どちらにせよ情けない朝V
「そういや爆豪、お前はどこに帰るつもりなんだ」
荷物の準備をしながらタクシーを待っている、そのあいだにふと焦凍くんが言うので、手を止めて思案する。
この状況はなるべく公表せずに穏便にやり過ごすと決めたはいいものの、私生活まで入れ替わる必要があるかどうかは、たしかに悩ましい。
爆豪は考えるのにもうんざりしてきたようで、焦凍くんの体を通して発せられる声は、より一層低くなっていた。
「……プライベートまでてめェになれってか? 冗談じゃねえ。ってか、どこに帰るだの誰といるだのプライベートまでいちいち誰も尾け回したりしねえだろ。自惚れんな」
「そうか? 意外とそのへんにいるから気を付けたほうがいいぞ。でけぇカメラ持ったやつとか」
「……そういやてめェらはつい最近も呑気に撮られたばっかだったな」
しばらく思案したあと、爆豪はハアと吠えてから、さっと立ち上がった。
「俺は自分ちに帰る」
「そうか、わかった。まあ、問題ないだろ。この状況で他人の家に住むのも落ち着かねえしな。俺も和室じゃねえといまいち落ち着いて眠れねぇし」
「和室うんぬんは知らんわ」
慳貪な台詞を吐きながら、外していたコスチュームのパーツや、本来の自分の私物を手際よく仕分けていく。
どれが「轟焦凍」を演じるのに必要で、どれが「爆豪勝己」のままでいるときに必要か、瞬時にイメージがつくのだろう。ふだんは頑固だけれど、それ以上に彼はフレキシブルで器用な人間だということを思い出した。
「……なまえ、お前はどうすんだ」
病院用のスリッパからブーツに履き替えながら、爆豪は私に問う。
「私? 私は特になにも変えないつもりだけど」
「今日これからの話だっつの」
「……ああ。じゃあ焦凍くんの家まで付き添おうか? 荷物とか持つよ。爆豪の体、けっこう怪我ひどいし」
「ア? その程度の怪我なんかほっとけ。轟、明日ここで簡易治癒の予約取れてっから行っとけよ」
「わかった。でもたぶん、これ全部は治んねえぞ。リカバリーガールとは違う」
「そんぐらい我慢しろ。てめェも慣れてんだろ」
吐き捨てるような爆豪の物言いがすこし気に入らなかった。そんぐらいとか、ほっとけとか、自分の体に対して彼がそういういい加減な言葉を吐くところをはじめて見た。
ふだんも口に出さないだけで、自分の体に残った傷を見てそんなふうに思っていたのだろうか。
「……爆豪、自分の体なんだから大事にしてよ。少なくとも今日は思うように動けないと思うんだけど……利き手だし、心配だよ。もしひどくなったら――」
本来は爆豪のものである腕にそっと目をやる。痛々しく巻かれた包帯は、見ているだけで体がひりつきそうだ。
続きの言葉を言おうとした途中で、爆豪の機嫌の糸がぷっつりと切れたのがわかった。
「……てめェは一体、どっちの心配してんだよ」
掠れた声は、ひりつくアルコールのように鼓膜を刺す。
私がその質問の意味を理解するのに数秒かかって、そのころにはもう爆豪は荷物を引っ掴んで病室を出ようとしていた。
私はとっさにその上着の裾を掴む。
「ちょっと待ってよ」
「……離せや」
「心配に決まってるよ」
いつもより冷たい温度のオッドアイはちっとも揺らがず、冷静さも失わなかった。
――私だけが、どうしてこんなに必死なのだろうか。
友達だから、居候だから、なんて薄っぺらい台詞が喉元まで込み上げてきたのを嚥下した。『友達と思ってねェわ』という爆豪のせりふが、なぜだか今になって頭のなかでこだまする。
それに、私はさっき「焦凍くんからの電話」を取ってここまで走ってきたのだ。
私が吐くどんな言葉も、爆豪のためにはならない。ただただ自分を正当化するためだけのくだらないせりふにしかならない。それだけはわかった。
「……アイツのことしか見てねえクセに。『俺』には目もくれなかったクセに。どの口が言ってんだよ、なぁ」
恐らく爆豪と私にしか届かない、口元だけで紡がれた苦しい言葉だった。
――一字一句、彼の言う通りだ。
私が「轟焦凍」という文字を追い掛けてここへやってきたことも、私がどんなひとみで「轟焦凍」を見つめているのかも、恐らく爆豪にはぜんぶ知られてしまった。たぶん今は、彼のほうが私よりも私の感情を知っている。
思わず抱き着いてしまった瞬間にその肩が強張った理由も、今になってわかる。
「……イライラすんだよ」
