どちらにせよ情けない朝U
正午を過ぎたころには、「さっきの事件は無事に片付いた」というメッセージが焦凍くんから入っていた。
ほっとして自分の仕事を進めていたけれど、やけに彼らの帰りが遅いことに気付く。
警察への引き継ぎや、応援に入ってくれた他の管轄のヒーローとのやり取りもあるだろうが、ふつうなら遅くても夕方ごろには事務所に帰ってきてもいいはずだ。
ふと時計を見やると、もう夜の十九時を回っていた。
「ねえ、ショートくんたちからなにか連絡あった?」
「や、入ってないです。珍しいですね」
彼の言うとおり、ふだんのショートくんの事務連絡はこまめだ。仕事が長引いたり戻りが遅くなるときも、なるべく事務所のみんなにそれを伝えてくれる。それに、爆豪も一緒に行動しているはずだし、ふたりともが連絡を忘れるなんてことも考えづらい。
今日はスマホにも事務所の固定電話にもそれがないことを思うと、すこしずつ胸のあたりがざわつき始める。
念のため、とふたりともに電話をかけるも、
「……出ない」
と思わず独り言を呟いて終わった。
ただいま電話に出られません、御用の方は――と繰り返される無機質な声に、無性に不安感を煽られる。
まさか何かあったんじゃ、と思いテレビのチャンネルを変えてみると、ショートくんとダイナマイトが市内で戦闘をする短い映像が流れていた。
『本日午前十一時ごろ、市街地の路上を車で暴走した実行犯グループがヒーローの手により無事捕獲されました。実行犯グループの個性≠フ使用により、一般人の重軽症者が七名発生しましたが、いずれもすでに病院に搬送され、命に別状なはいと見られています。チームアップ初日にも関わらず、同じ雄英高校のクラスメイトであった若手ヒーロー二人の見事なチームワークにより、事件は迅速に、そして最小限の被害に食い止められ――』
テレビの中では、事件はすでに無事に解決したものとして語られていた。
事件に巻き込まれたわけではないことに一抹の安堵を覚えつつも、胸騒ぎは収まらない。
そのとき、握りしめていたスマホが震えた。
画面に並んだ「轟焦凍」という文字を見て、私は通話ボタンを押すやいなや、確かめるように彼の名前を呼んだ。
「焦凍くん! 大丈夫? ごめん、いまニュースは見たんだけど、なんか嫌な予感がして心配で電話かけちゃって――」
しばらくの沈黙のあと、電話の向こうで「ああ」と小さく頷くような声がした。彼の声だ、じんわりと安堵が滲みはじめる。
「連絡ついてよかった、今どこにいるの?」
『……病院』
「……もしかして、怪我した!? すぐ行くよ、どこ?」
慌てて立ち上がってバッグに荷物をしまいながら尋ねる。それなのに、電話の向こうの彼は悠長に押し黙っている。
ふっと、違和感が胸をよぎる。
その声はたしかに焦凍くんのものなのに、「大丈夫だ」とか「心配すんな」とか、いつも焦凍くんがくれる言葉はひとつもくれない。
確かめたくて「焦凍くん?」ともう一度呼んだら、彼は「大丈夫だ」の代わりに、とある市内の大病院の名前を告げた。
幸い軽い怪我だったが、個性≠ノ巻き込まれたのもあって念のため診てもらったのだ、という彼の説明を聞き終わらないうちに、私は事務所を飛び出し、大通りのタクシーを呼び止めていた。
「なにか必要なものとかある?」
電話に向かってそう尋ねると、焦凍くんはしばらく押し黙ったあとに答えた。
『……ねえ。つーか別に来なくてもいい。大した怪我じゃねえから』
微妙にテンポが狂ったような、いつもより温度が一度低くなったような受け答え。
どこか静かに突き放すような声色に、ずきりと胸が痛む。
「でも……顔だけでも見に行っていいかな。心配だから」
弱々しい私の声に、焦凍くんも小さく「わかった」と頷く。
なんの躊躇もなく切れる通話。そのあとも、しばらく暗くなった画面を見つめていた。
――具体的になにがと問われれば返答に困ってしまうけれど、なにかが変だ。
彼が少なくとも「軽い怪我だ」と自称できる程度であることはわかっていても、胸騒ぎは静まらない。この目でいつも通りに「心配すんな」と笑う焦凍くんを見るまで、きっと私は眠れもしない。
