に顔をつけるだけで大騒ぎする理由がわからなくて、俺は誰もいない水の中でひとり、途方に暮れていた。そのとき友人と呼んでいたやつも、顔と名前が一致するだけの、話したことさえないクラスメイトもいない世界。もっと深く、そう思ったけれど、底があって叶わなかった。
こぽり。と。
口から泡を吐く。ひとつ、ふたつと吐き出すうちに、まるで自分が少しずつ、人ではなくなっていくようだと思った。人ではない、魚にもなれない、中途半端な存在に。だけど、自由だ。誰にも邪魔されない。新しい俺の世界。多分俺の全てになる場所。ここから一生、出たくないと、思った俺の目の前に、見知った手が伸びてくる。それは俺の腕を掴んで、凄い力で引っ張り上げた。途端に重力が戻ってきて、違和感に、気分が落ち着かない。
「ハルちゃん!そんなに潜ってたら溺れちゃうよ!」
俺を無理やり連れ戻した幼馴染のお節介が、ひとりで泣きそうになっている。目元の水滴は塩辛い色をしていて、プールの水とはまるで違った。
重力に、負けそうになりながら。すこしの吐き気を堪えながら。濡れたその眦に、水と同じ温度になった指先で触れてやる。
「泣くな」
泣いてはいけない、真琴。俺の居場所はここじゃないから。


2015/07/14 21:15


▽僕だけのもの、怜真


付き合い始めて変わったこと。真琴先輩の口調があまくなった。出会ったばかりの頃のように、後輩に対する話し方ではなくなった。それが遙先輩に使うのと同じものだと気付いたとき、胸の奥で悔しさに似た、嫉妬心がすこし暴れた。
彼の肩に頭を預ける。眼鏡をかけた真琴先輩が、不思議そうな顔をする。
「眠い?」
「いいえ」
「なんで拗ねてるの」
「拗ねてなんて」
いません、とは言い切れなかった。僕は勝手に思索を巡らせ、遙先輩への対抗心を波立たせ、真琴先輩の言う通り、確かに。そう、拗ねていた。
それと同時に、喜んでもいた。真琴先輩は、僕の何気ないたった一言で、僕が拗ねているということに気づいてくれた。手元の本を閉じて床に置き、僕の頭を撫でている。気にかけられるのは、嬉しい。
さほど複雑な気分でもない。喜びと、悲しみと、そのほかの感情が交錯することは誰にでもよくある。だから僕はその混淆とした場所からひとつを取り出して、首を傾ぐ真琴先輩に示した。甘えと変わらない身勝手さで、しめやかに機嫌を損ねてみせる。
「何かあった?」
「僕のこと好きですか」
「ええ?いきなり、なに」
「僕は好きです。大好きです。あなたがいないとダメなんです。真琴先輩はどうですか」
「……あのね、怜」
目元を、ほんのりと赤く染めて。
真琴先輩は僕に囁く。
僕だけにしか聞こえない言葉を。遙先輩も、この世界の誰も、僕以外には届かない言葉を。
僕の機嫌はいとも簡単になおり、むしろ上昇し、真っ赤になった真琴先輩の額にそっと、謝罪の想いを落とす。


2015/07/13 21:05


▽言い表せないほど嬉しくて、怜真


いいよ、とささやかな許しをもらい、恐る恐る手を伸ばした。
「くすぐったいよ」
ふふ、と真琴先輩がはにかむ。彼の頬にとどめた指先が、すこしだけ色を取り戻す。緊張から強張ってしまった指で、そろり、そろりと、真琴先輩に触れる。
「僕はずっと、こうしたくて」
「俺の顔に触りたかったの?」
「あなたに触れたかった」
「そっか、それじゃあ、ご感想は?」
「……とても」 
とても、言葉だけでは。


2015/07/13 21:02


▽例えば花のような、怜真


怜は、あなたを悲しませたくない、だなんて、安っぽい言葉をよくくれた。俺の心にはまるで響かない、どこにも届かない迷い子のような言葉。彼にとって優しい恋人である俺は、その言葉をさもありがたがって、嬉しいよ、と口にする。
知らないということは罪だった。けれど、知っているということはそれよりもっと重い罪だ。俺はもう、ずっと昔から、怜の紡ぐそういう言葉が嘘であると知っていたし、怜は俺が嘘を見抜いているということを知らなかった。

今日は早く帰ってきてね。決まった文章のメールを送る。ものの1分も待たないうちに、決まった文章のメールが返ってくる。すみません、仕事が忙しくて。そうだよね、うん。そうなんだ。怜の仕事は忙しい。毎日、毎日、夜遅く。疲れた顔で帰ってくる。時には明け方、日の昇る頃、シャワーだけ浴びてすぐに家を出るようなことも珍しくない。

ダイニングテーブルにひしめき合うたくさんの料理。とっておきのシャンパン。伏せられたグラス。白熱電灯の目に痛い光を、反射して輝くカトラリー。
すっかり冷え切ってしまったビーフシチューを皿ごと流しに捨てながら、悲しくなんてないよ、と呟く。今日もまた深夜に帰るだろう怜から、どうか俺の知らない匂いがしませんように。


2015/07/13 20:59


▽奔流、怜真


初めて真琴先輩に触れた瞬間、世界は間違いなく色づいたのだ。
例えばそれは、人の目が、物質の反射した光によって、そのものを青だと、緑だと、認識するのとはまるで違う。これまで見てきた景色の全てがモノクロだったのではないかと、信じてしまいそうに鮮烈な印象。色の奔流は指先から全身を駆け巡り、僕の感情を尽く乱した。
それを、恋と言うのだと、その時の僕は知らなくて。
真琴先輩を抱きしめた。衝動のままに。そうしたいように。


2015/04/21 23:09


▽線香花火、怜真


線香花火しようよ。
耳元にそんな囁きが届いた。彼の手には、煌びやかなアルミ箔と火薬の海、その片隅で息を潜めていた細く頼りない線香花火。ちょうど、二人分がこよりで括られ、ハルと渚には内緒でね、といたずらっぽく真琴先輩が笑う。
「ひとつ、賭けをしませんか」
肩を寄せ合い、額を突き合わせて、僕たちは火花の散る様を眺めながら。
「どんな?」
「そうですね、先に落ちてしまった方が、大切な秘密を打ち明ける、というのは」
「重たいね。すごく」
笑みながら、彼は頷いた。触れそうな額と同じ距離で、まるい火花は、互いに干渉しながら。
「あ」
惹かれて、地面に、吸い込まれる。


2015/04/21 22:58


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