怒りを押し殺したような切羽詰まった声とともに、爆豪は私を睨み付けた。
恐らく「ごめん」という言葉もふさわしくない。爆豪だってそんなものは端から求めていないような気がして、私は口を噤んだまま佇立していた。
「爆豪?」
焦凍くんが探るように呼んだのをきっかけに、爆豪が私に向けていた苛烈な視線は途切れた。
ふうと息を吐く爆豪はやおら振り返ると、やけに穏やかな、凪いだ声で言う。
「なまえ。てめェんち帰っから。お前もあとで帰ってくんだろ」
「あ、うん……」
「危ねぇから車使え。じゃあな」
言葉の純粋量よりもはるかに膨大な意味を持った彼の視線が鈍色の残像を残して、去って行った。
残された私と焦凍くんの間に、わずかな沈黙が流れる。
よりによってなんでこんな場面で、まるで気遣うみたいな優しい言葉すら孕みながら、爆豪はそれを言ったのか。
「なまえ」と焦凍くんが私を呼ぶ声がする。振り向くのすら怖かった。
そこには、状況が飲み込めないという顔の焦凍くんがいて、なにも着飾らない言葉で私に尋ねた。
「あいつ、お前んちに帰るって言ったか?」
ちくりと針を刺されたように胸が苦しいけれど、爆豪のことを責める資格は私にはない。
小さく「うん」と頷くと、焦凍くんがわずかに目を丸くする。
「あいつ、自分ちでなんかあったのか?」
「実は、詳しくは知らない。でもどうしても家に帰りたくないみたいだった。少し前から」
「それでお前が手ぇ貸してんのか」
「成り行きで」
「……それ、成り行きだって思ってんのお前だけじゃねぇのか」
珍しく鋭く尖った目付きだった。
もしくは、爆豪の顔だからそう見えるだけなのかもしれない。
思わず固まる私を見て、彼は俯いてしまった。
「……わりい、いろいろ変なこと聞いて。正直、気が気じゃねぇんだ」
切なげに眉根が寄せられる。
できることなら、嘘も隠しごとも飲み下して、このまま今すぐに消えてなくなりたい。
いつかこうなるかもしれないとわかっていて爆豪とのことをずっと隠していた理由はひとつ、後ろめたかったからだ。
焦凍くんの電話が鳴って、手配していたタクシーの到着を知らせる。
焦凍くんは「今行きます」と電話を切ると、やおら歩み寄ってきて、私を両腕で包み込んだ。
彼とこんなにも深く温もりを交わすのは初めてだというのに、皮肉にも、それはよく知っている肌の温度と感触だった。肌同士が馴染むような感覚が私を責め立てている気がして、思わず眉を顰めた。
「……もうちょっと一緒にいてぇけど、今日は一人で帰る。今日お前に付いて来てもらったら、あいつのところに帰したくなくなる」
「……焦凍くん」
「心配すんな。明日ちゃんと治癒受けるって約束する。なまえ、先に乗ってくれ」
かすかに緩む唇を見て、ぎゅっと胸が締め付けられた。
私はこの人をこれ以上悲しませても、傷付けても駄目だ。
なんのために彼の隣を歩んできて、なんのために彼のそばにいるのかを忘れたくなんかない。
もはやこの感情がただの恋慕でも憧憬でもなくなりかけていることには気付いていて、けれど、それでもよかった。ここが自分の居場所だと思えるからだ。
「ありがとう、また明日ね」とガラス越しに焦凍くんと手を合わせて、私は病院を後にした。
混沌にも似た空間から這い出て、しばらくぶりにひとりになったとたん、圧し掛かっていたものがすっと降りるように肩が軽くなった。
『今から帰るね。家に帰ったら、話がしたい』
深く息を吐きながら綴ったそのメッセージには、案の定、すぐに既読がついた。
◇
「終わりにしよう」なんて言うのがそもそもおかしな話なのかもしれない。
だってそもそも私と爆豪は、始まってもいない。
爆豪との関係はまるでぬかるみに足を踏み入れたみたいで、いつの間にか抜け出せなくなっていた。
もしかしたら爆豪も一緒で、ただ抜け出せなくなっているだけなのかもしれない。
私は爆豪の肝心なことはなにも知らない。代わりに、食べるスピードだとか、目覚ましアラームの音がやけに小さいことだとか、同じTシャツを何枚持っているかとか、そういうくだらないことばかり知っている。
そういうぬるいだけの関係が、なにか爆豪のためになっているとも思えなかった。
――考えれば考えるほど、私は彼と離れるべきだと思えてくる。
私がさっき送ったメッセージにはすぐに既読がついたのに、家に着くまで爆豪からの返信はなかった。