焦凍くんに言われた部屋の引き戸をノックすると、かすかに足音が近付いてくる。
ゆっくりとその白い引き戸を開けてくれたのは、紛れもなく焦凍くんだった。修繕に出さなければならない程度には傷付いたコスチュームのまま、その両頬には白いガーゼが貼られている。
「……息切れしてる。走ってきたのかよ」
私を見下ろして、低い声で彼がそう言う。
「……ごめんね、むりやり押しかけて。でも、よかった。安心した」
「大したことねぇって言っただろ」
すこし呆れたように彼は言う。
目の前に焦凍くんが無事で立っているということがわかると、張りつめていた何かが一気に緩んでしまって、思わずその胸元に飛び込んでしまう。
溶かすみたいに温かい体温に泣きそうになるけれど、しばらくのあとも、その両腕は私を抱き締め返して応えてくれることはなく、むしろ一瞬、体が強張ったのがわかった。
はっとして慌てて体を離すと、焦凍くんの両腕は宙で彷徨っていた。
「ご、ごめん……!」
焦凍くんの返事はない。
一文字に唇を結んだまま私を見て、どこか神経質そうに柳眉を寄せると、深くため息を吐いた。
「どうしたの」
「……なんでもねえよ」
「ううん、さっきから変だよ。ほんとに無理してない?」
とうとう彼は広い背中を私に向ける。すこし俯いた彼の行儀よく首に添う襟足は、なにも語ってくれない。
「……焦凍くんのこと、何年見てきたと思うの」
私の言葉に彼はゆっくりとこちらを振り向く。
不快そうに細められる両の目が、まるで私を憎んでいるかのように鈍くぎらついているので、やっと確信した。
私がゆっくりと唇を擡げるのを見て、身構えるように彼も指先に力を込めるのがわかる。
「……焦凍くんじゃない、よね」
「なんでそんなこと言うんだ」
「だって、目付きも話し方もちがうし」
「俺が轟焦凍じゃないなら、お前は俺を誰だと思ってんだ?」
本物の焦凍くんみたいなまっすぐな視線が貫いてくるのに、その裏には、試すような鋭い悪意が透けている。
――この感覚を知っている。
私が知っている人であることは間違いないと思いつつも、焦凍くんの姿や声が、霞のように思考をぼかして邪魔をする。
困惑して言葉を失くしていた私を見かねたのか、やがて彼は大きなため息を吐いた。
「……ッチ、やめだ、やめ! アホくせェ。反吐が出る!」
ひどく刺々しい言葉が、彼の薄い唇から紡がれる。
細い髪をわしゃわしゃと乱して、彼は部屋の奥へと踵を返してしまった。
「えっと……爆豪?」
ひとりの男の名前が自然と想起させられたかと思えば、次の瞬間には零していた。
目の前にいる「轟焦凍」の姿をした男は、私をじろりと睨むとまた舌打ちをするだけで、否定はしない。それが答えだというのだろうか。
「……オイ轟、あの医者の言う通り、全員に隠すなんて無理があると思うんだが。少なくともこいつひとりぐらいは巻き込んで、元に戻るまで待つしかねえ。ハァ……ットにクソだな」
茫然としてその異様な光景を見つめていれば、白いカーテンで仕切られていたその奥の空間から、「爆豪勝己」が姿を現した。
「……なまえ、来てくれたんだな」
ふだんの爆豪よりもはるかに柔らかな物言いに、このにわかには信じがたい光景を、信じざるを得なくなる。
「……焦凍くんなの?」
「ああ、中身は俺だ。びっくりさせてごめんな。爆豪に見えるだろ」
「う、うん。見える」
「見りゃ分かること聞いて呑気こいてんじゃねェ!」
焦凍くんがまるで爆豪みたいに爆豪を怒鳴りつける、そのあまりに珍妙な光景に頭を抱えたくなる。
いくら状況整理しても追い付かない。なにかの悪ふざけではないか、とふたりを交互に見やる。
「……なに疑っとんだ。誰が好きでこんなドッキリ仕込むかよ」
全てが煩わしいとでも言いたげな顔で、焦凍くんの姿をした爆豪はソファの上で豪快に足を組んだ。
彼の声には余裕がなく、かなり参っているのが見て取れる。
「疑ってごめん」
「……ッチ」
