修繕費、五千円頂きます
朝餉を終えて護衛の任が解かれたことを告げると、六夜は「そうか」と短く答えた。
「ご苦労だった。ありがとう」
会ったばかりの頃のような緩い笑みに見送られ、日が沈んだ頃に帰路に着いた。
しかし。
(どうにも胸騒ぎがする)
任務は終わった。にも関わらず、足元に後味の悪さが付き纏う。
遂に、オレは短冊街を出る手前で足を止めた。
(三代目からは鼻が効くと言われたっけ)
まさに面の鼻先が、ぽつりぽつりと水を弾いた。
「雨……」
真っ黒な雲が覆う空を見上げた。
その色は見覚えがあった。
『私が壱かもしれないよ』
自らの言葉を戯言だと嗤った六夜の瞳。その闇色に似ていた。
(本当に、戯れであんなことを言ったのか)
自分一人ではこれっぽっちも動こうとしないものぐさで。人の気を知ってか知らずか逆撫でするような言い方をすることも多々あるが、ほらを吹くような人間には見えなかった。
(仮に、語られた言葉が全て真実だとしたらどうだ)
あの時咄嗟に止めた思考を、一人になった今再び巡らせてゆく。
なぜ当主は跡継ぎの名言を避けているのか。
『御当主には、奥方様との結婚前に好いた女性がいて、今もどこかに匿われてる』
「本当の長男が別にいるから」
なぜ護衛がついている兄弟と、ついていない兄弟がいるのか。
『皆が皆、本妻の子であるとも限らない』
「護衛がついているのが本妻の子どもだとしたら」
壱と弍、肆、陸。
『弍と肆は双子じゃあないのかい。あの二人は外見も中身もよおく似ている』
『弐様と肆様は物静かな方だけど、二人揃って麗しくてとてもお優しいわよ』
双子は古くから忌み子として扱われ、嫌われる傾向にある。そのため長男を手元に、次男を養子に出すことが多い。
二人とも手元に置きたいがゆえ、あえて順番を離して公表したとしても不思議はない。
「本妻の息子は壱と弍と肆、陸」
ならば、他の息子たちは。
『ここは短冊街。その主ともなれば、男女の駆け引きはお手のもの。本気になった方が悪いのさ』
「母親が違う」
なぜ、壱と弍、肆は忍衆が囲いながら、陸は他国に頼むのか。
「なぜだ」
考えろ。思い出せ。
本妻が神経質になっている理由はなんだった。
『跡継ぎを正式に発表する前に、その人が子どもを連れて出てくるんじゃないかって』
連れて出てくるのではなく、その人の子どもが既に城にいるとしたら。
『壱が弐で』
「陸が、壱だから」
途端に、眼下が騒がしくなった。
激しくなった人の流れ。
それを目で追うと、向こうの空が真っ赤に染まっていた。
「短冊城が燃えてるって本当か!?」
「天守閣は無事だ!燃えてるのは西の小天守だってよ!」
西の小天守。
「六夜……!」
オレは来た道を駆けた。
六夜が噂の子どもなのだとしたら、本妻が目の敵にしていてもおかしくない。自分の子どもを跡継ぎにするため、抱えている忍衆を使って本当の『長男』である彼を排除しようとするだろう。
彼の母親はそれを知っていて、本妻の息がかかっていない様々な里の忍に護衛を任せていた。
(母親がどこで囲われていて、なぜこのタイミングで依頼の期間が終わったのかについては疑問が残るが)
少なくとも、忍衆はそれを事前に知っていたはずだ。仕掛けてくるのが早過ぎる。
殴るように叩きつけてくる雨が鬱陶しくて面を外した。額に纏わり付いてくる前髪を掻き上げて速度を上げる。
城に着いた頃には、炎が西の小天守の下層を飲み込み上層階へと及ぼうとしていた。
(おかしい)
これだけ雨が降っていて、周りで消火活動を行っているにも関わらず火の勢いが一向に衰えない。何より、燃えているのはその建物だけで、辺りには火が燃え移っていない。
(忍術か)
オレは水堀りの水に頭まで浸り、一気に跳躍した。
来た時のように二階から入ろうとしたが火の勢いが強いため、三階の窓格子を壊して煙が巻く城内へ踏み入る。
「六夜様!六夜ー!」
逃げたらならいい。だが。
『私一人がいなくとも、この世界は回る』
自分から逃げるとは思えなかった。
倒れてきた柱を避け、小天守への階段を駆け上がる。
「いるなら返事しろ!六夜!」
「ーーーどうした騒々しい。忘れ物かい」
登り切ると、静かな声が響いた。
「参ったねえ。燃えた梁が落ちるのを待っていたはずが、夜空の月を呼び寄せてしまったようだ」
束帯姿の六夜が、居住いを正してそこにいた。背中に流していた髪は垂纓冠に仕舞い、右手に檜扇を持っている。
「馬子にも衣装だな」
「こらこら。口に出ているよ」
