それが私の幸せのかたち


 ーーーチュン、チュン。

 小鳥の囀りが聴こえる。

 (まだ起きたくない)

 ふわふわのお布団に顔を埋めると、お日様の香りがした。そういえば、書店を継いでからこんなにゆっくり眠ったことなかったっけ。

 寝返りを打って、薄く目を開く。

 (壁、白いなあ)

 木目がお決まりの我が家にはあるまじき白さだ。

 (何かおかしい)

 ぼうっとその色を眺めていたが、徐々に脳味噌が違和感を訴える。咄嗟に起こした身体は、見覚えのないぶかぶかな黒のスウェットを着ていた。

「ここ、どこ」

 知らない枕、知らないベッド。そもそも我が家はベッドじゃなくて布団だ。洋室じゃなくて和室だ。

 窓台には、芽吹いたばかりの「ウッキー君」という鉢植えが鎮座しており、その隣に写真立てがあった。

「額当てってことは、スリーマンセルの写真かな」

 木の葉の額当てをした少年二人と少女一人、それに先生らしき人が一人写っている。

 (それにしても)

 ゴーグル少年の横にいる、黒マスクで鼻まで隠している目つきの悪いこの子。妙に見覚えがある。

「どこで見たんだっけ」

 普段から接客しているから、それなりに人の顔と名前は覚えている方だと思うんだけど。

 (ダメだ、考えようとすると頭痛い)
 
 いいや、めげるな。もうひと頑張りしてみろ、わたしの脳細胞。
 頭の痛みに耐えながら首を捻っていると、部屋のドアがノックされた。

「遼、起きた?入るぞ」
「あ」
「え、なによ」

 そうだ、はたけさんだ。

 写真のマスク少年。声を上げたわたしに驚いて、ドア開けたまま停止している目の前の彼にそっくりだ。

「てことは、ここ、はたけさんのお家ですか」
「そう。昨日の夜のこと覚えてる?」
「夜、」

 と言われて、顎に手をやり記憶を辿る。

 昨日は、閉店後にはたけさんと食事処に行って、個室で海鮮御膳をご馳走になった。大トロのお刺身美味しかったなあ。それから、

 (……それからどうしたっけ)

 思い出せない。
 御膳食べた後の記憶から、朝起きるまでの記憶がショーカットされている。スッパリと切れてしまっている。

 (いや、思い出さないと!)

 こめかみをぐりぐりして、眉間を揉んで、頬を引っ張って。思い出したのは、

『はたけさんってお酒飲むんですか』
『嗜む程度にはね。遼は?』
『飲んだことなくて』
『じゃあ飲んでみたら?』

 勧められるまま、慣れない辛みを胃に落としたこと。

『いいれすか。エロスとは美れす。隠された繊細なる美なのれす。それを暴く一瞬こそが、至高なのれす』
『なんの話』

 その後の、女にあるまじき破廉恥な発言の数々だった。

『エロければいいってもんじゃないのれす。やりすぎれば最早卑猥れす。エロスに対する冒涜なのれす』
『遼さん、個室と言っても隣近所あるからね。聞こえちゃうから、もうちょっと声落として』
『わらしだってそれくらい知っているのです。知識なら山ほど持っれます』
『うん、凄いね。でも今必要なのは知識じゃなくて正常な意識……、何かなこの手は』
『はたけしゃん綺麗れすよね。こんな綺麗な人なかなかいないもん。服の下ももっろ綺麗なんらろうな』
『待て待て待て待て。そんなところに手ェ入れないの。服を放しなさい!こらっ!』

 はたけさんの脇腹を撫でた。身体細く見えるのに筋肉質。肌は滑らかでーーー

 (じゃないッ!!)

 生々しい記憶を思考ごと強制終了した。

「わ、わたし、はたけさんを押し倒してひん剥いちゃいましたか」
「剥かれてはないけど、馬乗りはされた」
「ひいっ!すすすすすすみせん……!」

 ベッドの上で土下座した。
 このまま埋まってしまいたい。酔っていたからといって許される問題じゃない。歴とした犯罪だ。恥ずかしくて顔熱いのに、冷や汗がだらだら流れて、なんかもうダメだ。はたけさんが普段通りの対応なのが逆に恐い……!

