泣いてる子供の影がちらつく


 タペストリーの部屋の片付けがなかなか終わらない。もっとも、ハリーの手前でなければ、こんなに真面目に片付けたりしないだろうなと頭の端で考えながら、私は埃を被った黒表紙の本を拾い上げた。

 ハリーは未だ家系図のことが気になっているのか(膨大なものだから自分も子供の頃は暇潰しに眺めていた記憶はある)、壁に視線を配りながら作業していた。

 そんな彼が、ふと立ち止まり首を傾げる仕草をするので、私も作業の手を止めた。

「どうした、ハリー」
「あっ、ううん。なんでもないよ、シリウス」
「気になることがあれば言えよ。どうしたんだ」

 持っていた本を投げ捨てて、ハリーの前に片膝をつき、彼の顔を覗き込む。

 リリーに似た緑色の瞳が躊躇するように左右に泳いだが、ハリーはやがて言葉を選ぶようにして口を開いた。

「シリウスに弟がいたのは分かったんだ。でも、お姉さんもいたんだね」
「ああ。いるよ」

 そのことか。

 切り出したときに口籠もりこそしたものの、俺が軽く答えたことで好奇心が大きく膨らんだのだろう。
 ハリーはひとしきり手元のガラクタを片付けたところで、私の隣に座り込んだ。

「シリウスのお姉さん、今はどうしているの。タペストリーに名前があるってことは、この家にいるんじゃない」
「いいや、いない。叔父のアルファードと結婚して、彼が亡くなってからは未亡人になった。俺が最後に会ったのは、裁判の時だ」

 謀られた判決。形だけの裁判。
 既に結論は出ていた。誰も碌に関心を示さないその傍聴席で。

 ただ一人だけ、身を乗り出して看守に引き摺られる俺の方に手を伸ばしてきた姉の姿は、今でもはっきりと覚えている。

『不当よ!証拠を出しなさい!こんなもの、裁判だなんて認めない!』
『シリウスを、私の弟を返して!!』

 普段の陽気な性格が嘘のように、大きな瞳に涙を張り、いつも明るく笑っていた声が悲痛の叫びに変わる。

 俺は生まれてからこの方、彼女のそんな表情や声を、見たことも聞いたこともなかった。

「じゃあ、今は」
「さあ、どうしているんだろうな」

 未だ耳について離れない。俺の名を叫ぶ声を掻き消すように頭を振り、すっかり目を伏せてしまったハリーの頭をできるだけ優しく撫でた。

 ダンブルドアならば知っているだろうか。あのブラコンが、今頃どこでどうしているのか。

 死んだという噂は聞かないから、生きているはずだ。俺が脱獄したニュースはマグルの世界でも流れているくらいだし、きっと向こうは知っているだろうに(俺の知っている姉ならば、弟の居場所はダンブルドアを脅してでも聞き出すだろう)。どうしたことだ、私に会いに来ないのは。

「まったく、いつも勝手に探してやってくる癖に」

 こういう時に限って来やしないお姉様。
 転がっていた黒表紙の本。その右下に金文字で彫られている名前−−「アトリア・ブラック」、その人であった。




 容姿端麗、才色兼備。
 ある男は、彼女を花のように美しいといい、ある女は、鳥のように気高いといった。

 十人と擦れ違えば十人が振り返る。気が付けばいつだってスリザリンの輪の中心にいる、彼らが誇るプリンセス。

 しかし、残念なことにそのプリンセスも。

「シリウス!前髪伸びたのね。今日のあなたも素敵よ」

 視界に『弟』という生き物が入った途端に、ただのアホな姉になる。

「おい、髪触んな」
「ツレないわねえ。でもそんなシリウスも可愛いから安心して頂戴。あら、ネクタイが曲がってる」
「だからいいって!自分でやる!」
「出来ないから曲がってるんじゃない」
「ほっとけ!」
「嫌よ!あなたを放って置くくらいならば今ここで果てるわ!」
「やめてくれ!重い!」

 杖を自らの首元に突き付けて、自虐行為に走ろうとするアトリア。スリザリンの取り巻きたちはそれを止めようと必死だ。

 (毎度ご苦労なこった)

 だからって、そんな刺すような視線を俺に向けんなよ。これは俺が悪いんじゃない。

 すると、今度はそのグレーの瞳がもう一人の弟を捉えて一層輝きを増した。

「あら、レギュラス!」

 呼ばれた当人の眉が、ひくりと動いたのを俺は見逃さなかった。

「とりわけ用がないならば失礼します姉様」
「用ならあるわ。同じ寮にいるのになかなか会えないし、三日ぶりに可愛い末っ子の顔を見たのよ。ほら、もっとよく見せて頂戴な」
「お構いなく」
「ああんっ、そのツレないところ。久々のレジーだわあ」
「ブラック家の長女ともあろう方が、白昼堂々なんて声を出しているんですか恥を知りなさい気持ち悪い」