「……でも、どうするの。さっき焦凍く……いや、爆豪が『個性≠ノ巻き込まれた』って電話で言ってたのって、要はこういうことなんだよね。焦凍くんが爆豪で、爆豪が焦凍くんなんだよね。今日の昼間の事件でこうなっちゃったってこと?」
「ああ、そうなるな」
「……個性≠フせいなら個性≠ナすぐ戻せって言や済む話だが、この個性≠フ持ち主は生憎、今日の敵じゃねェ。唯一、唯一出しちまった重傷者の一般人だ」
掠れる声が、爆豪の後悔を表していた。
「さっき俺らもその子に面会に行ってきたんだが、怪我と個性≠フ暴発のせいで気を失ったように眠っちまってる。もしかするとしばらくは目覚めないだろうって、医者が言ってた。毎日様子は伺わせてもらえるように頼んだんだが」
要するに待つしかねェんだとよ、と爆豪は苛立ちの滲む声で言う。
私が「ヒーローの仕事は」と小さく尋ねると、二人とも冷静に息を吐いた。それについてはまっさきに相談済らしい。
「やンだよ、このままな」爆豪が反吐を吐くように言った。
「……そのまま? ほんとに?」
「幸か不幸か分かんねぇがチームアップ中だしな。最低限のカバーぐらいはできる環境だろ」
「むざむざ日の下に弱みなんか曝け出せるかよ。てめェもせいぜい協力しろや」
「たしかにそのほうがいいと思うけど……私、なにしてあげられるんだろう。当たり前だけど、こんなことはじめてだし」
ふたりのほうがはるかに戸惑っているにちがいないのに、思わず表情が強張ってしまう。
口をひらいた焦凍くんが、やわらかに言う。
「仕事中も近くにいる共通の知り合いなんて、お前くらいだろ。近くにいてくれるだけでいい。状況を知ってて頼れる人間がそばにいるだけで、だいぶ助かる。なあ、爆豪」
「同意求めんな」
「迷惑かけるけど、よろしく頼むな」
そう言って焦凍くんはゆっくりと立ち上がった。
本来は爆豪のものであるその体は、焦凍くんの体よりも手当の数が倍ほど多い。腕に巻かれた白い包帯が痛々しい。
なにか買いに行くなら私が行くよ、という申し出は丁重に断られて、代わりに「じゃあ一緒に来るか」という返事が返ってきた。本物の爆豪と話しているとき、いつも刻まれている眉間の皺はそこにはなかった。
病室を出て白い廊下を彼と並んで歩いていると、体が浮つくような違和感に包まれた。
焦凍くんといるような気にも、爆豪といるような気にもなる。後ろめたさも嬉しさも綯い交ぜになったなにかが、私に覆い被さっていた。
「……傷、痛くない? ちょっと派手にやられちゃったね」
「……いや、これは爆豪が子どもを庇ったときのだ。まだいてェけど、爆豪のほうがもっと痛かっただろうな」
焦凍くんは自分のものではない体に視線を落としながら、低い声で言う。
後悔するような焦凍くんの声の響きも、目に映る傷付いた爆豪の腕も、そのどちらもが心臓をずきりと傷めた。
「なにか手伝えることあったら言って」
「……いいのか」
「いいに決まってるよ」
私にとっては当たり前のことなのに、なぜだか彼の赤い目は驚いたように丸くなって、じっと私を見た。
かすかに潤んだような目元に、歩みを止めてしまう。
「どうしたの、痛む?」
「……いや、わりぃ。お前とちゃんと話せて、安心してんだ。このまま戻ってこないんじゃないかと思ったから」
「戻ってこないって、どこから」
「……さっき、俺もいろいろ処置が終わってすぐにお前に電話したんだ。手元にあった、爆豪のスマホでだけど。そしたらあいつとタイミング被っちまったんだが、お前は……たまたまかもしれねぇけど、俺の名前の着信取って、走って俺んとこに来てくれただろ。でも、お前の目の前にあるのは俺の体だけで、俺はお前と爆豪のこと、端から見てることしかできなかったから」
気付かなかった。あのときの私は、とにかく焦凍くんが無事かどうかで頭がいっぱいだった。
「……あのままお前があいつのものになっちまうんじゃねえかって怖かったんだ。だから、俺じゃねえって気付いてくれて、嬉しかった。ありがとな」
わずかに弧を描くような笑み方に、本来の焦凍くんの姿がはっきりと脳裏に浮かんだ。
胸がぎゅうと締め付けられて、苦しい。消毒液の鼻をつくようなにおいも相まって、すこし泣きそうになった。