 縮み上がる心臓。不意にスプリングが軋む音がして体が強張る。恐る恐る顔を上げると、ベッドの端に座ったはたけさんと視線がかち合った。じいっとわたしを見つめていた右眼が弧を描く。

「ま、昨日は知らずに勧めたオレも悪かったから」
「で、でも」
「あの後、オレもお前に幻術使って眠らせたからおあいこ」

 それは正当防衛として当然のことだと思う。むしろ、眠らせる程度で済ませてくれたの優しすぎる。そこら辺に放置されるか、放り出されていても何らおかしくなかった。

 はたけさん曰く。
 眠ったわたしの持ち物を触るわけにもいかないので抱えて自宅へ帰り、忍犬たちに頼んで着替えさせてからベッドに寝かせたという。

「はい、昨日の洋服。洗っておいたから」
「すみません、ありがとうございます。忍犬さんたちにもよろしくお伝えください」
「うん、伝えておくよ。着替え終わったら朝ごはん食べていって。それと」

 はたけさんは、一旦言葉を切った。そして、表情と感情を無に落としてから言った。

「今後は酒類一切禁止、な」
「はひ」

 ワントーン低くなった声色。今朝一番、肝が冷えた。

 


 借りたルームウェアは洗って返すことにして。寝室を出ると、お味噌汁の香りがふわりと漂う。そろそろとテーブルに近づくと、二人分の食事が用意されていた。

「わあ、凄い」

 白ごはんにお味噌汁、焼き魚といんげんの胡麻和え。それに、納豆。なんて贅沢な朝ごはん。

「男の一人暮らしだから、大したものじゃないけどね」

 同じ一人暮らしの身として言わせてもらうなら、

 (大したことだよ、これ)

 朝は作るとしたら、白ごはんにお味噌汁が限界だ。作るのも面倒で、食パン一枚で済ませることだってある。魚を焼くなんて考えたこともない。

 はたけさんが、湯呑み片手に腰を下ろす。わたしも空いた席に座って手を合わせた。

「「いただきます」」

 感動した。
 お魚の塩加減も焼き加減も絶妙。インゲンの胡麻和えうんまい。白ごはんに合う。

 あ、お味噌汁の中に茄子入ってる。柔らかい。お味噌の具合もちょうどいい。ごくりと一口。ほんのりと胃が温かくなるこの感じ。ほっとする。

 それに、この空気。

「なんか、いいなあ。懐かしい」
「そう?」
「朝から誰かが作ってくれたものを食べるのって、随分久しいものですから」

 じっちゃんと暮らし始めてから、炊事はわたしの仕事だった。一人暮らしの今は、尚更それが当たり前で。

 だから、朝起きて、温かい朝ごはんが用意されているということも。こうして、ゆっくりご飯を食べているということも。

 世間一般で当たり前なことが、今のわたしにはどうしようもなく懐かしく感じられた。

「……オレも」
「?」
「誰かと朝ごはんを食べるのは久しぶりだ」

 いいもんだね、と微笑む彼の顔。

 (ああ、わたしだ)

 一見穏やかに見えるそれだが、憂いを帯びる瞳の奥の色は確かに見覚えがあった。

 毎朝起きて、鏡の前で見る自分の目。
 大切な人を、その人との時間を、未来を、失った人の目だ。

 もっと何かできたのに。
 あの日、ああしていれば。
 あの時、こうしていれば。

 いくら後悔しても、戻ってくるものなど何もなくて。分かっているのに、最悪の過去だけが頭の中をぐるぐる回っていて。

 でもそういう時は、

「はたけさん」
「なーに」

 特別な言葉なんていらなくて。

「お味噌汁おかわりいいですか」

 慰めも、励ましも、同情も。心配されても困るだけだから。

「うん、いいよ」

 ただ、ここに居て。

「胡麻和え残ってるけど持って帰る?タッパー入れてあげようか」
「是非」

 何をするでもなく。いつものように。
 そしたら、ほら。

「ふ、現金というか図々しくなったねェお前」

 また、笑えるから。

「素直と言ってください」

 わたしも、貴方も。
 笑っていられるから。
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