苦笑する表情も声もかのものぐさのものなのに、着るものが違えばそれは一介の公家のものとなった。
「なんの心境の変化だ」
「なあに。見たいと言っていたからねえ」
束帯は成人の儀に用いられるもの。
「母親か」
無言の笑みは肯定だった。
「母は小さな城の娘だった。父と会った経緯は知らないが、私を身籠り駆け落ち同然に家を出た」
しかし、大名の座に着いた父親が結婚相手に選んだのは本妻の方だった。
「物心がついた頃に、私は父に引き取られた。息子だったからねえ。本妻から目の敵にされた母は、短冊街のうんと外れに追いやられたよ」
本妻の嫌悪は次第に六夜に向くようになった。
「壱が生まれてからは酷かったなあ。本を読めば破られ、武芸をすれば叩かれて閉じ込められた。十を過ぎた頃、これ以上知恵をつけて力をつけようものなら母を殺すと言われた」
侍従は逃げ出したのではなく、執拗な本妻の嫌がらせを受けていたのを見つけた六夜が逃したのだという。
「この束帯は、その彼が母から託されたものだ」
母と息子の橋渡しをしていた侍従は、去り際に桐箱を手渡した。
『ひと目でいいから、成人した六夜を見たいものです』
実母の言葉と共に。
「『六夜』という幼名。別れる際に掛けてもらった母の羽織。そして束帯が入っていた桐箱。花頭窓から見える景色。これだけが私に許されたものだった」
それからは、ただただ徒らに日々を過ごした。何もせずに、何もできずに。
「父が老い、跡目の話が浮上した頃から忍衆が動き出したんだ。本妻の意向でね」
「命を?」
「バレたら都合が悪いのだろう。死なない程度の毒を、ね。度々盛られるようになった」
食が細かったのではなく、無意識下で食が進まず食べられない身体になっていった。
「父も人が悪い。継母がそうだと知りながら、私という火種を残して素知らぬふり。あの人は女同士の争いが見たいだけなのさ」
「せめてもの償いだとは、考えられないのか」
「参と伍の母親はそれぞれ別だよ」
農村の娘と、舞妓の娘だったかなあ。そういえば、宿場の女将とも通じていたっけと聞いて頭痛がした。
「母は家と金、服や飾りなど当面のものを与えられ、そこで暮らしていたと聞く。しかし、跡目を『長男』に譲ることが公とされてからだ。私の暗殺を恐れてか、度々護衛を寄越すようになった」
しかも、難度の高い護衛ともなれば当然金が嵩む。
「元々身体も強くない。金を作るために一体どういう無理をしているのか。想像に難くない」
「なら、今回依頼が切られたのは」
六夜は痛ましげに目を閉じた。
「亡くなったのだろうなあ。だから、いよいよ火を放ったのだろうよ。邪魔する者が消えたから」
ぐらりと、自分の身体が傾いた。
咄嗟に床に手をついたが、支えきれずに横たわる。
六夜がこちらに駆け寄ってくるのが見えた。
「煙を吸いすぎたか」
火は既に階段を飲み込んでいた。
彼はオレの両脇に手を差し入れ、そのまま窓辺へ連れて行く。口布をするりと顎まで下された。
息を吸うと、窓から入る新鮮な外の空気が肺に回っていくのを感じる。
「少し休んでいなさい」
それから六夜はオレに背を向けて、垂纓冠と束帯を脱ぎ、自分が座していたところに広げた。そしてその上に羽織を掛ける。
白小袖になった彼は、こちらに戻ってきて屈んで視線を合わせた。
「君は泳げるかい」
唐突な問いに頷くと、六夜はゆるりと口角を上げてオレを肩に担ぎ上げた。
「よっと」
「待て。どうするつもりだ」
「逃げるんだよ」
彼は窮屈そうに身を小さくして窓を潜った。来た時より激しさを増した雨風が、ぶわりとオレたちを煽ってくる。
「月光に染まる髪を煤色にしてまで来てくれた君を、こんなところで死なせるわけにはいくまいよ」
六夜は器用にも棟の上を滑るように降りていく。
「お前、忍術の心得でもあるの」
「いんや。さっぱり」
「さ……」
「兎にも角にも外に出さえすれば、後は君が何とかしてくれるだろう」
忘れていた。
この男、良くも悪くもものぐさだった。
『君は泳げるかい』
(まさか、このまま水掘りに飛び込むつもりじゃ……?!)
さっと血の気が引くオレに対し、六夜は真昼の夏空のように爽やかな笑顔を浮かべてみせた。
そのまさかだった。
「ちょっと待ーーー」
「自由に空を駆ける鳥のようになれたらよかったのになあ」
「願望やめろォオオオー!」
六夜はオレの静止を意にも留めず棟を蹴った。
燃える城からの別れと同時に、内臓が持ち上がった次の瞬間。重力に引っ張られるまま落下。
ーーードボン!
人々の死角で、二人分の水柱が派手に上がった。