 大切なことだからあえて二度言おう。弟たちを前にしただけで、本当に、ただの、アホになる。

 見た目に騙される輩はともあれ。知っていても、なお信者みたいに崇める輩まで現れるのだから取り巻きの気が知れない。

「は、あの姉が好き?お前の視力大丈夫か。別に止めやしないが後悔するぞ」
「姉様ですか。好きでいるのは自由ですが、美しい花の茎と棘にはヌガーが塗りたくられているので気をつけて」

 一から九まで意見の合わない弟とも、姉のことになると驚くほど意気投合した。
 



 その日も、俺は母親と喧嘩した。

 口を開けば、純血たるもの立派になれだの礼儀がどうだの、スリザリンがあーだのと喧しかった。右から左に流すのも限界があるわけで。
 ホグワーツでグリフィンドールに組み分けされてからというもの、家にいれば喧嘩するか、無視されるかの二択だった。

 (早く成人して、こんな家さっさと出てしまいたい)

 気持ちは急いても、時が早まることはない。悔しくて唇を噛んだ。重い足を引き摺りながら、長い廊下を歩いていると。

「母様」

 明かりが漏れている部屋から、アトリアの声がした。

「いくら母様でも今日はあんまりだわ。言い過ぎです。シリウスは私の弟よ」

 まるで自分のことのように、苦しそうに訴えるアトリア。その言葉を聞いて、胸のシャツを握った。

 目頭が熱い。情けない涙が溢れる前に、オレは袖でぐいと拭って踵を返した。

 普通に歩いていたのが、早足になり、駆け足になる。自分の部屋のドアを背に、寄りかかるようにして扉を閉めた。そうして、ずるずると床に沈む。

「少しくらい、構ってやってもいいかな」

 俺の名前を呼びながら、うざったいくらいに絡んでくる姉の笑顔を思い浮かべてそう思った。

 ところが、次の日。

「アトリア……?」

 屋敷のどこにも、姉の姿がなかった。

 クリーチャーを呼び止めて問いただすが、母から口止めされているらしく聞き出すことはできなかった。こんな時に限ってレギュラスは部屋に篭って出てきやしない。

 (どこだ。どこに……!)

 ふと、小さな影が壁に吸い込まれていくのが見えた。

「クリーチャー、か……?」

 俺は曲がり角に身を隠し、息を潜めた。

 やはり、見間違えではなかった。クリーチャーは、吸い込まれた場所から十分と経たずに吐き出されるように出てきた。その手には、空になったプレートを抱えている。

 (食事の、跡)

 クリーチャーの背中が見えなくなってから、俺は彼が出てきた壁に向き合った。ぐっと押すように手を翳すと、向こう側に通じていた。俺がそのまま壁を通ると。

「まあ!シリウス!」

 そこは牢になっており、中ではアトリアが椅子に座って分厚い本を読んでいた。

 驚きよりも嬉しさが優ったのか。俺を見るなり、疲れているように見えた表情にも喜色が差した。

「よくここを見つけられたわね!さすがは私の弟だわ!」
「伊達にホグワーツ通ってねーよ。あそこだってヘンテコだろ」
「ふふ、そうね!」

 鉄柵の向こうから手を伸ばして、髪を撫でてくるのを甘んじて受け入れた。
 そんな俺に、アトリアは大きな瞳をやさしげに細めて、眉を少しだけ寄せて言った。

「どうしたのかしら、私の可愛い弟は。いつもより元気がないように見えるわ」
「流石はお姉様。
 ーーー昨日、俺を庇ったろ」
「あら、何のこと?」

 俺がぐっと口を結ぶと、彼女は明るく戯けて見せた。

「私はただ、本当のことを言っただけよ」
「それで牢に入れられたら世話ないだろ」
「本望よ。シリウス、私の大切な弟」

 濁りのないグレーの瞳が、真っ直ぐに俺を見つめて微笑んだ。

「やめてくれ。お前のそれは自己満足だ」
「ええ、それでいいの」

 狂ってる。ここまで来ると一種の狂気だ。
 もしかして、閉じ込められたのも、これが初めてではないのかもしれない。

 (それでも)

 アトリアがいなければ、俺はきっと幼少期をこの家で過ごすことは出来なかっただろうと今でも思う。
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